「心経」には最初にすべての結論が書かれています
「観ること自在なる菩薩が、深く智慧の修行をしたとき、感覚器官で感じられる世界はみな空であると理解して、一切の苦悩と厄難から解放された」
仏教にとって肝心要は「空」で、その目的は「苦厄」からの解放です
「空」では、諸法は「不生不滅、不垢不浄、不増不減」です
文字通り解釈すれば、私も貴方も仏も、不滅で汚れず減衰しません
仏教全体の考え方からすると、永遠に生きるというのはこれはこれで辛いということになってはいます
仏教にとって肝心要は「空」で、その目的は「苦厄」からの解放です
で、そのプロセスそのものには、仏が関与するとは書かれていません
「心経」には、三世の諸仏も智慧の修行をしたと書かれているだけで、智慧の修行をするべきことが示唆されるだけです
だから、ただ知識として「心経」を理解しても、自分の限界を超えることはできません
「空」が苦悩と厄難からの救いを保証しなくてはなりません
それには「空」で、あなたを待っている存在が必要です
「心経」を説いている、お釈迦様のつもりになって、また、お釈迦様に呼び掛けて、「心経」を読む必要があります
ざっくり仏教的説明をすると、「空」が眼耳鼻舌身といった感覚器官で受け止められ、色受想行識といったプロセスで意識となっていくのですが
図の赤丸部分ですね、脳に取り入れる関門があります
脳幹といいます
すべての外界からの信号が(神経の波動)ここをとおります
(このことからも、外界は量子的な波動じゃなかろうかとなりますね)
で、通るときに、自分の生命の危機、安全、維持に重要な情報が優先されるように生物は進化してきているようです
ですから、必然的に、脳内は(自分にとって重要な情報)でぎっちり埋め尽くされます
ですから、エゴイズムは普遍的なのです
ここでは「感じる前の世界」としていますが、不滅で汚れず滅しない「空」ですね
これを、自分にとって重要な情報を取捨選択して、自分自身で勝手に脚色して歪めてしまうのです
それは、生命の長い進化の過程で、自分の生命維持に執着して、すべての情報を自己中心に整理する個体が生き残る確率が高かったから、エゴイズムが肥大化した、という理由でしょうね
人間社会にある、神話、宗教教義、伝説は、ざっくり整理してしまえば、脳内世界の産物であり、「心経」的には「転倒した夢想」ということになります
ですから、人間自身は、自分自身の根本的な救いを作り出すことができない構造になっています
「空」をどう説明しても、それは、自分の脳内世界の会話にすぎません
どうあがいても、「色」の中をかき混ぜるだけです
「心経」では文字は同じですが、2種類の「咒」が説かれています
赤で囲った精神集中の意味の「咒」
白で囲った呪文の意味の「咒」
「心経」で何が言いたくてこの経典が書かれたのか、といえば、結局、この呪文を唱えてもらいたいためだ、というのが素直な解釈です
世界各地で発見されている古写経にも、この呪文がありますから、後からくっつけたということではなさそうです
「観自在菩薩」は「観ること自在なる菩薩」で修行者に対する呼びかけなのですが、「心経」にはれっきとした佛が登場します
「三世諸仏」です
「三世諸仏」が「空」であなたを待っていて、救ってくれるのです
身近な存在でいえばお釈迦様になりますが、過去現在、そして未来も含めると三千いるとされていますので、どなたか、救ってくださります
やはり、一神教ではないのです
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
ギャーテーギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソウギャーテー、ボージソワカ
Gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā
Gate 行ける者よーー>「三世諸仏」
Gate 行ける者よーー>「三世諸仏」
pāra 目指すべきところへ
gate 行ける者よーー>「三世諸仏」
pāra 目指すべきところへ
saṃ 正しく
gate 行ける者よーー>「三世諸仏」
bodhi 目覚めに
svāhā 栄あれ
一切の転倒した夢想から遠く離れて、自在に観る修行者は
三世の諸仏に向けて咒を唱える
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
ギャーテーギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソウギャーテー、ボージソワカ
そして、一切の苦悩と厄難から解放される
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
ギャーテーギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソウギャーテー、ボージソワカ
Gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā
Gate 行ける者よーー>「三世諸仏」
Gate 行ける者よーー>「三世諸仏」
pāra 目指すべきところへ
gate 行ける者よーー>「三世諸仏」
pāra 目指すべきところへ
saṃ 正しく
gate 行ける者よーー>「三世諸仏」
bodhi 目覚めに
svāhā 栄あれ
Gateはサンスクリット語では呼びかける時の言葉です
語源的には、英語のGoにつながる言葉らしいです
「色」の中にいたら、いつまでも救いのない我々が、「空」に向かって呼びかけるのですが
これを、浄土教的な念仏、あるいはキリスト教的な啓示と似た概念ということができます
阿弥陀三尊来迎図(江戸時代) 長保寺蔵
「心経」は、仏教全般の肝心要の要点を書いた、一種の解説書でもありますが、現在は理屈が知りたくて「心経」を読む人は、ほぼありません
神仏に対する、法楽(称え喜ばせる気持ちでしょうか)や祈願(現世利益ですね)や、回向(亡くなった人の供養)でも読誦されています
1300年にわたって読誦され続けているのは、やはり「心経」の説く「色」と「空」の関係が普遍的な意味を持つからでしょう
