心経玄談

般若心経の話です

ほとんどの人にとって、あまり関心のないことかもしれませんが、実は重要です

般若心経の有名な一節に「色即是空、空即是色」という部分があるのですが
図式で表すとこうなります

我々は外界を感覚器官で感じて、それを脳内に再構築することで認識しています
この時、自分勝手な解釈とか、思い込みや誤解で、認識に歪みが生じ、それが諸々の不幸の根本原因になっていきます

感じるのをやめてしまえば、「空」だけが残りそうなのですが、生きている限り、感じることは停止しません
では、極端な話、死んでしまえば「色」が消えて「空」だけになるかというと、我々の生存そのものが「空」の一部分なのですから、「歪んだ認識」が「空」に刻み付けられたままになります
なかなか、「厄介な問題」です

さて、般若心経では「色即是空、空即是色」と順逆説く時に、「色」を先に説いています
ここに、実は、般若心経なりの、この「厄介な問題」の解決策が示されているのです

般若心経の冒頭に

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
観自在菩薩が、深く般若波羅蜜(向こう岸に至る智慧)を行じたまいし時に

度一切苦厄
一切の苦(苦痛)と厄(災害や事故)を度(解決)したまいき

とまあ、書かれているのですが、今風に言えば

我々(菩薩)が、なにものにもとらわれず自由に(自在)深い知恵で(深般若波羅蜜観察(観)すると(行)諸々の問題を解決できる(度一切苦厄)

ということで、ありったけの智恵と知識で、物事を固定観念や思い込みから離れて深く観察することで、問題を解決することができる、と説いているのです

般若心経にしたがって解釈すれば、それは
照見五蘊皆空
「五蘊(色蘊・物質、受・感受作用、想・表象作用、行・意志作用、識・認識作用)は皆、空なりと照らし見ることで解決する」と説かれているわけで
なにごとも、因縁果報の連続であり、原因があって、縁があって、結果となって、それがまた原因となってと繋がっていくということを深く認識すれば、問題が解決に導かれると考えているわけです

般若心経の立場としては、先入観や固定観念にとらわれずに因果を深く観察することが、「色」の歪みを正す方法であって、問題解決にとって重要だ、ということです
因果を深く観察して歪みの無い認識を構築して(色即是空)、歪みのない認識によって創造された世界を生きるのです(空即是色)

たとえば
川に橋を架ける時、まだ誰もそこに橋が架かっているのを見たことはありません
川をよく調査し、綿密に橋を設計し、注意深く新たな橋を建設します(色即是空)
そうすれば、両岸の人々の暮らしが劇的に便利になります(空即是色)

あるいは、単純に言って、なぜそうなったか原因を問わないで、結果だけ問題にする人があまりに多いのですが、なかなかそれでは事態が好転しないのです

先ずは、先入観や思い込み無く、因果を深く観察しなければなりません
つまり、色即是空の色が先なのです

 

 

般若心経には、未那意識、阿頼耶識、如来蔵は書かれてません

前五識が空となると、阿頼耶識にも空が溜め込まれることになる
未那意識、阿頼耶識が輪廻の主体と考えると、阿頼耶識まで空であるのが菩薩ということになる
最後の呪は呼格だから、呼びかけで、阿頼耶識まで空である菩薩の加持を得ることができるのです

 

長保寺蔵 隅寺心経(奈良時代)





空は、不生不滅、不垢不浄、不増不減
あるいは、不一不異、不同不断、不生不滅、不去不来とされてますが
遠近、強弱、大小は否定していません
波動と近似した概念と考えてもいいでしょう

人は、不生不滅、不垢不浄、不増不減、不一不異、不同不断、不去不来の空から、瑣末な個人空間を切り取って一喜一憂しています

未那意識、阿頼耶識がなければ空を世界として認識できません

認識されないと、世界が消滅してしまいます

誰かが亡くなったとしても、その人の遺産が蒸発して消えるなどということは無いのです

肉体が消滅しても未那意識、阿頼耶識は決してなくならないので、ホトケとなるまで輪廻は続きます

般若心経の図解に、未那識、阿頼耶識、如来蔵を加えると
 

こんな感じになります



もとより、大雑把な図解なので、全てを精細に説明しているわけではありません

そもそも、般若心経には未那識、阿頼耶識、如来蔵は説かれていませんから



眼ーー>色ーー>眼界

耳ーー>声ーー>声界

鼻ーー>香ーー>香界

舌ーー>味ーー>味界

身ーー>触ーー>触界

意ーー>法ーー>意識界



と、それぞれ対応しています

死んでしまったら眼耳鼻舌身が失われるのは、それでいのですが、意識がどうなるか

意識が脳に依存しているということならば、結論が早いのですが、最近は、お医者さんが臨死体験記を発表したりして、かんたんに断定できなくなってきています

これはハーバード・メディカル・スクールにいらっしゃったお医者さんがお書きになった本
 
これは、東大のお医者さんが書かれた本
 
これは、死亡体験の本
 
僕自身は、臨死体験をしてNHKの取材も受けたお方を知っています
 
さて、一番上の図に戻りますが
水色の線で囲った、未那識がないと、空は全く認識されなくなってしまいます
そして認識しているということは、阿頼耶識が蓄えられていっているということになります
ですから

未那意識、阿頼耶識がなければ空を世界として認識できません

認識されないと、世界が消滅してしまいます 

誰かが亡くなったとしても、その人の遺産が蒸発して消えるなどということは無いのです

空は不生不滅ですから、輪廻が終わることは無いと
 
まあ、仏教では2500年前から、輪廻があると言ってるわけですが、「だから、幸せです」とは言ってません
仏教は、死んだらどうなるか心配するより、「よりよく生きるとはどういうことか」を心配しているのです
 
で、日本の大乗仏教がお勧めしているのが
慈悲」ということなんですねぇ
 
 
 
 
別に、あなたを説得しようというのじゃありませんが
武田邦彦先生のお考えは、しごく真っ当だと思いますね

今は、「そんなものは無い」と断定しても、千年後にはどういう理解になっているかわかりませんよ

 
さて、般若心経の話ですが
 
 
照見五蘊皆空ーーー>度一切苦厄
五蘊は皆、空であると照らし見てーーー>一切の苦厄を度す

度すというのは、仏が人々を救うことで
苦厄は、苦が苦痛とか悩みとか、自分自身の問題で
厄は、災難とか事故とか、ふりかかってくる問題の総称です
つまり、一切の苦厄を度す、とは、全ての問題を解決した、という状態のことで、笑いの止まらない、最高の幸せということです

