高野山大学紫雲寮 第3回インド仏跡巡拝
(平成6年1月2日〜12日)
高野山大学紫雲寮々監 浅井覚超 記
今般の巡拝者は以下の廿名である。
浅井覚超、日下義章、矢田部信恵子、瑞樹正哲、中島浩二、森済貴行、横山昌彦(以上一般)、中原祥徳(博)、深澤敬生(修)、米山隆恵(専修学院)、木下友衛(四)、加藤圭亮(三)、山澤慎太郎(三)、宮田久司(二)、三木覚照(一)、早川哲司(一)、加納和雄(一)、川崎一洋(一)、中山華子(三)、華井京子(一)(以上学生)[添乗員、柴野雅彦(トラベル・サライ)総21名。]
1月2日(日)大阪空港午後1時集合、午後3時50分フライト、香港経由(一時降りる)、23時10分デリー着。インドの案内人、チョウハン氏出迎え。ホテル着。
1月3日(月)11時40分デリーよりカルカッタにフライト(朝7時起床、7時半荷物出し、朝食、8時半ホテル発)。デリー空港は朝靄に包まれている。インドの雀が構内を自由に飛び回っている。チャイを6ルピーで買う。日本に郵便葉書を出す(6ルピーの切手)。ジャパンと最後に書けば後は日本語で可。午後2時半頃、カルカッタ空港着。アショーカホテルにて昼食。ダールカレーが美味。午後4時チョーロンギー大通りを見学。ジャィナ教寺院を見学。陶器の彩色、宝石を散りばめてある宝殿にマハービラが祀られている。美しい建物であり、ジャィナ教巡礼者用の宿泊所、僧院も共存している。次に夕暮れのハウラー橋麓(ガンジス河畔)に佇つ。午後8時半の晩食(就寝12時)。
1月4日(火)7時半起床。9時出発。カルカッタ市内見学。貧しい難民のたたずまいが並ぶ。牛糞を樹々に張り付けている。面白いのは樹の皮(何の樹であろうと太ければ可)を剥いで大風呂敷に切り取り干している。これは屋根用である。バングラディッシュより避難してきたヒンドゥー教徒の小さな家々が並ぶ。生活の為といえど、インドもだんだん緑が失われている。
目的のインド博物館に入る。(ここで、反省がある。ピプラハワ出土の水晶舎利器を前もって拝見依頼の手紙を出しておくべきであった。)
チョーロンギー通りにあるマーケットの中を渡り歩く。私はカルダモン(チャイ用)並びに柘榴を多く買う。(柘榴は夜行列車の中で皆に布施。大変美味であった。種も普通は吐き出すのであるが柔らかく、噛めばインド人もそのまま食べているように日本人でも食べられる。)
ヴィクトリア記念館の前に立つ。1時20分昼食。
3時半(死を待つ家訪問)カルカッタのマザーテレサを訪問したが留守、施設を見学。寄附する。日本人修道女、シスタークリスティーと歓談。4時過ぎ、少年の家を訪問。カルカッタ市内には少年の家は数カ所存在するという。未熟児から10才くらいまでの少年少女を預かっている。ハンセン病の家もある。死を待つ家では家の外で、入りきれぬ人たちが寝ころんでいるのがあわれであった。
タゴール劇場は立派な色彩を放っている。カーリー寺院見学。毎朝1頭の雄山羊が犠供される。まず施主が首切りの所に自分の首を差し出し、その身代わりに雄山羊の首が切り落とされ、血の滴る身を女神カーリーの殿の回りを3度引き回される。我々が到着したときも山羊の生皮がちぎれており気味が悪く、そこそこに出る。
19時20分、大きなハウラー駅より夜行列車にてガヤに向かう。常の如く席をめぐって若干のトラブルあり。無事に落ち着く。ものすごい人並の中、列車に乗るのも一苦労。 1月5日(水)午前3時、ガヤ駅着。ガヤの町は紀元前よりの歴史。バスでブッダガヤに向かう。途中の道路にて入町税を支払う。30分でアショーカホテル着。朝食後、5時に成道座に向かう。薄暗い中、正覚の大塔は金色に聳え、菩提樹の久遠の緑が光っている。涙がこぼれそうになる。成道座の棚の中に鍵を開けて入る。美しい天蓋が出来上がっていた。最近、日本のある新興宗教々祖が成道の磐の上に座り、チベット、インド等の仏教徒を驚かせ日本人という顰蹙をかった。全く恥知らずの行為である。かような無知の人がいる限り日本人の恥は隠せないのである。