仏教では、果分不可説(かぶんふかせつ)というのですが、「空」とか「悟り」の内容を説明することはできない、とされています
それは(説明)であって「空」そのものではないからです
食レポみたいなものですかね
人それぞれ、味を上手に説明しても、食べてみるまではわからない
ですから、仏教教義とか、教義に基づいた宗派とか、どうなんだ、ということです
それでも、2500年に及ぶ世界仏教史の中で、一人だけ、果分可説を主張した天才がいます
弘法大師です
弘法大師によれば、「空」は「響き」から成り立っていて、声と字は不可分で、それを実相とすると
量子論などない時代に、波動を洞察していたことになりますね
正直、弘法大師の説は何度読んでもわかりにくくはあるのですが、咒とか真言に、単なるオマジナイではない働きがあることを実感していたのでしょう
そもそも、我々の脳は、脳幹からつながっている神経からの電気信号を通じて世界を認識しています
世界がそこにあるといったところで、元を正せば、電気的波動です
この、波動の性質を「不生不滅、不垢不浄、不増不減」であるとするのが「心経」の立場なのですがエネルギー不変の法則、と似てませんか
仏教には、輪廻転生、因果応報、多神世界、加持感応など、独特の世界観があるのですが、エネルギー不変の法則で説明できなくもない、と思っています
輪廻転生>>エネルギーは不変だから、消えたと思っても、どこかで復活する
因果応報>>エネルギーは不変だから、作用があれば、必ず反作用が生じる
多神世界>>エネルギーは不変だから、個別の人格は失われない
加持感応>>エネルギーは不変だから、大きなエネルギーから小さなエネルギーに移動できる
「心経」の理論的な側面を、ざっくりと解説してきましたが、仏教はもう2500年もやっているので、語りだしたら止まれないのですよ
サンスクリット、チベット、漢文、パーリ語、それに日本の高僧方の著述もあります
英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語などの論文も多数あります
研究はいくらやってもやり尽くせないのですが、じゃあいったい、自分はどうしたらいいの?ということですね
「心経」的には苦厄をどう逃れるのか
病気なら、薬を飲むか、医者に行ったほうがよさそうだし、金が無いなら、どうにかして稼ぐしかないわけだし
そうじゃなくて「心経」は、自分自身の智慧の修行(般若波羅蜜)で、なにをしたらいいかわかる(無上正等正覚)のではないでしょうか
「過去現在未来の諸仏は、智慧の修行によるがゆえに、無上正等正覚を得た」
「心経」で説かれている修行は、もう一行目に書いてあります
「深く智慧の修行をおこなう」ということになります
般若波羅蜜(智慧の修行)は仏教ではごく一般的な修行で
壇(布施)によって戒(いましめ)が生じ、戒から忍(忍耐)が生じ、忍から進(精進)が生じ、進から禅(心の落ち着き)が生じ、禅から智慧が生じる
壇>戒>忍>進>禅>慧(智慧)
これを六波羅蜜といいます
段階的に進むのが一般的ですが、どれか1つだけ強調しても出来ます
どれか一つをやりこむことが、全てに通じるという考え方です
「心経」は、智慧の修行を強調している、ということですね
他のことは、そこから派生してくるという考えかたです
「心経」でいう智慧の修行とは、具体的にはなにかというと「咒」だと書いてあります
ここでいう「咒」は、精神集中の意味です
深く、精神集中を行うことで、一切の苦厄を解決した
難行、苦行、勉学、ではないです
壇(布施)、戒(戒律)、忍(忍耐)、進(精進)、禅(禅定)、ではなくて「咒」(精神集中)です
「心経」は「深般若波羅蜜」(深い智慧の修行)である「咒」(精神集中)をするためには、最後の行の「咒」(呪文)を唱えろと言いたいわけです
その「咒」(呪文)は、「三世諸仏」に呼び掛ける呪文です
「三世諸仏」は「般若波羅蜜」(智慧の修行)によって、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)無上正等正覚を得て、すでに「涅槃」にいるわけです
「心経」のいう苦厄の解決とは、三世諸仏に呼び掛けて、涅槃にいる三世諸仏の加護を得ながら自助努力をする、ということでしょうか
図解してみると
「観自在菩薩」(自在に観る修行者)が、「空」にいる「三世諸仏」に対して「咒」で呼び掛けて「行深般若波羅蜜」(深く智慧の修行)をする
「心経」における修業は「咒」を唱えることです
健康と長寿のため、成功と繁栄のため、安全と平和のため、先祖供養と冥福のため、除災招福のため、悟りへの道のために「咒」を唱えます
ふとしたインスピレーション、思わぬ助力、考えもしなかった助言、降ってわいたような計画、目が覚めたような気持の変化、などなど、いろいろな形で現れます
奇跡も起こりますが、まあ、めったとありません
「心経」の最後の行にある
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶 ギャーテーギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソウギャーテー、ボージソワカ
この「咒」は、意味を知る必要はないとされています
純粋に呪文として唱えればいいと(サンスクリットで読解できますが)
仏教では、伝統的に、咒と真言は翻訳しません
いわば、パスワードなのです
「心経」最後の行の「咒」は、
「すなわち、咒を説いていわく」
と、この「心経」を説いた、お釈迦様が説いています
我々は、「空」に向かって、救いを求めて呪文を唱えるわけですが、その呪文は、人工物ではなく、お釈迦様自らが、我々のために説かれたものです
まあ、たとえば、「たすけてください」とか「金持ちになりたい」とか「病気がよくなるように」とかなど、つまり、人間界の言葉です
この、人間界の言葉が「空」にいる三世諸仏に届くかどうかは、わかりません
ですが「心経」の「咒」は、そもそも、お釈迦様の口からでた言葉です
この「咒」を唱えることで、苦難と厄災を逃れると、お釈迦様が説いているのです
誰かの発明品でも、発見されたものでもありません
「心経」の「咒」は、お釈迦様由来です
だから、「咒」を唱える意味があるのか、とか、「咒」を信じる信じないとか、あまり心配する必要はないと思います