5代 吉宗

 貞享元年(1684)10月21日光貞第4子として若山吹上屋敷、のちの御誕生長屋にて生まれる。幼名源六、元禄7年(1694)2月新之助と改名。元禄8年(1695)12月11日叙従五位下、同年12月28日主税頭に任ぜられ、同9年(1696)12月叙従四位下、左近衛権少将に任官す。元禄10年(1697)4月11日越前丹生3万石を将軍より賜り松平頼方と称す。
 兄綱教、頼職相次いで薨去す。宝永2年(1705)10月6日22才で家督襲嗣、同年12月朔日賜名吉宗、左近衛権中将に任じられ、従三位に叙せられる。宝永3年(1706)二品親王伏見貞致王女真宮理子姫を室に迎える。
 吉宗は常に小禄に甘んじ、苦労を重ねよく世情に通じていた。身を先んじて質素倹約、粗食粗衣を実行し、武備を重んじ一朝事有れば他藩にさきがけ三家の実を揚げる様藩士に武芸を奨励し、士気を鼓舞した。亦学問こそ藩治の基と心得、正徳3年(1713)城下湊寄合橋に講堂と称する学問所を設け、蔭山東門、祇園南海等に講義させ、学術向上につとめ、農耕にも力を入れて亀池を伊沢弥三右ェ門に築造させ、10ヶ村に水を注ぎ田地を養うた。紀州政事鏡上・下巻、紀州政治草一冊あらわし、藩政につとめ「政治の参考になることなれば小事にても遠慮なく申し出るように」と大手門の外に投凾を置き藩政に民意を反映するよう努めた、後の目安箱である。
 正徳2年(1712)6代将軍家宣薨去嫡子家継、尚幼弱ながら7代将軍を承けたが正徳6年(1716)4月30日病にて薨去す。閣老を初め三家の重臣等の相議により紀州の吉宗を推すことに一致されしが吉宗その任にあらずと辞したが再三の懇請にて遂に大統を承け年33才にて8代将軍となり、日頃質素倹約の吉宗の入国の日、木綿の着物に袴で入城した故に絹で美装して出迎えた家臣達を恥じ入らせたと伝う。
 享保改革を行い、立派な政治を行ったので享保中興の英主名将軍と崇められたが、寛延4年(1751)享年68で薨去す。正一位太政大臣を贈られる。有徳院と謚す、東京上野の寛永寺に葬られる。
  法号 有徳院殿贈正一位大相國尊儀



木国文化財協会・会長  西本正治