南紀徳川家の菩提寺長保寺
徳川家御廟所
頼宣の新政は、土豪の日常生活に関係ある旧慣をそのまま認めてはいたが、藩政確立のための強力な支配体制をつくる基本方針は崩していなかった。だから、他面では、荘園制度の遺制である荘郷にかわって、領内を67組にわける行政区域の組み替えを行った。
この政策は、紀ノ川、有田川流域平野では、旧荘郷内において割合に早い時代から近世的郷村形態が発達していたので、スムーズな移行ができたが、熊野三山などの勢力の強い両牟婁日高などの紀南は少し違った様相を示した(社会経済史学第11巻第7号伊東多三郎近世封建制度成立過程の一形態)。そのために頼宣は、入国以来、藩の中央集権確立のために、とりわけ紀南の統治に力を入れねばならなかった。こうして藩内各地を頻繁に巡行して藩政を確立していった。弱冠18才で入国してきた彼ももはや60才を過ぎていた。半世紀に及ぶ頼宣の藩政は、南紀徳川の基礎固めにあったといってよい。
入国後47年目の寛文6年(1666)のこと、熊野巡見からの帰途、彼は、海士郡の名刹長保寺に立ち寄った。長保寺は由緒深い歴史をもつばかりでなく、三方が山にかこまれ、一方は海路の便があるところから戦略的な地形をもっていたので、頼宣がこの寺を気に入り、天台宗に改宗して南紀徳川家の菩提所に定めたという話がある。また『南紀徳川史巻之一』によれば、「寛文六年南龍公この地を経歴し給ひて、数百年の久しきを歴て、兵燹狼藉の患を免れ、七堂古のままに伝はりしを感じ給ひ、且その地山巒環抱して外幽にして内敞に萬世兆域の地となすへきを察し給ひ、則ち仏殿一宇を建立し、真言を改て天台宗に復せしめ給ふ」とあり、それをある程度裏づけている。この時に建立された仏殿はのち、御位牌殿となって今日までのこっている。長保寺は居城和歌山よりほど遠からぬところで由緒ある寺院という点だけではなく、近世初期のこととて、藩政がまだ固まっていない頃であるから、内憂外患についての備えも必要であった。そこで和歌山城が落城の時に、長保寺まで退いて、藩侯の位牌を守って戦うために、選ばれたという推察まで生んでいるほど、頼宣の菩提寺設定に慎重な配慮があったように伝えられている。しかし、これより16年前の慶安3年(1650)9月、頼宣の命をうけて、豪倪僧正がひそかに菩提寺選定のため、和歌山付近の寺院を物色した形跡がある。すなわち「当寺(雲蓋院)へ立寄られ候、逗留の内、長保寺、梅田釈迦堂、六十谷(大同寺)へ参られ候節の沙汰には、故大納言様(頼宣を指す。この記録は元禄3年に書かれたものであり、頼宣の死後であるから故がついている)御廟の地かねてしらべ申され儀と潜に申候」とある(史料編上雲蓋院文書)。頼宣はこの時江戸にあって、豪倪因州は江戸の頼宣にその候補として、六十谷の大同寺、梅田の釈迦堂、浜中の長保寺の三ヵ寺をあげて報告している。頼宣は天海僧上との交際もあり、天海の系統をひく豪倪因州が頼宣に用いられたのは当然であった。この三ヵ寺はいずれも天台宗である。大同寺は「この節六十谷の寺、天台宗と申すことはじめて承候」とあって、慶安3年の調査時にはすでに天台宗になっていたようである。釈迦堂もすでにこの頃天台宗になっていた(雲蓋院文書)。
したがって菩提所の選定について、南紀徳川にふさわしい名刹を物色するのに、頼宣自身ある程度の考えが働いていたことは事実であろうが、いっぱんに通説となっている和歌山城落城後、最後のとりでとしてたてこもる拠点と考えたかどうかをうらづける史料はまだ目にしていない。頼宣は和歌山へ入国してからうち出した政策もあろうが、封建時代の基礎となる検地については浅野時代のものをそのままうけついだようである。それからみても浅野から徳川へと政権がかわっていく過程で、藩全体の体制が着実に形成されてきており、もはや統治していくうえで支障を及ぼすほどの深刻な社会情勢ではなかったから、頼宣がある種の危機感をもって、菩提寺を選んだとは考えられない。
