一には叙意二には釈名体義、三には問答。
(一)叙意
初に叙意とは、それ如来の説法は必ず文字による。文字の所在は六塵その体なり。六塵の本は法仏の三密すなわちこれなり。平等の三密は法界に遍じて常恒なり。五智四身は十界に具して欠けたることなし。悟れるものをば大覚と号し、迷えるものをば衆生と名づく。衆生癡暗にして自ら覚るに由なし、如来加持してその帰趣を示したもう。帰趣の本は名教にあらざれば立せず。名教の興りは声字にあらざれば成ぜず。声字分明にして実相顕わる。いはゆる声字実相とはすなわちこれ法仏平等の三密、衆生本有の曼茶なり。故に大日如来この声字実相の義を説いて、かの衆生長眠の耳を驚かしたもう。もしは顕、もしは密、あるいは内、あるいは外の所有の教法誰かこの門戸によらざらん。今大師の提撕によつてこの義を抽出す。後の学者もつとも研心遊意せよのみ。大意を叙すること竟んぬ。
(二)釈名体義
次に釈名体義とは、これにまた二つを分つ。
一つには釈名、二つには出体義なり。
(1)初に釈名とは内外の風気わづかに発すれば必ず響くを名づけて声という。響きは必ず声による。声はすなわち響の本なり。声発して虚からず、必ず物の名を表するを号して字という。名は必ず体を招く。これを実相と名づく。声字実相の三種区々に別れたるを義と名づく。また四大相触れて音響必ず応ずるを名づげて声という。五音、八音、七例、八転、みなことごとく声を待って起る。声の名を詮することは必ず文字による。文字の起こりはもとこれ六塵なり。六塵の文字は下に釈するがごとし。
もし六離合釈に約せば、声によつて字あり。字はすなわち声が字なれば、依主に名を得。もし実相は声字によつて顕わるれば、すなわち声字が実相なりといわば、また依主の名を得たり。もし声には必ず字あり、声はすなわち能有、字はすなわち所有にしてよく字の財を有すといわば、すなわち有財に名を得。声字には必ず実棚あり、実相には必ず声字ありて、互相に能所たりといわばすなわち名を得ること上のごとし。もし声の外に字なく、字すなわち声なりといわば、持業釈なり。もし声字の外に実相なく、声字すなわち実相なりといわば、また上の名のごとし。この義は「大日経疏」の中につぶさに説けり。文に臨んで知んぬべし。もし声字と実相と極めて相迫近にして避遠なることを得ずといわば、ならびに隣近に名を得たり。もし声字は仮にして理に及ばず、実相は幽寂にして名を絶す、声字と実相とは異なれり。声は空しく響いて詮することなく、字は上下長短にして文をなす、声と字と異なれりといわば、ならびに相違に名を立てたり。帯数は闕けてなし。如上五種の名の中に相違は浅略の釈に約し、持業と隣近とは深秘の釈による。余の二は二釈に通ず。
(2)二に体義を釈するにまた二つあり。初には證を引き、後にば文を釈す。
(イ)初に引證とは、問うていわく、今いずれの経によつてかこの義を成立するや。答う、「大日経」に明鑒あるによる。かの経にいかんが説く。その「経」に法身如釆偈頌を説いていわく、
「等正覚の真言の言名成立の相は
因陀羅宗のごとくにして、諸の義利成就せり。
増加の法句と本名と行と相応することあり」と。
問う、この頌は何の義をか顕わすや。答う、これに顕密二の意あり。顕句の義とは疏家の釈のごとし。密義の中にまた重重横竪の深意あり。故に頌の中に喩を引いて、「因陀羅宗のごとくにして諸の義利成就せり」と説く。因陀羅とはまた顕密の義を具す。顕の義にいわく、帝釈の異名なり。「諸の義利成就せり」とは、「天帝自ら声論を造つてよく一言においてつぶさに衆義を含す。故に引いてもつて証となす。世間の智慧すらなおしかくのごとし。いかにいわんや如来は法において自在なるをや。」もし秘密の釈を作さば、一一の言、 一一の名、一一の成立に各々よく無辺の義埋を具す。諸仏菩薩無量の身雲を起して三世に常に一一の字義を説きたもうも、なお尺すこと能わじ。いかにいわんや凡夫をや。今しばらく一隅を示すのみ。