伝承のムチリンダ竜王池に向かう。ムチリンダ村(もとはジャングルであったが今は切り開かれた農村)に所在。大塔から、6人相乗り(といっても日本的に考えたならば4人用)の小型三輪に乗り、ガタガタ道を30分程行く。ムチリンダ竜王池は国の土地なので百姓がごみ等を岸辺に埋めて少しずつ狭めているのが残念。本来は現在よりももっと大きかったという。それでも藍の色を寂とたたえ神秘の色を隠していなかった。
マハンタ邸見学。降三世明王の古像あり。仏像は約30体程あり、両足の蓮華紋の仏足石あり。一時保管していたスジャータ寺の仏石足はスジャータ寺に返還していた。マハンタ邸の庭内の中央にはヒンドゥーの尊を祀ってあり、虎の皮の座があり、そこはマハンタ氏が説法をする所という。
乾期の尼蓮禅河を岸辺沿いにゆっくり歩く。野猪の親子が戯れている。土産者屋にて依頼していた仏足石拓本を受け取る。(故玉井良太郎氏の霊杖として白檀の杖を買う。75ドル)
小型バスに乗って前正覚山に向かう。このバスならば少々悪路でもつっ走ることが可能である。当山が近づくにつれ、子供達がバスと共に走る。そしてバスの後部に飛び移るのである。6・7人程乗る。それが当地の子供達の遊びなのであろう。
前正覚山登拝入口により物乞いの人たちが続く。留影窟に入り後、全員にて外で読経。 ブッダガヤより午後1時半、ラジギールに向かう。古城址(南門)見学。マガダ国当時の岩に刻まれた轍跡を見る。午後4時法華ホテルに入る。遅い昼食。日本製の干のソバが美味。しばらく休憩。午後7時晩食。停電頻繁に起こる。(前日の、1月4日は矢田部氏の誕生日、本日5日は小生の誕生日、共に、柴野氏よりプレゼントを受ける。)
1月6日(木)5時15分、ホテルを出て朝の霊鷲山を登拝。霊鷲山の登拝口は道に牛除の鉄柵があるものの、牛は遠回りをして山に登り潅木を食べている。ビンビサーラ王の道を登る。例年の如く、顔見知りの警官を雇う。早朝なので万が一の為。
香殿に到着し、私は廿一巻の観音経偈の写経を奉納。別に経木塔婆を世尊、十大弟子、諸大阿羅漢に書く。読経終わったときは丁度後側から御来光。下山し、8時半朝食。9時10分に竹林精舎に向かう。このあたりはトンガ(驢馬の馬車)が目立つ。ナーランダ遺跡並びにナーランダ博物館の写真を撮る。バスに乗りパトナに向かう。ところがとんだハプニング。丁度昼の12時頃、ヴァクティアンプールという町まで来たとき、その町中のラクシュバナ大学(短大)の騒動に巻き込まれてしまった。というのは車を全くストップさせられ、大学問題が解決するまでは動くなという。もし動けば投石(彼らは手に石を持っている)、放火、何をされるか分からない。道の真下を走る鉄道の信号機は停止(破壊)し、機関車のみを客車より離脱さし、彼等は意気揚々としている。大学への要望は、試験に際しノート等の持ち込みを要求しているのである。何でもその大学の教員が一部の者のみに本の持ち込みを許可し全く不平等という主張。彼等は実力行使にて大学の前を走る国道、列車の全面ストップさせる。旅人にとっては甚だ迷惑な話ではあるが、これがインド流のやり方だ。1時間ほど経った時、警官が3・4人程ジープで乗りつけて来た。橋の上にいた学生達は大急ぎで逃げ回る。すかさず我々のバスは動く。橋の下より動き出した我々のバスに向かって学生の投石。これが今回の旅の最大の難であった。どうにか、4時にパトナ博物館到着。2階で許可を受けて写真撮影。(1階左は仏像、右は生物、2階はタンカ・密教像等。)ガンジスワニ(クンビーラ=金毘羅)の最大級の剥製に唖然とする。(ここでも前もってヴァイシャリー出土の舎利器の拝見を依頼しておくべきであった) 1月7日(金)4時半起床。5時半発。第三経典結集、クムラハール遺跡見学。病院跡も西の端の池の中にあり。