五蘊が結構難しくて、般若心経の中にも書かれている色受想行識のことですが
ざっと言って
色(眼耳鼻舌身の感覚器官)が受(受け取ったもの)が想(想いとなって)行(連綿と継続して)識(意識となる)、その一連の作用が、五蘊です
目の前にモニターがありますが、ぼんやり見ていても(色)、なにが書かれているかわからないわけで
字を読んで(受)、言葉を理解して(想)、何行か読み続けて(行)、なにが言いたいのかわかってくる(識)と、まあ、普通に意識しないでもやっていることですが、言われてみれば、そういう仕組みです

五蘊が空だと照見すれば、笑いの止まらない、最高の幸せになれる

縮めて言うと、そうなります

例によって図にすると

となるわけですが

照見というのが気になるところですが、般若心経のすぐ上に、「五蘊が空だと照見する」ためには
行深般若波羅蜜多時、で
深く般若波羅蜜多を行った時、と明確に書かれています
般若波羅蜜多は、サンスクリット語の音写で、「智慧の方便」という意味です(これはこれで、難しい)

「深く般若波羅蜜多を行」えばーーー>「五蘊が空だと照見」して「一切の苦厄を度す」ことができる

理屈の組み立てはそれでいいとして、実際に実践するには「深く般若波羅蜜多(智慧の方便)を行」うことが大前提です
いちいちの言葉の意味は、結構難しくて、逐語的にきちんと理解しようとすれば、仏教大学に入り直したほうがいいんじゃないかと思いますが、大事なのは「深く般若波羅蜜多(智慧の方便)を行う方法」です

般若心経に限って言えば、写経を思いつきますが、写経は般若心経そのものには説かれていません
で、素直に般若心経を読むと、最後の部分の
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
(ぎゃーてい、ぎゃーてい、はらぎゃーてい、はらそーぎゃーてい、ぼーじそわか)
を呪文として読誦する、という方法になります

ここでは、千巻心経について書いていますが、天台宗布教手帳(平成3年版p.155)にも記載されていて、あまり知られていないかもしれませんが、特殊というほどのものでもないです 

般若心経の祈祷法

般若心経は、空について説かれています 

哲学的な空についての説明もありますが、実際は、哲学が知りたくて般若心経を読む人はほとんどいないでしょう 

読誦して功徳がある、霊験がある、ということを目的に唱えられています 

なんにもなければ、とっくに廃れてます

その霊験の引き金が呪です 

空ということを言えば、たとえば、地球の裏側の人たちから見れば、我々の存在は空の中です見る、聞こえる以前の世界の総称が空ですから、漠然と、広すぎる概念です
で、その空には整然とした秩序があり、ルールに従えば、空の中から実際的な力を取り出せる、というのが密教です 

主たる方法が、呪です 

般若心経によれば、呪には2種類あり、それは「精神集中」と「呪文」です 

それで、般若心経を読誦すれば、「精神集中」と「呪文」により、霊験がある、と
呪が仏によって定義され示されたから、間違いなく空の中から約束された力を取り出すことができます 

それで、もう2500年にわたって読誦され続けているということですね


長保寺蔵 隅寺心経





今時、語句の意味が知りたければ、ネットで検索すれば、およそのことがわかります

それで、ここでは、検索しても知ることのできない、もっと重要なことを書きたいと思っています


 



般若心経の最後の部分では、呪を絶賛しています


「これは大神呪、大明呪、無上呪、無等等呪である

よく一切の苦を除き

真実にして不虚なり」


羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

(ぎゃーてい、ぎゃーてい、はらぎゃーてい、はらそーぎゃーてい、ぼーじそわか)

(隅寺心経の文字は、現在使われていない文字が含まれています)




さて

呪と真言は、決定的に別物です

なんのこっちゃ、です



一般的に言って、真言は、たとえば、お地蔵さんがオンカカビサンマエイソワカ、とか、大日如来がアビラウンケンなどは、大日如来が色究竟天(しきくきょうてん)で説いたものを、竜樹(インドのお坊さん)が感得して書き記したものです

ですから、お釈迦様が説いた「仏教」ではなくて「密教」です



般若心経の呪は、お釈迦様が霊鷲山で説いたものです

(弘法大師の著作である般若心経秘鍵に、弘法大師が前世に霊鷲山でお釈迦様から直接聞いたと書かれています

現在の仏教文献学のレベルで検証しても、霊鷲山で説かれたことを否定する材料は出てきていません)



真言ーーーーーー>大日如来が説いた

般若心経の呪ーー>お釈迦様が説いた



これが、決定的違い、ということですね

まあ、大日如来が説いたものを竜樹が感得した話(真言)と、弘法大師が前世に霊鷲山でお釈迦様から直接聞いた話(呪)ということで、いい勝負といったらあれですが、仏教の最も神秘的な部分ではあります





般若心経の場合、呪だけ取り出して、そこだけ唱えるということはあまりやられていません

頭から、般若心経全部読んで、一巻読誦ということです



ですが、たとえばチベット仏教では、呪部分だけを、これは頭にオンをつけて

おん、ぎゃーてい、ぎゃーてい、はらぎゃーてい、はらそーぎゃーてい、ぼーじそわか

と繰り返し念誦する方法が実際あります



弘法大師の立場に立てば

「顕薬塵を払い、真言蔵を開く」

で、「呪」以外は薬の能書きで、功徳のある部分の呪だけ念誦するのもありかなと思います

(現在、高野山では理趣経、観音経、般若心経は常用経典として用いてますから、すべての漢文経典が、ただの能書きということではないようです)



これ、天台密教からすると、漢訳経典の漢文の部分も、不可思議な加持力があることが認められているわけで、経巻全体を読誦するのもありです

(天台では、法華経、阿弥陀経、般若心経は密教に分類されてます)



伝説では、三蔵法師玄奘が中国からインドに旅に出たとき、般若心経の呪の部分だけを菩薩から感得したとも言われていて、呪だけ念誦するのは、仏教の神秘的世界観からすれば、普通のことと言っていいと思いますけどね





長保寺にある隅寺心経の経題は

「般若心経」ではなくて「心経」です


 
これは、「般若心経」の「般若」を省略したのではありません
最新の研究では、「心」は「要点」の意味で、いわゆる心情とか心理とかの「人間の心」を意味しているのではないことが分かっています
 