この動乱期に他地域にくらべて比較的平和であった加茂谷も、荘園体制は完全に崩壊し、中世的な権威は失墜して名刹長保寺も荒れるにまかせていた。これを憂えて元和年間に堂塔の大修理をしたのが最勝院住職恵尊法院である(本章第六節参照)。彼の努力によってかろうじて長保寺の体面は保たれていたが、財政的にけっして豊かでなく、細々と半世紀が過ぎていった。長保寺は、南紀徳川家の菩提所と決定したのは、寛文6年(1666)のことであった。その時に頼宣によって記されたといわれる書状がのこされているが、それには、「吾可必以天台宗葬、葬儀有軽重、只於本寺可従其軽以営之是無他」と天台宗葬をもって質素な葬式を営めとある。一般には頼宣の遺言状といわれる(史料編上長保寺文書)。この時に、長保寺は真言宗から天台宗に改宗しているが、頼宣の考え方に左右されるところが大きかったのではないだろうか。ついで寛文9年(1669)に頼宣は、内藤七郎左衛門尉利忠、原田権六、藤原□春の三人を建立奉行に命じ、藩営事業として修復工事を行っている。寛文11年(1671)正月10日、南紀徳川の礎を築いた頼宣は大きな足跡をのこして逝去した。頼宣の遺命によって、同月24日に葬式が営まれた。「あらかじめそのところを定め逆修をいとなみ、この時かねて仰せ置かれる通りに従ひたてまつるなり」と『南紀徳川史巻之四』に記されている。
長保寺領
中世の荘園においては、権門社寺は荘園領主となってそれを管理していたが、戦国時代の動乱は、この体制を徹底的に破壊したので、権勢を誇った社寺の中には、所領を奪われて衰亡したものも数多く、長保寺もその例にもれなかった。このようななかで、長保寺は、慶長6年(1601)12月6日に紀伊国主浅野左京太夫幸長によって、浜中上村で5石の寄付をうけている(史料編上長保寺文書)。近世初期頃の衰亡ぶりがしのばれる。当時の長保寺は、本坊陽照院と、子坊地蔵院・福蔵院、最勝院、本行院、専光院の五ヵ坊からなっていたようである。
徳川家御廟所となってからの長保寺は頼宣の死去とともに、寛文11年9月10日に500石が安堵されて505石となったが、この時、2代藩主光貞が陽照院にあてた書状によると「因ってここに新たに五百石の田地ならびに山林を付す……」とある(史料編上長保寺文書)。そしてこの書状には、「各村田租各料所充載別紙にあり」とある。しかし、領地に絶対の権力をもっていたかつての荘園の所持者であった地位から徳川家というスポンサーによって保障された一個の知行主にすぎない存在にかわっていた。近世における寺院は、完全に封建支配体制下にはいってしまったのである。
寛文11年 |
寛文12年 |
|||||||
石 |
斗 |
升 |
合 |
石 |
斗 |
升 |
合 |
|
上 |
219 |
8 |
8 |
1 |
290 |
3 |
7 |
8 |
中 |
209 |
6 |
2 |
2 |
209 |
6 |
2 |
2 |
山田 |
70 |
4 |
9 |
6 | ||||
計 |
500 |
500 |
本田畑 |
新田畑 |
|||||||||||||||||||||
米 |
銀 |
米 |
銀 |
|||||||||||||||||||
元治1 |
石 |
斗 |
升 |
合 |
勺 |
才 |
〆 |
匁 |
分 |
厘 |
毛 |
石 |
斗 |
升 |
合 |
勺 |
才 |
〆 |
匁 |
分 |
厘 |
毛 |
子年物成 |
88 |
7 |
4 |
7 |
850 |
5 |
7 |
2 |
8 |
9 |
8 |
824 |
4 |
7 | ||||||||
丑年物成 |
116 |
9 |
2 |
7 |
3 |
17 |
324 |
5 |
3 |
2 |
8 |
9 |
8 |
2 |
84 |
3 |
4 | |||||
寅年物成 |
102 |
4 |
9 |
4 |
33 |
77 |
7 |
7 |
2 |
6 |
3 |
4 |
6 |
4 |
102 |
2 |
5 | |||||
卯年物成 |
117 |
2 |
6 |
9 |
7 |
25 |
303 |
2 |
8 |
2 |
8 |
3 |
9 |
8 |
3 |
150 |
1 |
3 | ||||
辰年物成 |
105 |
5 |
1 |
9 |
3 |
54 |
85 |
8 |
3 |
2 |
8 |
3 |
9 |
8 |
6 |
783 |
9 |
5 | ||||
明治1子〜辰5カ年平均 |
106 |
2 |
7 |
7 |
1 |
6 |
27 |
468 |
3 |
9 |
6 |
2 |
7 |
8 |
6 |
7 |
6 |
3 |
389 |
2 |
8 |
高 |
現米 |
|
石 | ||
御牌前諸入用、役僧給料飯料 |
100 |
50 |
御斉会料(1ケ月5斗) |
12 |
6 |
和歌御霊牌料 |
80 |
40 |
五カ坊領 |
200 |
100 |
鐘つき役料 |
100 |
50 |
釈迦堂御供灯明 |
5 |
2.5 |
計 |
505 |