「
それ涅槃の真法は 入るにすなわ多途あれども、 その急要を論ずれば 止と観との二法を出ず
しかるゆえんは、止すなわち結を伏するの初門、観はまた惑を断ずるの正要なり
止はすなわち心識を愛養するの善資、観はすなわち神解を策発するの妙術なり
止はこれ禅定の勝因、観はこれ智慧の由籍なり
略明開蒙初学坐禅止観要門(天台小止観) 序
」
止観とは、つまり坐禅のことです
坐禅のやりかたを書いた本は、それこそ膨大なものがありそうですが、実は、天台大師の摩訶止観とその要点をまとめた、この小止観しかありません
摩訶というのは、サンスクリット語でmahaで大きなという意味です
ちなみに、マハラジャはmaha(大きな)raja(王様)です
大小止観で、坐禅を説明し尽くして、あとは、この大小止観の解説本しかありません
それだけ、天台大師が偉かったのと、やはり坐禅そのもがシンプルだからでしょう
きちんと学問的に言うと、手間がかかるので、はしょりますが(^^;)
はぁー、またややこしい話です
もともと仏教の修行の基本は瞑想で、それをシャマタ(止)ビバシャナ(観)と言い、つまり、止観です
仏教独特のものです
タイ、ミャンマーなどでは、これしかやりません
しかしながらインドには、仏教より遥か昔から瞑想の伝統があり、それをyogaと言います
ヨガですね
これはサスクリット語で、「繋ぐ つなぐ」という意味です
英語のyokeの語源らしいです
古代インド伝統のyogaだけで問題が片付くならば、仏教の止観という概念を持ち出す必要ないはずです
まあ、お釈迦様が悟りを開く必要もありません
yogaは、人間以上の超越的存在(神様ですね)と、人間が「繋がる」という意味なのですが、
超越的存在人間
この超越的存在の、良し悪しを決めるのは誰でしょうか?
ここのところが、大問題なのです
神様は偉い、でかまいませんが、なにがどうして偉いのか
誰が決めるのでしょうか
それは、「自分で決める」というのが仏教です
価値観の尺度が人間に備わっていなければ、判断はつきません
つまり、「それが、仏性だ」ということになります
仏性が人間にあるから、
止—–あれこれ考えるのを止め
観—–心の底からわき起こる、正直な気持ちを観れば
なにをするべきかわかる、ということになるのです
人間には神様の価値を見分ける力がある、というのが仏教の基本的な考え方です
しかし、yogaは、インドの長い歴史のなかで、仏教に取り入れられていきます
お釈迦様が入滅してから、神格化が始まり、釈迦イコール神、になっていき、その神との合一が求められるようになります
神格化は、仏舎利信仰から始まり、その仏舎利を祀る仏塔、そして神格そのものへと深化していきます
最終的に、大日如来を中心とした曼荼羅に集大成されます
ここまでのプロセスに約1000年かかっています
日本に伝わった密教は、歴史的には、神格化の途中のものです
哲学的には最も純粋なものだと思いますインドやチベットでは、肉体的なチャクラとか、それまで外道扱いしてきた神々を取り入れて、オカルト化を進めていきます
チベットでは、ツォンカパが、あまりに呪術的になった密教を仏教として再生しようとします
そこまで、魔法化してしまったのです
インドでは、イスラムによる徹底的な破壊を経て、ヒンドゥーの中に埋没してしまいます
お釈迦様を神様にしてしまいましたから、ヒンドゥーでは、ビシュヌの9番目の化身にされてしまっています さてたとえ、仏教の神様や菩薩様であっても、自分の都合だけで拝んでいれば、それはオカルトになりかけている、ということですね禅宗は坐禅しかやりませんが、正気を維持するには、一番てっとり早い方法かもしれません
今の天台宗では密教しかやりません
非常に洗練された方法で拝みます
しかしながら、基本を忘れたらいけませんよ、ということです