それで、心経の言うところの、要点とは、最後の呪ということになります
心経が16行あるうちの、15行は前ふりで、呪の説明ですね
 
ですから、心経の意味を深く掘り下げて論じるよりは、さっさと呪を唱えたほうが経典の趣旨に沿っていることになります
まあ、ですけれど、これは玄談なので、過去に書いたことと重複する部分もありますが、お話を進めさせていただきます
 
もともと、心経の信仰は、天平18年から(746)奈良の隅寺(海龍王寺)で、毎日、聖武天皇のために一巻、光明皇后のために一巻、合わせて二巻ずつ約10年間、おそらく総数で7000巻ほどを写経したのが始まりです
そのうちの60巻ほどが現存し、長保寺にも一巻あるわけです
年代的に言って、この大写経事業をすることになったのは、行基の存在があったからです
行基は、天平17年に日本最初の大僧正になって、写経が始まったのが天平18年です
行基が、数ある仏教経典のなかで、もっとも重視していたのが心経です
 
 
心経は、玄奘によってインドから中国にもたらされました
中国式の翻訳事業は、訳し終わったら、原典のサンスクリット経典を廃棄処分してしまうのです
 
玄奘法師画像 紙版画
 
こうして見ると立派です
10年以上前に、中国の西安の大雁塔(玄奘が設計にもかかわった。玄奘は塔のある慈恩寺で亡くなるまで経典の翻訳に従事した)の中にある売店で、土産物として売られているのを買って帰って表装しました
大雁塔で売られている物は、裏に大雁塔の角判が押してあります
外の売店でも、売っていましたが、それは判無し
 
東京国立博物館にあるものが原画であろうと思います(つまり、これは土産用のパクリです。背負っている経巻の表現が、ヒョウ柄のようになっていて雑なのは、ご愛敬です)
右手に持っている、払子(ほっす)は創作ですね(原画にはなし)
 
たしか、十元ほどの値段だったと思います
まあ、150円ですか
当時は、中国バブルの前で、のどかでした
 
玄奘は西遊記の三蔵法師のモデルになったので有名で、さまざまな伝説が残されています
神秘的な話も多くて、残された話がどこまで本当かよくわからないのです
インドに行く途中、菩薩から心経の呪を授かった、というもそれですが、道中の安全のため呪を唱え続け、そのため心経は旅行安全の経典とも言われるようになったらしいです
伝説ではありますが、玄奘にとっても心経は特別な経典だったということですね
 
 
 
 
まさに、肝要の心経です
そして、心経は最後の「呪」を説くための経典
というのが結論でいいと思います
 
せっかくなので、心経の内容の理解を深めるきっかけを探ってみたいと思います
 
最近の心経研究の到達点を示す好論文です
言っときますが、サンスクリット原本に基づいた、仏教文献学の論文ですので、読み進めるには、高度な専門知識が必要です
このようなもんなんだ、ということで参考にしてください
 
kindleで265円です
サンスクリット語からの知見で、伝統的な解釈を批判しています 

 
 
 
一口に言って、経典解釈というのは、その気になれば、いくらでも拡大解釈できてしまうもので、たとえば弘法大師の般若心経秘鍵では
 
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
(ぎゃーてい、ぎゃーてい、はらぎゃーてい、はらそーぎゃーてい、ぼーじそわか)
 
この呪を声聞、縁覚、大乗、真言と、それらを統合した成果としてとらえ
 
 
羯諦(声聞行果) 羯諦(縁覚行果) 波羅羯諦(大乗最勝行果) 波羅僧羯諦(真言曼荼羅具足円輪行果) 菩提薩婆訶(諸乗究竟菩提證入) 
 
に、それぞれ配当します
これを、いいとか、悪いとか言ってもしょうがないので、これが弘法大師の境地ということです
瞑想の階梯とも言えるし、心経が全ての修行を網羅しているとも言えます
ただこれ、弘法大師の解釈ということで真言宗の人は、すんなり受け入れても、他宗派の人は、参考程度にしか考えてないし、つまり、主流の解釈とはみなされてません
 
日本仏教の場合、心経を唱えないのは、真宗ですかね
専修念仏ですから
日連系も唱えませんね
真宗と日蓮系は、鎌倉時代に成立した宗派で、仏教信仰に時代的な特徴があって、いわば、時代背景に応じた「選択と集中」をしています
当然、これを、いいとか、悪いとか言ってもしょうがないのです
 
まあ、でも、玄奘がインドに行った時の空気感や、天平時代の仏教空間を思うと、心経は仏教世界のとして扱われていたと思われます
 
現代を生きる我々は、今を生きるために、自分の責任で仏教に向き合うしかありません
仏教の歴史に誠実に向き合う限り、仏教の要として心経を理解することを、個人的には、お勧めします
 
 
心経的に言えば
どのような事実であれ、解釈しなければ、理解されないわけで
 
一つの事実であっても、様々な解釈が成り立つわけです
これが
自分なりの解釈が、事実から極端な乖離をしないよう、常に自戒しなければなりません
それが、仏教的な生き方の本質に繋がっている、ということになります
 
 
Googleで、般若心経と検索すると、結構上位に僕のページが出てきます

実は、密教でよく使う
円頓章(これは天台だけ)、本覚讃(天台と、一部真言)、舎利礼(天台と真言)や一心三観(天台の根本思想)も、Googleで検索すると上位に僕のページがあります

Google様々です

理由は簡単で、一番古くからページを作っているので、検索すると上位にあるので、どうしてもクリックしやすくなり、それで、また表示順位が上がる、という循環になるからです
これからも、しばらくは、僕のページは上位に表示され続けると思われます

だからなに、なんですが

僕のページにはある特徴があります
それは、経典の図解です

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こうして並べてみると、似たような図です
同じ仏教ですから、似たような図になって当たり前と言えば当たり前なんですが
 
 
仏教が、「唯識観と空観」を基礎に成り立っているから、経典を図解してみると、みな似たような図になるのです
心経も、ですから、図解してみても、仏教の伝統を踏襲した構造になっていることがよくわかります
図示してみるもんです
 
 
そして、仏教と、プラトン哲学と、量子論は、図示してみると同じような形になるのです
 
 