マハートマ・ガンジー橋を渡る。丁度ガンジス河の下流より朝日が登ってきており、光が魚取りの帆船3隻に映えて誠に美しい。橋の中程でバスを止め写真を撮る。(光明へ春の舟進く摩訶ガンガ 川崎一洋作)ユーピー州に渡りガンジスの齎す作物の恵みを眺める。右は一面のバナナ畑、ヒマシ油、芥菜等々続く。
朝靄の中、ヴァイシャーリーに到着。まず舎利器出土の所に供物を捧げ法要。おさがりは子供達を一列に並べて配る。次にジャイナ教24番目の予言者マハービラ誕生地に向かう。道案内役に現地の人を乗せてゆく。赤いジャイナ教の門をくぐり、右手にジャイナ教寺院を見てしばらくゆくとどんづまりに大きな菩提樹があり、その右側に、約15Mの円周の中に石碑が立つ。その他には建物らしきものはない。
次にそこを去り、同ヴァイシャリーアショーカ獅子柱(ここの獅子はクシナーガラに向かって立っているという)、み猴池を見学。み猴池は昨年、訪れたときより大分発掘されていた。その右奥に卍形の僧院跡等も発掘されている。玄奘三蔵の記録にある如くこのまま発掘が進めば相当大きな遺跡が繰り広げられる。
帰りに、土産話に所望した椰子酒を飲む。椰子の皮に傷をつけ一晩、瓶(壷)をぶら下げておくと自然に椰子の汁が溜まり一晩で醗酵して椰子酒の出来上がりである。丁度朝なので新鮮である。味はヨーグルトを砂糖水で薄めたようなもの。まあ、あっさりとしたものである。私はコップに1/3程、中原君はコップ1杯飲み干す。日下氏の下痢はこれが原因かと述懐…。(博物館は館長がベナレスに行き閉館されていた。残念。)
クシナガラに向かう。昼食はヴァリア村のカレー所。少し汚い所だが美味。特に皆はナンの所望が多い。
この地方(ユーピー州にさしかかる手前)の川には独特の風習が見られる。普通死人がでるとヒンドゥー教はガンジス河もしくはその支流にて焼いて灰を流し、墓は建てない。しかしこの地方は、川の端に独特の供養塔を建てる。人の姿の場合も稀にある。ただ、日本の供養塔とは違って骨は入っていない。五輪の塔に形は似ている。カラフルである。何かと故人を慰め災いの来らぬ信仰から来ている由…。ゆっくり写真を撮る(午後3時半)。ユーピー州に入る。早速、サラスバティ祭(2月20日頃挙行)の寄附の為にバスを停められて催促される。
チュンダ村に到着。夕日が美しい。小さな村の子供達ほぼ全員と思われる位それぞれを取り囲み、物乞いの催促。案内人の柴野氏も滅多に行かぬというチュンダ屋敷跡と沐浴地まで芥菜畑の中を歩く。(徒歩片道約10分)チュンダは若干裕福な鍛冶屋であったらしい。そのチュンダ屋敷跡で供養の線香等を取り出すと、何を勘違いしたのか大勢の子供達がそれにどっと群がり奪い合う。それどころか我々の荷物まで手にかける。集団心理の為せるところか…。追い払ってやっと一灯少香にて心経一巻。それにしても余程飢えている村である。落ち着いて読経もままならぬ。夕日の傾く中、急いでバスに乗る。
午後6時、クシナガラ到着。温度が急激に低くなる。約10度くらいか。室内に温風機が取り付けてあるも水不足のためか、シャワーは15分間隔に湯が溜る仕組みになっている。
高野山大学に居たK君がひょっこり私を訪ねてくるものの、旅の多忙の最中、いちいち相手に出来ない。夕食をおごってあげる。
1月8日(土)5時半ホテル発。涅槃堂参拝。沙羅の木の葉を子供達が持ってくる。人の来る度、この子供達は沙羅の葉を差し出して若干の礼金を貰っているのであろう。それにしても有り余るほど沙羅の木がある訳でもなく木々の先を見ると大分むしられている。濃い朝靄が我々を包む。ランバル塚参拝。ランバル塚に向かって朝靄のある一線まで来ると、大きなこの荼毘塚の輪郭が薄ぼんやりと浮かぶ。その瞬間が面白い。2・3度後ずさり、そしてその塚の彷彿とする妙味を確かめる。靄の中、読経供養。
