有余涅槃とポジショントーク

クシナガラ 涅槃堂

肉体を持っている状態で悟りを開くと、まだ完ぺきな状態でないということになって有余涅槃だということになります
肉体を捨てる(つまり死んで灰になる)と無余涅槃で、余すところなく、悟りの状態だと
肉体があるうちは、生きることにまつわる煩悩から完全に解放されないと考えるからです

釈尊は、ブッダガヤーで悟りを開いて、もうそのまま涅槃に入ろうとしたと伝えられています
それを、梵天が現れて、ぜひ衆生に説法してほしいと頼んで、長い伝道の道に入りました
無余涅槃にすぐ入ろうとしたのを、引きとめられて、有余涅槃を続けたわけです

株式相場の用語らしいですが、ポジショントークという言葉があります

株が上がるか下がるかよくわからない時、自分が株を買って持っていると、「株は今後上がるでしょう」ともっともらしく解説し、自分が売っていると、「株はもう駄目です。下がります」と解説します
自分が買っているか売っているか(これをポジションを持つ、と言う)で、自分に都合のいい話をするのです
そういうことがあるので、たとえば、日経新聞の記者は自分で株をすることは禁じられています
勝手に、自分に都合のいい記事を書かないためです
それと、自分が買って持っていると、どうしても、上がる材料のほうを評価してしまうのです
不利な材料が出ても、正しく分析できなくなってしまいます

たとえば、同じようなことは、戦争報道にもあります
誰でも自国の軍隊が有利なような話を好みます
負けて敗走しても、転進などと無意識に言い換えてしまったりします

身内のことや、自分の子供でも同じです
どうしても身びいきします
それが、むしろ自然です
客観的に考える、などと言えば、「冷たい奴」ということになります

それで、肉体がある、というのは、つまり、ポジションを持っているということです
自分に都合のいい話をどうしても過大に評価します
肉体を維持するためには手段を選ばぬ、ということにもなります
古神道では、肉体のない自然霊のほうが格が上と考えるらしいですが、まあ、一理あります

では、なぜ、釈尊は有余涅槃を選んだのか
梵天に頼まれたというのもあるでしょうが、すぐに無余涅槃に入ってしまえば、人々が真実に触れることができず、闇のなかに取り残されるからです
説法を聞いても理解できない人も多いが、説法を理解できる人もいる、とお経には書いてあります(このへん、案外シビアです)

ですから、ポジショントークは、全て悪いかというと、そんな単純ではない、ということですね
釈尊がポジショントークをしてくださったおかげで、今の我々は仏教に触れることができるのですから

仏教の中にある、現世利益は、だから、まったくのポジショントークですよ
現在の宗派仏教もポジショントークですな
伽藍の維持管理、仏像修復など、完璧な、無余涅槃じゃないのです

ポジショントークには、混じりけが有る、ということをですね、忘れちゃいけませんね