宗教や哲学が真実を説明しているなら、現代の物理学とどこか接点が有るはずです

それが量子論なんですねぇ

リンクをたどれば、過去に書いたことに行けますので、ご興味あればご覧ください

ですから
宗教的な祈りとか、哲学的な深い洞察などが、物理的世界と繋がっていて、なんらかの作用を及ぼす
という考え方も
妄想とか思い込みではなくて、探求してみる価値のある分野ということになるのではないでしょうか

 
 

今日NHKの、こころの時代で、禅僧の藤田一照師と脳外科医の浅野孝雄先生の対談を放送していました

こころの時代~宗教・人生~「心はいかにして生まれるのか―脳科学と仏教の共鳴」

最新の脳科学と仏教には共通性がある、という話で、大変興味深いものでした

大脳の各部位と、仏教の「色受想行識」は対応しているようだ、ということが分かってきたということです
「大局的アトラクター」というらしいですが、0.5秒間ぐるっと脳を一周して神経回路が働いて(色受想行識に相当する大脳辺縁部が働く)、0.1秒の隙間があって、また継続して神経回路が働く(諸行無常)のが心の発生の瞬間らしいです
0.1秒の隙間に、風が集まって竜巻になるように、小さな火が集まって大きな炎になるように(複雑系理論)選択的意思が生まれるようです

心の発見―複雑系理論に基づく先端的意識理論と仏教教義の共通性
 
興味深い本なので読んでみようかと思いましたが、Amazonで品切れですね
けっこう高い本です
 
 
こちらに、本の元になっている原稿がありますので、ご興味あればどうぞ
 
なぜか、仏教と最新科学は、共通する部分があるのですねぇ

僕は、仏教の「空」と量子論にも接点があると指摘しているわけですが

量子(Quantum)は、観察される前の状態では「ここである状態と、あそこである状態」が共存して重なりあっているSuperpositionであることが実験で確認されています
観察して始めて、位置と速度を決めることができます

僕は5年くらい前にこの図を作ったのですが、最近ようやく、いろいろなところでSuperpositionが紹介されるようになってきました

スーパーわかりにくいSuperpositionですが、比較的わかりやすく、興味深く説明している動画です

「重ね合わせ(superposition)という概念は、何らかの物体が同時に2つの状態で存在できる現象を意味していますこれはとても妙なことで、私たちの日常生活では経験できないことです当然、量子力学を創り出した物理学者さえも理解に苦しむ大難問でしたたとえば私がここに座っている状態と向こうの方に座っている状態は想像できますでも、同時に両方に座っている状態は想像できませんしかし、量子力学では、まさに重ね合わせ(superposition)の原理によりこれが可能ですこのように原子、電子、分子などは同時に2つの状態で存在することができ、この概念が量子技術を強力なものにします重ね合わせ(superposition)のさらに延長上にエンタングルメント(entanglements)がありますこれには2つの量子的物体が必要ですこの2つが絡み合う(エンタングルメントentanglements)と、個々の物体を分けて考えることはできませんエンタングル(entanglements)した2つの物体を宇宙の両端まで引き離したとしても、片方の状態はもう片方の状態に影響を及ぼすという時空を超えた相関をもちます」

注意しなければならないのは、脳科学や量子力学はオカルトじゃありませんので、瞑想と祈りと思索だけで成り立っている仏教とは一線を画するものです
ただ、2500年前のお釈迦様が最新科学と似た、というか、最新科学が、2500年前のお釈迦様の考え方に似てきたのは、注目に値します

仏教に普遍的真実が含まれている、と考えるべきでしょう

そうなると、因果応報とか、地獄極楽、輪廻転生、加持祈祷など、伝統的仏教の概念に、もうちょっと真剣に向き合う必要がある、と思われますね

最先端の脳科学や量子論が仏教と似ている、というのは大変に興味深いのですが

僕としては、あまり深入りする気にはなりません

というのは、例えば、仏教の唯識論は、釈尊在世当時はなくて、仏滅後900年くらい後に、アサンガとかバスバンドゥ(4~5世紀頃)が体系的にまとめたものです
この前後に大量の唯識関係の論書が作成されたようで、ナーランダーを中心に盛んに研究されました

 

ナーランダー僧院跡 2010年2月
玄奘もおとずれた、巨大な古代仏教大学です
6世紀、イスラムによって完全に破壊されました

 

 

それで、唯識と一口に言っても、長い歴史があるわけで様々な学説があります
唯識三年倶舎八年とも言って、専門家が習得するのもたいへんな時間がかかる膨大な研究がなされていて、しかも、時代や学派によって、考え方が違ったりします
それが、瞑想と思索だけによって積み重ねられていますから、言葉のつながりはもっともらしくても、理屈のための理屈や、妄想に近いものもふくまれてきます
説法していると宙に浮かんだ、とか、普通に書いてあります
本当か嘘かはわかりませんが

ですから、実験と観察によって得られた科学的知見と、仏教論書に書かれている概念とを照合しても、「似ている」という以上のことは言えないのです
仏教の長い歴史の中で、ありとあらゆる思考実験がなされていますから、科学者が自分の考え方に似ている学説を探せば、たいてい見つかるんじゃないでしょうか

僕も、こうやって偉そうに色々書いていますが
分野としては、「文学」だろうな、と思って書いています

また、学問としての仏教文献学は、近代的な手順ではあるのですが、その内容は、「文学研究」のジャンルだと思いますよ

まあ、それはそうなのですが

なぜか
最先端科学と仏教は、似ているのです
これは、どうしようもありません

キリスト教とかイスラムでは、ありえないことだと思います
「神はこう言った、だから神が正しく、あなたは間違っている」
などといった思考回路は仏教にはありません

仏教が、神からの啓示とか、超越的な権威とかに基づかずに、自分自身の瞑想と思索に基づいて組み立てられているからだと思います
言ってみれば、「自己の観察」ですから、その部分については分析的で科学的であるとも言えます
その「自己の観察」結果を書き記すと、それは文学になってしまいますが、科学に接近してはいます

仏教が、「自己の観察」をせず、過去の権威に縋って、瞑想も思索もしなくなったら、仏教ではなくなってしまうのかもしれませんね

 
ただ参道を歩くだけの動画です 編集で手ぶれ補正をかけていますので、かなりグニャグニャです
 

ある、不思議な体験をしたとします
深層意識でのイメージ、と言ってもいいのですが

これを、今は、「変性意識状態」と言います
通常の意識の経験の範囲に収まらなければ、なんでも、このカテゴリーに放り込みます
たとえば
 
臨死体験をした
神の声を聞いた
幽霊を見た
悟りを開いた(これも「変性意識状態」に分類されてしまいます)
 