降魔成道仏の堂を参拝。この仏像は彫りも良く秀逸である。光背のデザインがまた素晴らしい。
ネパール国境に向かう。11時近くに国境にさしかかる。入口手続きに小1時間はかかるので、その間、屋台の店を物色。ネパール正装帽を40ルピーで買う。この辺りはネパール・ルピーが使用されているのでインド・ルピーと混同なき様確認して買わねばならない。(インド・ルピーはネパール・ルピーの約1.6倍に相当する。)
12時15分、ネパール領ルンビニーの法華ホテル着。出来たばかりの新しいホテル。今回の巡礼のうち最も綺麗なホテルという。流石に美しく造られている。日本式に畳も入っている。午後3時半、産湯の池、マヤ堂参拝。目下マヤ堂は再建中。別堂に諸仏を全て移動していた。そこで供養。1羽の鶴が歩いており人を全く恐れない。それどころか餌をねだって鞄をつついたりする。ネパール寺院、チベット寺院参拝。
夕食の折り、柴野氏の紹介にて『佛跡巡礼』の著者でもあり、インド仏跡復興に力を注がれている植物学者の前田行貴氏と会う。数日間は前田氏一向(女性達)と同行の予定。中原慈良君は前田行貴氏の『佛跡巡礼』を差し出してサインをしてもらう。
私は日本から疲れぎみで夜は風邪にて咳こむ。
私は今夜、瑞樹氏と同室ではあるが、2間続きの素晴らしい部屋である。トイレ(2つ)バス付き、バスは大浴場が別にある。
1月9日(日)朝6時起床。朝食の折り、前田行貴氏と懇談。私が風邪を惹きかかっていたので前田氏は釈尊が当時教えたという風邪薬を教えてくれる。即ち、紅茶に生姜、鬱金、胡麻をすって飲むと良いとのこと。どこのホテルでも紅茶にしょうがを入れたアドレクチャイ(ミルク入)があるので早速、全員におごる。
ここルンビニー法華ホテルでは記念植樹を奨励していた。但し1本1万円である。このお金は樹木代の外、ルンビニー復興基金に回すという。我々は3本庭に植樹した。この樹木は摩耶夫人ゆかりの無憂樹(アショーカ・トリー)である。1本は高野山大学印度仏跡巡拝団(1人5百円ずつ集金)、1本は高野山大学紫雲寮代表・浅井覚超、今1つは矢田部信恵子氏(三度渡印巡礼御礼の為)名義である。それぞれに植樹式を挙行。10年も経てば赤い無憂樹の花が咲くことを期待してやまない。
前田行貴氏の談によると、かつて前田氏はここに約2百本程の無憂樹を植えたという。ところが家畜に食べられ7年程経ったときにはその中の1本だけ根付き花が咲いたという。法華ホテルの植樹も無憂樹と言いつつも有憂樹を誤って植えていたので前田氏は「折角、皆が1万円も出して期待しているのであるから」と思って、無憂樹を正しく示し、有憂樹の苗を全て無憂樹に移しかえ肥料も自ら施して現在に至っているという。インド人は無憂樹(アショーカ・トリー)も有憂樹(ショーカ・トリー)も同じくショーカ・トリーと曖昧に発音し厳密な区別をしない。植物学者の前田氏はそういった所は見逃さず赤き花の咲く無憂樹の苗を多く育てているのである。(『広辞苑』の無憂樹の説明にルンビニー園の菩提樹を指すとあるがそれは誤りである。前田氏も断言。)
朝靄の中、記念植樹を終えてピプラハワに向かう。カピラ城跡地である。国境を越え、午前9時に到着。鍋鶴が9羽、こうこうと鳴き乍ら廃城(廃寺)の空を渡る。
ところで今般、私はこのカピラ城址での供養として釈迦族の経木塔婆を7枚前夜に書いていた。悉地成就者の話によれば、我々を守護しているインド僧(白竜に乗り、眉の少し長く降魔印を為す。釈尊の命にて、ヴァイシャリー地より出現)は、右手に錫杖を執り、その錫杖からこうこうと光が放たれ(錫杖の音声)、そこら一面にころがっているあまたのどくろを照らすと、忽ちに人の姿に変わっていったという。我々の釈迦族の供養を助けてくれているのである。(注.錫杖驚覚による成仏法である)釈迦族は現在ネパールに生き延びているという説(釈迦族がいる)もあるが、一大虐殺によってその国は亡ぶ悲しい歴史をもつ。凡そここカピラ城跡は当時殺戮の巷となったことであろう。
