頼宣(よりのぶ)は、家康の第10子として慶長7年(1602)年3月7日、山城伏見城に於いて誕生す。幼名を長福丸と称し、慶長8年11月、2才にて水戸20万石を賜う。翌9年(1604)12月5万石の加増ありて25万石となる。同11年8月、家康に従い上洛して元服、常陸介と号し名を頼将と改める。元和年中頼信、更に頼宣と改名した。
慶長15年(1610)駿河遠江50万石に改封され、水野対馬を浜松城主に、三浦長門を浜名の古城の主とし、安藤帯刀を横須賀の執権として、その他旗本たちの領分をきめて、行政に勤めた。
元和元年大坂夏の陣がおこった時、14才の頼宣は初陣であったが合戦に間にあわず手柄をたてられなかったことを残念がる。その姿をみた松平正綱が、「今日の合戦に間に合わなかったからといって、そんなに口惜しがらなくとも、殿はお若いから今後幾度も機会があります。その時いくらでも手柄をたてることが出来ましょう。」と慰めたところ、頼宣は正綱をにらみ、「わしに14才が2度くるか。」と言って父家康を感激させた。こうして家康の寵愛を一身にうけたと伝えられる。
元和2年(1616)7月、叙従三位中納言、元和3年正月22日、肥後の加藤清正第5女の御入輿となる。その後、将軍家より安藤帯刀に御内意あって 「紀州は上方の要害、西国咽喉の地なり。至親の人を置き度く、年若しといえ共、頼将はその任にふさわしいと思う。然しながら、駿河は神君御遺命の封国ゆえ、御遺命に反するから国替はむつかしいであろう」ということを頼将、帯刀より聞き、それに答えて、
「当家の御為に身命を惜しまず、上方西国の鎮守として尽したい」と申され、それを聞いた秀忠は喜んで5万石を加増し、紀州に勢州の一部を合わせて55万石、その上、松坂5千石をふやして、55万5千石にて元和5年8月13日、安藤直次、水野重仲、久野宗成、三浦為春等を従えて若山に入国、御三家紀州徳川の藩祖となる。
安藤帯刀に田辺城、水野重仲に新宮城、久野宗成に田丸城を守らせ、三浦為春を若山城代とし、そのほか旗本たちの領分をきめて軍職を制定し、次第に諸般の制度を布いた。諸職諸司を増設し、藩治に専念、藩内を巡視しては荒蕪寒村に産を与え、雑税を省き、殖産に力を尽くす。即ち、有田蜜柑、黒江の漆器、保田紙、布引の西瓜、矢櫃の海老漁業等枚挙にいとまがない。
寛永3年(1626)8月、従二位大納言に任ぜられる。幼少より資性剛明にして文武を好み、李梅渓、那波活所、那波木庵、呉五官、永田善斉、荒川景元等を儒臣として国政を司り、文化財保護にもつとめられた。
寛文7年(1667)67才にて隠居城西別館に隠栖された。同11年正月、年70を以て薨去す。
従二位権大納言。海草郡下津町の菩提寺慶徳山長保寺に葬られる。頼宣公入国以来50年、安藤、水野の両氏をはじめ数多くの文武の名臣を得て、藩政の基礎を築かれた。
法号 南竜院殿二品前亜相 永天晃大居士