こういう経験をすると、人に話したくなるわけですが、どのように話せばわかってもらえるのか
「えーと、雲のようなものが見えて・・・」
「川みたいなところに出て・・・」
「声が頭の中に響くような・・・」
「人の形のような・・・」
「とてつもなく痛快で・・・」
 
など
既知の、一般的な事象に例えるほかありません
これを、専門的には、「変性意識状態を、神話的コスモロジーで説明する」あるいは「深層意識と神話的コスモロジーの一体化」と言います

「宗教クライシス」上田紀行著 岩波書店 

神話的コスモロジーと深層意識のイメージとの一体化は、共同体が保持しているコスモロジーと深層意識の一体化であるから、「絶対的な私」の感覚を強烈に持ちながら、共同体とも絶対的なつながりを持っているという感覚へわれわれを開いていく。しかし、コスモロジーの行き先はあらかじめ決められているため、盲信へ閉じていく性格を持っている。 

深層意識でのイメージはコスモロジーがあらかじめなければ、体験とならず、他者とも共有できない。宗教体験の核心には、神話的コスモロジーが必要である。コスモロジーが宗教体験を可能にし、人間どうしの根元的なつながりを生み出すが、ひとつの限定された物語に収束されてしまうが故に、他の宗教や文化における根元的なつながりを理解できないのである。

 
 

神話的コスモロジーは、たとえば、同じ様な変性意識状態の絶対的存在感を、仏教文化圏なら「大日如来」、キリスト教文化圏なら「天の父」、イスラム文化圏なら「アラー」とか、その文化圏特有の既存のイメージと物語で、合理的に説明しようとして作り出される世界観です
説明は人間社会で人為的に創作されますから、千差万別、各種ある、ということになってきます
それで、同じような経験をしても、異なる宗教や、宗派の解釈の相違が、必然的に生まれるのです
仏に様々な異名があったり、本地垂迹や山王神道など神の本体が仏であるという世界観も、これで説明がつきます

 

「空」というのは、つまり、ぱっと目をつぶった時に、目の前にあるモニター画面です
当然、なにが写っているのかわかりません、見ていませんから
わかりませんが、そこにあります
不生不滅、不垢不浄、不増不減
当然、生じたのか、滅したのか、垢がついているのか、清浄なのか、増加しているのか、減じているかわかりません、見ていないのですから
生滅、去来、一異、同断もわかりません、見ていませんから
不生不滅、不去不来、不一不異、不同不断の八不になります
ですが、そこにあります
それが「空」です

目を明けば、モニター、あるいは、ディスプレイ、液晶、PC画面、どのように名付けて呼ぼうと、そこには同じものがあります

屁理屈でもなんでもありません
同じ仕組みで、仏教とキリスト教とイスラムに分裂しているのです

自分が、「空」を神話的コスモロジーで解釈して「色」を作っているのですが

 

違いを探して出てくる相違点と、同じところを探して出てくる相似点の数は、同じようなものだったりします
尾ひれをつけた、複雑な解釈をやめて
「色即是空」とよく自覚すれば、たいした違いはないのではないでしょうか

 
 
 
無無明亦無無明尽 乃至 無老死亦無老死尽
無明は無い、また、無明の尽きることは無い
老死は無い、また、老死の尽きることは無い

これは十二縁起のすべてにおいて、「無い、また尽きることは無い」と言っているわけです
十二縁起の説明は、ざっくりと省略します
必要のある方は、検索するなどしてお調べください
心経は、呪を説くための経典ですから、理論を徹底究明するのが最重要ということではありませんから

大事なところは、色即是空と照らし見ても、
老死は無い、また、老死の尽きることは無い
と、「老死は無い」としているのに、「老死の尽きることは無い」と言ってるわけで

これは十二縁起で、「無明の尽きることによって・・・老死も尽きる」という、仏教的な救いのセオリーをも否定しているわけです
否定(老死は無い)の否定(老死は尽きる)の否定(老死の尽きることは無い)で肯定と、矛盾してくるわですが

 

神話的コスモロジーの説明にもありましたが

深層意識でのイメージはコスモロジーがあらかじめなければ、体験とならず、他者とも共有できない。宗教体験の核心には、神話的コスモロジーが必要である。

生きているかぎりは、神話的コスモロジーを作り続けるしかないのですが
この、神話的コスモロジーは、真実そのものではありません
神話的コスモロジーは、文化的背景に導かれて脳内に作り出された印象にすぎません
ですが、この印象がなければ、世界は認識されないのです

肉体が衰えるから「老い」で、いずれ「死ぬ」のだ
というのは、自明の理ではありますが、脳内に作り出された印象ではあるのです

我々は、自分自身が作り出したコスモロジーに閉じ込められて、生きているのです

仏教的には、だから、瞑想が必要で、悲劇的コスモロジーから目覚めて、「空」を体得してください、ということになるんですねぇ

十二縁起(十二因縁とも言いますがこれば鳩摩羅什訳で、心経を訳した玄奘訳では十二縁起です)では、人間のもっとも代表的な苦である老死を、「無明が尽きればなくなるんだ」という論理で解決しようとしています
普通に考えれば、「無明が尽きる」とは、つまり「空」を体得することだ、ということになりそうなのですが
その、十二縁起で説かれている「無明の尽きることによって・・・老死も尽きる」という、仏教的な救いのセオリーをも心経は否定しているわけです
否定(老死は無い)の否定(老死は尽きる)の否定(老死の尽きることは無い)で肯定と、矛盾してくるわですが
まあ、十二縁起という整理のしかたそのものを、神話的コスモロジーととらえているのでしょう

理屈を積みかさねていくと、どうも、微妙に論理がずれてくるから、長い仏教の歴史で様々な学派が生まれた原因にもなるのですが、精密な理論を構築しようという努力は必要ではありますが、とどのつまりは、神話的コスモロジーの範疇であるということです

2500年におよぶ仏教の歴史で、「空」は様々に定義され、議論され、求め続けられました
うまいこと説明したと思うと、それは、神話的コスモジーになってしまっているわけです
これを、「果分不可説 かぶんふかせつ」というのですが
果分というのは、ここでは「空」ですが、うまいテクニカルタームを考え付くもんです
こういうことがあるので、仏教用語は便利なんです

