高野山紫雲の友 インド仏跡巡拝の旅
浅井覚超
去る2月9日から19日にかけて、高野山大学生を中心として左記の17名ににて釈尊の聖跡を巡拝した。
雨貝夏樹、有賀匠、田中彰、佐藤真也、道家弘泰、加納和雄、川崎一洋、三木覚照、早川哲司、(以上大学生)、小野聖護、中原詳徳、(以上大学院生)、浅井覚超、瑞樹正哲、石井恵知子、早川トミ、矢田部信恵子、中村義博(以上一般)。
巡拝地は、祇園精舎、カピラ城跡、ルンビニー、クシナーガラ、チュンダ村、バイシャリー、霊鷲山、アショカ第一塔、七葉窟、竹林精舎、鶏園寺、ナーランダ、ブッダガヤ、スジャータ村、苦行林、サールナート等である。
さて、11日間の参拝中、我々が見たインドの現況を聖跡地を中心として記してみたい。
1,尼蓮禅河は乾期なので涸れており、この季とばかりに、スジャータ村へ橋の新設工事がなされていた。完成は本年中と思われる。完成の時には、スジャータ寺院、苦行林への参拝が雨期にも自由に往来できる。
2,苦行林で日本人の提案により、参拝者の布施により青空学校開設。生徒のノートは小さな石版、書いては手で消すノートである。
3,仏跡を護持するマハーボーディ・ソサエティ(第菩提会)、のメンバーが数年前からヒンドゥー教徒よりも仏教徒の数が増し、仏教徒に主導権が移っている様子とのことである。
4,ごく最近、チュンダ村にジャイナ教寺院が建立された。チュンダ屋敷跡に入る道は、ジャイナ教のドーム型の入口を潜って行くようになった。チュンダ村に仏教徒が近年多く来るのでそこに目をつけたと思われる。
5,サールナート博物館(四頭獅子柱、初転法輪像等収蔵)は棟の増設工事も終わり、一切撮影禁止となっていたものの、インドのことなので数年後にはまた撮影は許可されるものと思われる。
6,ルンビニーはマヤ堂の発掘も終り、現場内は立入禁止。遺構として保存する意向があるらしい。尊像は仮殿に安置されている。マヤ堂の底に根を張りめぐらしていた大菩提樹は伐られてその姿は全く見えなかった。
7,ニューデリー国立博物館に展示されているピプラハワー(カピラ城址)出土のソープストーン製の舎利器2個のうち、小さい方の1個は、カルカッタ博物館に移されていた。
8,ヴァイシャリーでは目下獅子柱下あたりを発掘中。猿王の池は修繕されていた。既に卍型の寺院跡が発掘され、幅広い探査が今後続くものと思われる。舎利器出土の仏塔跡に発掘が接続されるのにはまだまだ年月がかかりそうである。なお、道路を隔てた大池の対岸に、日蓮宗の大きな白い寺院が新たに建立されていた。
9,ナーランダ博物館は写真を許可されたものの奥の別館は改装中であった。ナーランダ大学址も向かって右側奥で発掘しており、少しずつでも仏像が増えている。
10,鶏足寺の最も古いとされる遺構の奥にいつのまにかイスラム教徒の墓がくいこんで来ている。住民は仏教徒と違うのでこういうことも彼等は平気である。
11,ホテルのチップが近年異常な高騰をみせている。例えば枕銭の場合、平成6年頃までは2ルピー位、平成8年では5ルピー位、さて平成9年2月では10ルピー位と旅行業者から通達があった。その理由としては、5ルピー札が少なくなり、硬貨の5ルピーが新たに作られているとのことであった。
12,平成3年巡拝した折、インド人常用の歯ぶらし、即ちニームの木枝よりアトピーに効果のあるニーム石鹸が売られていた。我々は「何と言ってもニームの練り歯磨が出来れば外国人によく売れる」と提案した。今回はそのニームの樹より抽出した成分より「ニーム」練り歯磨き」が出来上がっていた。インド人の歯の強さは第一にニームの木の歯磨きにあり、加えるに砂糖黍をかじることにある。
さて、かって1956年は仏滅2500年に当り、ネール首相の鳳声もあって仏教遺跡の復元と各国の仏教寺院がブッダガヤを中心として建立され始めた。仏滅2550年は西暦2006年に当り、本年を含め10年後に迫っている。八大仏跡をみると、サンカーシャの地などは全く発掘すら行われておらず、八大仏跡以外の仏教遺跡もまだまだ確認されていないところもある。同時に新仏教の人々とのより一層の交流も仏滅2550年に向かって為しゆくべきことと思われる。インドはヒンドゥー社会であるから、仏教徒の社会的地位はその信奉する人々の数からいっても低い。それよりも内よりも釈尊の教えがインド国内にて更に広がるべく努力したいものである。
(高野山在住)
平成9年8月1日 高野山時報