私はその錫杖の話を聞き、有り難くて有り難くて涙がこぼれた。2千5百有余年以上を経た今日であっても、せめてもの報恩に釈迦族の霊を弔うことは仏教徒として当然と言えば当然である。
迦毘羅城廃れ田鶴鳴き廻りけり 覚超
(参考、季語は田鶴=冬)
ここに前田氏も来ており、煉瓦にもみが入っている特性のあることを示してくれた。今でもここは稲作地帯。釈迦族は稲の栽培で成功した。当地現在の赤米と白米の作のうち、赤米の方はジャポニカ米と同種。日本の米もその源流をたどればガンジス川の野生の稲(現在もある)にまで至る。その野生の稲の栽培に成功したのが釈迦族なのである。
私は釈迦族供養の歓喜にうち震えていた。鳴き渡る田鶴の声がより一層胸の奥に響いた。
バスは祇園精舎に向かう。夕4時に到着。まず、三道宝階に因む。ストゥーパ登拝。山巓で読経。釈尊が降りてこられたのは八大佛跡の1つ、サンカーシャの地である。マヤ夫人の説法の為世尊が天に登った所は祇園精舎そのものという説と、この場所であるという説がある。而して赤煉瓦でかくも大きなストゥーパを建てている位であるから、古来はその意味で信仰されていたものであろう。次いで祇園精舎の門をくぐる。仏弟子の殿並びに、アーナンダ菩提樹礼拝。世尊香殿にて読経供養。
舎衛城に行き、指鬘外道の塔、スダッタ長者の屋敷跡を見学。帰りに牛頭天王社跡(現在はジャイナ教の管理)に登り、真紅に落ちゆくインドの夕陽を眺める。祇園の前に所在するスリランカ寺院を参拝し、舎利を礼拝。スリランカから持ってきたという物で、白い丸い小さな粒であった(私は50ルピー布施)。紅茶を御馳走になる。5時半暮れかかった中、日本人が建てた鐘楼に行き、皆はそれぞれ鐘を撞いていた。6時過ぎにマヤホテル着(バルランプール)。
1月10日(月)前田行貴先生と又、同じホテル。朝食の折り、龍華樹について教示を受ける。前田先生も弘法大師の入定信仰と龍華樹についての私の質問に大そう興味を示していた。サールナートのダーメク大塔は釈尊が弥勒に授記を与えた所である。迎仏塔の土の中からは弥勒と観音像が出てきた。ともあれサールナートは弥勒と縁の深い所である。 前田先生に龍華樹そのものと、その華の写真を依頼した。前田先生はものごしの低い方で、その人間性に魅かれた。
バスはラクノー駅に向かう。1月5日から運転手とその助手さんにはこの駅でお別れ。チップの他、我々は運転手と助手に色々と品物を渡す。もう必要ないであろうと懐中電灯をあげる人もいた。それにしても安賃金でお2人は昼夜をよく無事で運転して下さった。 15時15分、特急に乗ってデリーへ。9時50分着。就寝。
1月11日(火)
デリーより特急によりアグラに向かう。タージマハールは世界の石造建築物でも屈指。背後の父なるヤムナー川の川風が身に沁みる。白亜の大殿堂に我々の影が吸い取られてゆく。
次にマトゥーラに向かう。マトゥーラの博物館の通りはお祭り騒ぎ、青空市場である。時間が無いので博物館の中の写真撮影のみ。赤砂岩の彫像が目立つ。(前田先生と又一緒になる)
早々に立ち去ってバスでデリーに戻る。何とかチベッタンバザールに皆を案内したかったが時間が無いので断念。(バザールは6時頃までである)
今日はアグラとデリーの各1店での買い物。今般は総じてスケジュールの関係で買い物はほんの少しだけ。
あっという間に巡礼が終わる。デリー空港にて若干の絵葉書を買う。案外高価で日本の絵葉書より高い位である。
1月12日(水)
夜中、1時5分発にてデリーをフライト。
途中又、香港に立ち寄る。実質時間は30分(1時間あるものの往復に30分かかる)。数人と一緒に食事をとる。大阪に13時50分着。空港にて解散。
無事につつがなく帰国したことを翌日、奥の院にて感謝。
―合掌―
平成6年1月末
高野山大学紫雲寮々監
浅井覚超 記