ただ、弘法大師だけは果分可説です
世界の仏教史で、弘法大師だけだと思います、果分可説は(チベットにもしかしたら果分可説を説いた人がいるかもしれません)

仏教的な常識では、法身(つまり空)は説明することができません(説明すれば、神話的コスモロジーになってしまう)
弘法大師は「法身は説法する」と説き、大日如来が直接説法しているのが真言だとしています
まあ、これ、新義真言宗の覚鑁が「加持身説法」といって、「法身が、大日如来としてイメージされ構築された存在を加持して、語らせている」といって否定して、結局、高野山を追われることになったわけですが、仏教史的には覚鑁が主流派に属することになると思われます
 
平成29年2月15日の境内
 
延々と、ややこしいことを書きましたが
つまりは
 
ぱっと目をつぶった時に目の前にあるモニターを説明せよ、ということです
目をつぶっているのだから、見えないし、説明のしようがありません
でも、そこにある
 
真っ白な紙に向かった時に芸術家の心の中にあるもの、かもしれないし
設計にとりかかかる直前の建築家の心かもしれない
インスピレーションが訪れる寸前の音楽家かもしれない
 
ま、そんな難しく考えなくても、今、ぱっと目をつぶってみてください
その間に、モニターは火星に飛んでいって・・・いるわけはないのですが、見てないのだからわからない
わからないけど、そこにある(空です)
目を明けば、そこには、さっきと違うモニターがあります
約0.1秒ぶん劣化したモニターになっています
これ、空が色になった瞬間です
 
じゃあ、真実は
目をつぶった時に、そこにある「空」(見ていないモニター)なのか
目でみて、視神経から脳に伝達されて形になった「色」(モニターというイメージ)なのか
 
老死も脳内イメージだとしたら、真実の老死とはなにか
真実の老死は「再生への旅(輪廻転生)」という物語なんですよ、というのが仏教なのだと思います
 
 
 
来世がある、死後の世界がある、というのは仏教にかぎらず、世界中のすべての宗教が言っていることです
「ああそうか、全員一致だから間違いない」と、単純に結論を出してもいいのですが、皆さん、それでは納得いかないのではないですか
 
宗教と、一般的な倫理道徳の最大の違いは、死後の世界を含めた世界観があるかどうかでしょうか

「生きがいの創造」の飯田史彦先生などは輪廻転生を説きながら、宗教ではないと自分で宣言されてるわけですが、本の中には神様や仏様も出てくるものもあって、ボーダーライン上の人かな

「アウト・オン・ア・リム」を翻訳した山川紘矢先生も、自分の考え方は宗教じゃないと言ってたと思います
飯田先生や山川先生のようなニューエイジ系の方たちは、宗教というと、ステレオタイプの教義に固執し、権威主義で、凝り固まった世界観だと考えているようですが、僕に言わせれば、そういう宗教に対する断定的な見解も、凝り固まった世界観なのですね
 
まあ、これも、神話的コスモロジーで説明がつくのですが
 
 
我々は外界を感覚器官で認識し、脳内にイメージを作って生きている
 
おなじ事物であっても、見方が違えば、人それぞれイメージも違ってくる
 
飯田先生や、山川先生の言い分が成立するなら、仏教は宗教じゃないと言うこともできそうです
お釈迦様は死後の世界について語らなかったので、むしろ、より宗教らしくはないのですが
 
初期仏教には仏像がなかったことがわかっています
お釈迦様が仏像を礼拝して悟りを開いたというわけではありません
仏滅後600年間(2世紀頃まで)は仏像のない時代があったわけで、現代の仏教をお釈迦様がご覧になったら、さぞかしびっくりすることでしょう
偶像崇拝を禁止するイスラムも、仏像の無い初期仏教と比較するならば、似たところが多いかもしれません
スーフィーは、けっこう密教と考え方が近いですよ
 
お地蔵様
 
どう頑張っても、結局、一人ひとり別々の脳内イメージを持つわけです
勝手な脳内イメージを持つな、と言ったって、別に、自分勝手なことをしたくてしてるわけじゃない
貧弱だろうが歪んでいようが、それで壁にぶち当たって、修正しながら生きていくしかない
死んでしまったら、生まれ変わってその続きを生きていく
延々と、その繰り返し
神様や、仏さまが身代わりになってくれるわけではないのです
生きていくのは自分です
それが生きていくということ
自分の都合しか考えなければ、孤独だけれど
実際は、独りぼっちじゃありません
脳内イメージになる前の世界は一つしかない
忘れずにいよう
 
 
 
 
 


我々は、隣に座ってる人であっても、今考えていることが、さっぱりわかりません

憶測や、推測はいちおうできますし、教えてもらう、という手もありますが、ほんとのところはわからないのです

また、きちんとした信頼関係がなければ、なにを考えているか教えてもらったとしても、無意味です



別々の人間なんだから、当然といえば当然です



同じ一つの地球に住んでいても、住む場所が違えば、当然、見えるものも違うし、考えることも違います

同じ物を見ても、見る角度が違えば、見えるものが違います

でも、地球は一つです



地球上には、ありとあらゆることが、日々途切れることなく起こっています

その、なにもかもを知るのは、かぎりなく困難ですけれど

目の前のことなら、見てわかります



地球そのものが何を考えているか

こりゃわかりません

自分が見た範囲で考えるわけです






これは、すべてのことに、あてはまります



退屈な話だと思いますが、実はここから興味深いことが導き出されます



たとえば



地球上の日本に住んでいると、日本のことは、比較的よく知っています

では

アメリカのことを、詳しく知りたいとしたら、どうしますか

てっとり早いのは、アメリカに行くことです

詳しく知りたいと思った国に、自由に行ければ、その国のことを知ることができます



となると



人の一生を考えた時

「栄枯盛衰、老病死」は避けがたいなぁ、と感じているとします

ところが

その、同じ人の一生を、別の角度から考えてみると

「楽しい冒険に満ちた、興味が尽きない旅」に感じるかもしれません

自分の望む考え方を、自由にすることができれば、全く別の世界観で物事を感じることができるようになります



いやいや、屁理屈ではありません

憂鬱国に住むと(憂鬱な世界観でみれば)すべては憂鬱になり

喜楽国に住むと(前向きな世界観でみれば)すべては前向きに見えます

立場を変え、視点を変えれば、解決不能にみえる問題も、解決の可能性が発見されます



これを心経では

「度一切苦厄」

すべての苦と厄難を解決した

と言います

 

