和歌山城
私は和歌山生れでなく、ながく住んだこともないから和歌山を故郷といえないかもしれない。しかし和歌山はなつかしい私の父祖の国である。私の脈管には和歌山人の血が多分に流れている、私は和歌山へ行くときにはさながら故郷へ帰る思いがするのである。帰心矢のごとく阪和線や、南海電車で、泉南の野を一路南下して、紀泉国境のトンネルをくぐりぬけるとエメラルドに輝く南国の空のもと、濶然とひらける紀の川デルタのまん中に、小高い山の積翠を描いてそそりたつ白堊三層の城楼を望見したとき、はや故郷の心に触れた思いで私の胸は懐かしさでふくらむのである。この城楼こそ私の祖先が14代、253年にわたって鎮した和歌山城、またの名、虎伏山、竹垣の城である。
和歌山城は天正13年豊太閤が紀州平定の際自ら縄張りを命じて築かせたもので、はじめ羽柴秀長の城代桑山重晴が在城し、ついで浅野幸長、長晟父子がいたが、元和5年私の遠祖、徳川家康の第十子南龍公が南海の鎮めとして入城したのであった。
南龍公は城の要害に深い関心をもっていた、「獅子は百獣の王であるが、なお要心して険崖に巣をつくる、武田勝頼が天目山でアッ気なく敗れたのは勇武のみをたのんで要害をおろそかにしたからだ」といった意見で、和歌山城を根本的に補修したのであるが、あまり工事が大規模なので幕府から異心を疑われたほどであったが、和歌山城はこの頃に始めてできあがったものらしい。爾来紀州徳川氏の代々がうけつぎ、明治4年私の祖父茂承が藩籍を奉還するまで天下の親藩、55万5千石の府城として威容を誇ったのである。
その間弘化3年7月26日昼、雷火のために天守閣が炎上したことがある。幕府の掟は城郭の再建を許さなかったが、時の藩主第10代治寶のたっての請願で免許せられ旧形どおりに復興した。だから和歌山城は全国でももっとも新しい城であるといえる。
のち廃藩となって旧物破壊の風潮のうちに本丸、二之丸、西之丸の殿舎、多門櫓楼塁壁などすべて破壊せられたが、天守閣だけは一部の人々の反対阻止があって毀却を免れたのはうれしいことであった。そして私が父祖の城としてこれを懐かしんだ以上に、城下の市民県民は郷土のシンボルとして、これを仰いで歴史をしのび、愛郷心をかきたてた。かくして明治34年には旧城内は開放せられて公園となり、ついで昭和10年天守閣は国宝に指定せられて、そのけだかい雄姿は文化財、観光財として地方随一の誇りであった。
しかるにかなしいことに今次の大戦がまさに終らんとする昭和20年7月9日夜、和歌山市は米機大編隊の空襲をうけた。市内の建物の6割8分が灰燼に帰した。恐怖の一夜があけた翌10日朝市民のふり仰ぐ目に日頃なじんだ城楼の姿が忽然とかき消されていた。大魔鳥のようなB29が旋回しながら執拗にくりかえし、くりかえし投下するエレクトロン焼夷弾、油脂弾の雨を浴びて、天守閣は華々しく美しいイルミネーションの楼閣を現出し、数時間で焼落ちてしまったのであった。
私は東京目黒の邸で城楼炎上を聞いて暗然とした。戦後高垣和歌山市長等心ある人々によって城楼再建の計画があることを聞かされて大いによろこんだものの、私の今の境遇ではどうともできないのが何よりも悲しかった。しかし何んとか協力する術がないものかと、いろいろ思案したあげく、先祖代々の菩提所、和歌山県海草郡下津町の長保寺に寺内山林から伐りだした多量の戦時献木が未進のままに積まれているのを知り、これに不足分を伐りたして、城楼再建の用材にしたらと思いつき、早速市県に寄附を申し込んだ、これが私のなしうるせめてもの心づくしであった。
私はおのれの微力をうらみながらも一日も速く城楼の再建を待ち望んでいる。今もなおまぶたにまざまざと残るあの雄姿をもう一度現実に見たいものだとひたすらにこい願っているのである。
始祖頼宣をしのぶ
紀州藩主の末裔でありながら東京に生れ東京で育ったため、先代頼倫の葬儀を営むため、和歌山長保寺に赴いた外50余歳の今日に至るまでわずか3、4回しかも短期間しか和歌山に滞在したことがなく、ために紀州に関し実地の認識極めて尠なく紀州の土地になじめなかったことはまことに残念で申し訳なく常に不幸に思っていた。