 



心経の最初の二行ですが

「観自在菩薩」というのが、のっけに書いてあります

ふつうに読めば

観自在菩薩が、深く智慧の方便(般若波羅蜜)を行う

ということになるのですが

ここを



観自在菩薩のように、深く智慧の方便(般若波羅蜜)を行う



と、自分のこととして読んでみると



自在に観(観自在)ると、脳が作り出すイメージ(五蘊)は「空」だと照らし見て、すべての苦と厄難を解決できる




見方を変えさえすれば、「空」から自分の望むものをなんでも、取り出すことができるのです






 
 
キリスト教とかイスラムでは、人は絶対に、神様にはなりません

 
仏教は、成仏を目指しています
人は、いずれ仏か、仏と成ることができるがこの世に留まって世を救い続ける菩薩になります
 
長保寺 国宝多宝塔 金剛界大日如来(平安時代 長保寺で最も古い仏像)
 
つまり
 
人が神にならないのなら、いつまでも、迷える子羊でいればいいのですが
 
仏教では
自在に観(観自在)ると、脳が作り出すイメージ(五蘊)は「空」だと照らし見て、すべての苦と厄難を解決でき
見方を変えさえすれば、「空」から自分の望むものをなんでも、取り出すことができるから
人が仏と成る、成仏が可能となります
 
 
「空」から望むものを取り出すことができないなら、とてもじゃありませんが、仏となることなんてできません
 
いちおう理屈を言っときますが
自分勝手に、ダースベイダーや大魔王にでもなれるかというと、そこはそうはならないのです
 
 
自分勝手な、我執にとらわれていると、「空」を歪めて、新たな不幸の原因になる「色」を作るだけです
 
観自在の「自在に観る」の「自在」とは、自分のちっぽけな我執からも解放されているということになると思います
だから、忍耐や修行や学習が、どうしても必要だということになって、そんなにうまい話はないのです
 
 
「空」から望むものを取り出すには
なぜ、どうしたら、そうなるのか、具体的な道筋は横に置いておいて、夢が実現した状態を、(なるべく、皆が笑顔になるような夢がよろしいかと)強くイメージする
これが、コツですね
 
 
 


自在に観(観自在)ると、脳が作り出すイメージ(五蘊)は「空」だと照らし見て、すべての苦と厄難を解決でき

見方を変えさえすれば、「空」から自分の望むものをなんでも、取り出すことができるから

人が仏と成る、成仏が可能となります



見方を変えることで、苦と厄難を解決する可能性を獲得するわけです



なんだ簡単だ、と思われるかもしれませんが、これが簡単なら、人生の不幸は深刻でも重圧でもないのです


黄水仙





ここで、どうしてもスコトーマ(盲点)に触れなければならないのですが



人は、自分の考え方の盲点を、自分でなかなか修正できないのです

スコトーマについて詳しくは、苫米地英人先生の著書なり、最近ではYoutubeに動画をアップしていただいてるので(苫米地メソッド009「スコトーマの原理」)参照してください

(余談ですが、苫米地先生は、天台宗ハワイ別院の荒了寛師の弟子で、僧籍をお持ちです。天台宗は、今東光師、瀬戸内寂聴師など、人材の幅が広いといえば広いですね)
 
人は、強い感情をともなって形成された固定観念からは、なかなか離れることができないのです
ご承知の方も、いらっしゃると思いますが、これが現代コーチング理論の基本です
具体的には
「自分はだめな人間だ」という思い込みが、学校や会社で失敗が続いたことによって形成されたとします
これは、失敗が続いて「すごく落ち込んで悲しい」という強い感情をともなった経験に基づいた考えなのですが、人間の「怖い」「悲しい」「寂しい」といった本能的な恐怖心に近い経験であるほど、強い固定観念になります
そうなると「自分はだめな人間だ」というのを基準にしてしか物事を考えることができなくなります
理性的に、「そんなことないから、がんばりましょう」と励ましても、なかなか、感情を伴った固定観念はなくなりません
むしろ、聞く耳を持たず
「いや、そんなことはない。わかったようなことを言うな」
「どうせ自分はだめな人間だ」
となりかねません

脳幹は爬虫類にもある、原始的な部分なのですが、すべての情報は、この脳幹を経由して集まります
脳幹は、生命維持への危険に対して最も強く反応します
だから、理性や理論で脳幹の反応(強い感情)を変えることが難しいのです
 
 
 
「自分はだめな人間だ」という凝り固まった固定観念を持った人が、「すばらしい成功者」になるのは、どう考えても無理です

「観自在、自在に観る」と心経には書いてあっても、なかなか、自在に観ることができないのです

心経に書いてある苦厄の解決方法は「行深般若波羅蜜、深く智慧の方便を行う」ことですが
この「智慧の方便」こそが
自在に観る
たったそれだけのことです
それが、なかなか出来ない、ということを人間の歴史が証明しています
ただ、逆に言えば、自在に観ることさえできれば、悲劇は回避できるのです
自在に観ることができれば、自分というちっぽけな殻を打ち破って、大きな生命力に触れることができるのです

 
 
 

自在に観ることさえできれば、悲劇は回避できるのです
自在に観ることができれば、自分というちっぽけな殻を打ち破って、大きな生命力に触れることができるのです

 

ですから自在に観るには、どうしたらいいのか、というのが最も重要な問題になるわけです

心経は、それを、と説いているわけです

 
 
故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪

般若波羅蜜多(智慧の方便)は、大神呪、大明呪、無上呪、無等等呪であると知る

つまり
智慧は呪であると言ってるわけで、呪の定義が問題になるわけです

呪をサンスクリットで言うとdharaniですけど陀羅尼ですね
呪文、真言、まじないの言葉、などの意味に使われることが多いわけですが、もともとは精神統一の意味で、それが、だんだんと精神統一する時に使う呪文そのものをさすようになりました

呪=精神統一

ですから

般若波羅蜜多(智慧の方便)は
大いなる神のごとき(精神統一)であり
大いなる明らかなる(精神統一)であり
この上なき(精神統一)であり
比べるもの無き(精神統一)である