ところが終戦後昭和23年、28年と2回の参議院議員選挙に郷党有志の推挽によって地方区和歌山県より出馬し、2回共最高点当選の栄誉をかちえたのは全く予想外でいかに県民が私に寄せられた支持の絶大であったかを如実に示され、衷心感謝の念に堪えなかった。まことにこの選挙運動によって全県下を遍く巡回するの好機に恵まれ、親しく県民にまみえ県下の風物に接し、その真情を明らかにすることを体得したことは私生涯中の一大収穫であったと思う。
始祖南龍院頼宣は徳川家康の第十子で元和5年18歳で駿河より紀州に移封された。頼宣は仁君といわれその52年の治績は枚挙に遑なく蜜柑、梅干、漆器、醤油、瀝紙などの現在紀州の特産としてうたわれているものは皆その施策に負う所極めて多いと伝えられている。
紀州は一般に平地が少ない。頼宣がはじめて有田地方を巡視した際、この山間の寒村にはこれぞという産業もなく、里人の窮乏甚だしく、なかには衣服を纏わぬ者あるを見て深くこれを憐み殖産救民に意を用いその風土の蜜柑の栽培に好適なるを看破して、大いにその栽培を奨励した結果、有田蜜柑が俄かに増殖し民また大いに富むに至ったという。明暦2年江戸大火の結果売付蜜柑代金の不払問題が起った際、頼宣は荷主の陳情を容れてこれを解決し、さらに江戸における紀州蜜柑販売のために土地を貸与するなど蜜柑の栽培、販売の保護政策を徹底的に実行した。今日名実ともに紀州蜜柑の隆盛を誇りうる起因は遠く頼宣の蒔いた力に俟つものまことに多いのである。
頼宣は寛文11年70歳で逝去、南龍院と諡し、海草郡長保寺に葬りまた和歌浦に南龍神社として祀られ衆人の尊崇を集めたほか、紀州封内に南龍公を祀れる神社所々に見受けられ、いかに頼宣が仁政をしかれたかを知ることができるのである。
今その一例を挙ぐれば有田郡箕島町には特に頼宣の恩恵を受けた矢櫃浦に南龍神社を祀ってあり、また昔同町出身者で伊万里焼の商権を握り江戸を中心に関東、東北方面に広く手を伸ばし活躍した瀬戸物商が紀州藩侯の加護を蒙って隆昌を極めたという縁故から、私の当選を特に喜んで町の有志が代表し態々上京し私を訪ね、「当選のお祝を兼ね歓迎懇親会を催したいから矢櫃南龍神社お祭の前々日すなわち明24年2月4日(旧正月8日)にぜひ来町されたい」と懇請された。この心うれしい申しいでに、私は喜んで出席し、町民の方々と南龍公の業績をさかなにして愉快な一夕をもったことである。翌5日(旧正月9日)宮崎(有田川左岸すなわち箕島町の対岸で約3千米遠く海に突出)の鼻に近い矢櫃という150戸の一漁区に案内された。そこは祖先頼宣が紀州熊野の古座(今の古座町)の隣、津賀津から茂兵衛、茂太夫という屈強な二夫婦を召し来りここ矢櫃に住まわせ、エビ船、エビ網等の漁具を与えここを基地として紀州領海での漁獲を許し、かつ免租の恩典を与え、漁業に努めた結果今日105戸の漁区になったのである。この恩義に感じて頼宣の木像を刻みこれを安置し南龍神社を建て爾来毎年2月10日頼宣の命日にお祭りを施行することになっている。
この朝村の青年達が沍寒を冒し勇躍裸体となり海中に飛び込み身を清め、裸体の儘海岸の戎神社から神酒を奉持して南龍神社に走り詣で、さらに木像を奉持して会場の祭壇に移し村の役員と70歳以上の高齢者を招き仏式にて追悼の後一同昼食をかねて祝宴を挙げた。
午後は各種の催しもので賑わい、夜は浄瑠璃、漫才、浪曲などで歓楽を極めた、私は親しく一漁村の南龍神社の祭礼に詣で村の老若男女に接し心からなる歓迎を受け、かつまた同夜はからずもその漁村の一民家に一泊しえたことは極めて印象的で、いまさらながら祖先の遺徳がしのばれ感慨無量であった。またこれを契機にこの地方有志結合して徳川会を創設し、私を支援してくださることになったことは、私の終生忘るることのできぬ感激であった。
しかし遠隔辺鄙の地しかも時期を定めて参詣することは、今の私としてはなかなかでき難いことであるから、そのばあい徳川会長の雑賀伊一郎氏に代拝して頂くことに約して帰来したのであった。