という意味になります

続いて最後の部分がですね

故説般若波羅蜜多呪
ゆえに般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)の呪を説く

即説呪曰
すなわち、呪を説いていわく

呪が2種類あるんです
精神統一の意味の呪、と、呪文の意味の呪

般若波羅蜜多(智慧の方便)の呪(精神統一)、と
呪を説いていわく、の呪(呪文
同じ文字でも、意味の違う呪があるのです

実際問題としては、精神統一しつつ呪文を唱える、のが心経の言う
「自在に観(観自在)ると、脳が作り出すイメージ(五蘊)は「空」だと照らし見て、すべての苦と厄難を解決できる」
方法である、ということになるかと思います
心経には、自在に観るために「考え方を改めましょう」とか、「立場を変えて考えてみましょう」とか、もっともな説教はありません
もちろん、そんなことしちゃいかん、と否定しているわけではありませんが、どうやら、重視していないようです
考え方を変えようにも、「自分自身の考え方の盲点」を自覚することはできないし、「自分の凝り固まった固定観念」を理屈で解消することはできないのですから、当然と言えば当然です
 
比較的軽微な問題は、視点を変えたり、立場を変えて考えることを意識すれば、なんとかなるでしょう
(まあ、これはこれで難しいわけですが)
 
「自分自身の考え方の盲点」「自分の凝り固まった固定観念」と向き合うとなると、いわば自分で自分を逆洗脳するというか、逃れがたい業や運命と対峙するというか、普通の方法では解決の道筋が思い当たらないのではないでしょうか
それを心経は、「考え方を変える」でも、「相手の立場で考える」でもない
精神統一しつつ呪文を唱える
これだけです

「自分自身の考え方の盲点」「自分の凝り固まった固定観念」と真剣に向き合って、にっちもさっちもいかないことを十分思い知って、手も足も出ないことがわからないと、こういう境地にはたどり着かないのだと思いますよ

 
 
 
人間、頑張れば大抵のことはできます
努力してどうにかなることなら、努力すればいいのです

しかしながら、親しい人との別れ、不治の病、老いの衰え、など、努力ではどうしようもないこともあります
心経が想定している苦厄は、そういった、普通の努力では解決できない問題ではないでしょうか
普通に努力しても、ほとんど無力なことがあるから、普通の努力以外の方法として、精神統一しつつ呪文を唱えることを説いているのではないでしょうか

心経には「考え方を改めましょう」とか、「立場を変えて考えてみましょう」とか、常識的にはもっともな説教はありません

心経に書いてある問題解決の方法は精神統一しつつ呪文を唱えることだけです

心経の呪は人生の無力、限界、無常の中を堂々巡りしている時の、一縷の望みです
なんとかなりそうなら、なんとかしてみればいい
どうしようもないから、一縷の望みに賭けるのです

 
心経の呪は、この世のものではなく、お釈迦様が霊鷲山で説いた「空」からの呼びかけです
無垢な「空」と繋がる一縷の望みです
 
 
 
考える、工夫する、がんばる、など自分の意志による努力は、感覚器官がとらえたイメージを、自分の感覚器官の世界のなかで解決しようとする、いわば、堂々巡りです
解決したように見えて、また、同じような問題が再来します
 
感じる前の世界(空)には、脚色されない、無垢で、純粋な、心経の言うところの、不生不滅不垢不浄不増不減な世界があります
 
なにも遠くにあるわけではありません
ぱっと目をつぶれば、目の前のモニターが「空」です
ふっと無心になれば、今生きているこの世界すべてが「空」です
 
その「空」を見ようとして目を開ければ、脳内イメージしかありません
「空」にある無垢な人生をとらえようとしても、自己流の解釈しかできないのです
 
 
「空」と繋がる、一筋の糸が、心経の呪なのです
 
 
隅寺心経(奈良時代) 長保寺蔵

長々と心経玄談を続けてきましたが、手短にまとめると、こうなると思います

お経の要点はなにか

自在に観(観自在)ると、脳が作り出すイメージ(五蘊)は「空」だと照らし見て、すべての苦と厄難を解決できます

 

人は、不生不滅、不垢不浄、不増不減の空から、瑣末な個人空間を切り取って一喜一憂しています
 
 
 
神話的コスモロジー、生老病死、努力や頑張り、などすべて、脳内イメージです
 
 
 
「空」は、なにも遠くにあるわけではありません
ぱっと目をつぶれば、目の前のモニターが「空」です
ふっと無心になれば、今生きているこの世界すべてが「空」です
 
その「空」を見ようとして目を開ければ、脳内イメージしかありません
「空」にある無垢な人生をとらえようとしても、自己流の解釈しかできないのです
 
 
 
 
「空」と繋がる、一筋の糸が、心経の呪なのです
 
 
精神統一しつつ呪文を唱えてください
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
(ぎゃーてい、ぎゃーてい、はらぎゃーてい、はらそーぎゃーてい、ぼーじそわか)
 
 
結局

「空」が、そんなに素晴らしいのか

心経の呪が、信じるに足りるものなのか

ということでしょうか



「空」は、説明しようとすれば、それは「空」ではなく、「空の説明」でしかないわけで、どうにも扱いようがありません

「すべての苦しみと厄難が無い状態」と言う他はないのでしょう

ぱっと目をつぶったら、その先は「空」なわけで、そこにあるのですが、どうしようもありません

とにかく、「すべての苦しみと厄難が無い状態」なんだと、自分に言い聞かせるしかありません

たしかに、素晴らしいことですが、イメージがわかないのがつらい

仏像とか、壮大な伽藍とか、いろいろ作り出されてくる理由がわかるような気がします



心経の呪が、信じるに足りるものかどうかは、現在の日本仏教の宗派に心経を読まない、あるいは否定する宗派もあるわけで、一概に言えないということになります

ただ、仏教の2500年に及ぶ歴史を拒絶しないのなら、心経が極めて重要な経典であることが理解されます

仏教経典には、時代や地域によって、流行り廃れの、信仰の栄枯盛衰がありますが、その歴史の風雪に耐えて生き残った、数少ない経典が心経であることは間違いありません

インドから延々と旅を続け、数多の高僧達によって守り伝え続けられ、日本に根付いたのが心経への信仰です



あなたが、心経を大切にしてくださるなら、悠久の時を超えた灯が、また一つ繋がったことになります

その灯が、次に繋がるかどうか、それはわかりません

ただ、いまある灯は、そうやって、お釈迦様から連綿と受け伝えられてきたものであるのです

その灯を、信じてもいいのではないですか


 





図解 般若心経



心経玄談