お祭り当日の供物中に一升の小豆が供えてあったが、それはかならず翌日下津町の長保寺に持参して南龍院の墓前に御供えすることになっているとのことで、恐らく頼宣は甘党であったのであろう。羊羹で有名な駿河屋をわざわざ連れて入国され、しかも苗字帯刀までを許していたというのだからその甘党ぶりは察するにあまりがある。駿河屋は、紀州のバックによって関西方面に牢固とした根をはって、江戸の虎屋に比されており、終戦後は、ついに東京でも誰知らぬ者のない盛大さとなった。私の甘党も、不肖ながらこれだけは徳川の血をついでいるということができる。先代頼倫の葬儀のとき、駿河屋は、会葬者全部に自慢の羊カンを振まってくれた。
長保寺
紀州和歌山は私にとっては、いうまでもなく心のふるさとであり父祖墳墓の地である。これを端的に物語ってくれるのは長保寺である。ここには父頼倫まで15代の墓所がある。このうち、本家を継いだ5代吉宗は上野寛永寺に、13代家茂は芝の増上寺に葬り、14代茂承は明治維新に際会して東京在住の上からと伏見宮家より御迎えした倫宮貞淑夫人を明治17年東京池上本門寺に葬りある関係もありし故茂承もまた、池上本門寺に墓所を設け、ここ長保寺には遺髪だけを埋めている。
長保寺は和歌山市から紀勢線で30分、もと浜中村といったが今は附近を合併した下津町にある。この地一帯は加茂谷とよんで、三方は山、一方は海で昔の要害堅固の地である。頼宣はここを死守の地と考えたらしく、和歌山落城のさいはかねて城内より設けた抜け穴(地下道)から和歌の浦にほど近い雑賀崎浜にで、船でここに落ちのびるつもりだったという。
頼宣の墓碑はなつめ形柱状で無銘である。伝えでは背面の石畳の下は深井戸になっていて万一のときは墓碑を投げ込む用意がしてあるとのことだが眞疑のほどはたしかめていない。
以前、私はここを訪れることは稀だった、明治39年夏、祖父茂承の遺髪埋葬式にまだ少年だった私は母に伴われて参詣したがそれから永く途絶えていた。しかし大正14年父を葬って17日参篭していらい、ときおりの法要と、また戦時中の疎開が縁となりなじみの深いものとなった。
この寺はおよそ千年前一条天皇の勅願で長保年間に創建したので長保寺というのであるが、現存する本堂、大門、多宝塔は鎌倉様式を伝える国宝建造物である。以前は七堂伽藍が備わり、12ヵ坊あったそうだが今は2ヵ坊だけ残っている。堂塔はどれも小じんまりした質素なものだが、いかにも均斉のとれた美しいもので春は桜、秋は紅葉と、南受けの山腹にしっくり調和して見える。大門の仁王は、運慶、湛慶作と伝えられるが、形相も筋肉怒張の工合も、奈良東大寺南門の仁王にしごくにかよっている。頼宣は寛文11年死亡し、南龍院と諡号してここに埋めたが、生前にこの地を卜して香花所と定めたのである。寺領は500石であった。
15代の墓所は、夫人側室等も含むので広域である。下山一帯は簾中、谷を隔てて上山は歴代、各墓所ともそれぞれ独立した廟をなしているので、これをつなぐ石階や参道、当時大小名の寄進した石燈篭だけでも大変で全く封建時代の遺物である。近年手入が行き届かないので荒廃しているが、地許ではこれを惜んで文化財保護のうえから廟所全域を史跡として指定を受け維持保存に力を入れたいといっている。
廟庭に入る門際に宝蔵と名づけている小さい倉庫がある。ここには国宝の釈迦ねはん図等のほか歴代の遺品を保存している。手入がよく行き届いているせいか衣装、書画、調度などまだま新しい感がある。文人として親しまれた9代治貞、10代治寳の物した花鳥図等も昔懐かしいものだ。下津町は最近油の港として全国でも屈指の貿易港になった。港をはさんで東燃、丸善の2大製油所があって商工業都市として益々発展してゆく。長保寺も町の繁栄とともに、観光遊覧の場所として利用したらあるいは時代的な一役を果たすことにもなろう。
時の流れは人の推移とともに世の姿が変ってゆく。和歌山城も戦災で炎上し、あちこちの所縁の地も失せてゆくが、やがてここ長保寺は地元有志の発起によりあったかい力強い庇護支援をえて維持保存され新時代の息吹きを浴びてそれぞれによみがえるのはうれしいことである。
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