頌の初に等正覚とは、平等法仏の身密これなり。これこの身密その数無量なり。「即身義」の中に釈するがごとし。この身密はすなわち実相なり。つぎに真言とはすなわちこれ声なり。声はすなわち語密なり。つぎ言名といつぱ、すなわちこれ字なり。言によつて名顕わる。名はすなわち字なるが故に。これすなわち一偈の中の声字実相のみ。
もし一部の中に約してこの義を顕わさば、しばらく「大日経」について釈せん。この経の中の所説の諸尊の真言はすなわちこれ声なり。阿字門等の諸字門および字輪品等はすなわちこれ字なり。無相品および諸尊の相を説く文はならびにこれ実相なり。
またつぎに一字の中に約してこの義を釈せば、しばらく梵本の初の阿字、ロを聞いて呼ぶ時に阿の声あるはすなわちこれ声なり。阿の声はいずれの名をか呼ぶ。法身の名字を表す。すなわちこれ声字なり。法身は何の義かある。いわゆる法身とは諸法本不生の義、すなわちこれ実相なり。
(ロ)すでに経證を聞きつ。請う、その体義を釈せよ。頌にいわく、
五大にみな響あり、 十界に言語を具す、
六塵ことごとく文字なり、法身はこれ実相なり。
釈していわく、頌の文を四つに分つ。初の一句心声の体を竭し、次の頌は真妄の文字を極め、三は内外の文字を尽し、四は実相を窮む。
(A)初に五大といつぱ、一に地大、二に水大、三に火大、四に風大、五に空大なり。この五大は顕密の二義を具す。顕の五大とは常の釈のごとし。密の五大といつぱ、五字五仏および,海会の諸尊これなり。五大の義とは「即身義」の中に釈するがごとし。この内外の五大にことごとく声響を具す。一切の音響は五大を離れず、五大はすなわちこれ声の本体、音響はすなわち用なり。故に「五大にみな響あり」という。
(B)つぎに「十界に言語を具す」とは、いわく十界とは、一には一切仏界、二にほ一切菩薩界、三には一切縁覚界、四には一切声聞界、五には一切天界、六には一切人界、七には一切阿修羅界、八には一切傍生界、九には一切餓鬼界、十には一切捺落迦界なり。自外の種種の界等は天・鬼および傍生趣の中に摂し尽す。「華厳」および「金剛頂埋趣釈経」に十界の文あり。この十界のあらゆる言語はみ
な声によつて起る。声に長短高下、音韻屈曲あり。これを文と名づく。文は名字により、名字は文を待つ。故に諸の訓釈者のいう文即字とは、けだしその不離相待を取るのみ。これすなわち,内声の文字なり。この文字にしばらく十の別あり。上の文の十界の差別これなり。
この十種の文字の真妄いかん。もし竪浅深の釈に約せばすなわち九界は妄なり、仏界の文字は真実なり。故に経に真語者・実語者・如語者・不誑語者・不異語者という。この五種の言、梵には曼陀羅という。この一言の中に五種の差別を具す。故に竜樹は秘密語と名づく。この秘密語をすなわち真言と名づくることは、訳者五が中の一種を取つて翻ずるのみ。この真言は何物をか詮すや。よく諸法の実相を呼んで不謬・不妄なるが故に真言と名づく。その真言いかんが諸法の名を呼ぶや。真言無量に差別ありというといえども、かの根源を極むるに大日尊の海印三昧王の真言に出でず。かの真言王いかん。「金剛頂」および「大日経」所説の字輪字母等これなり。かの字母とは梵書の阿字等乃至呵字等これなり。この阿字等はすなわち法身如釆の一一の名字密号なり。乃至天竜鬼等もまたこの名を具せり。名の根本は法身を根源となす。彼より流出して稍く転じて世流布の言となるのみ。もし実義を知るをばすなわち真言と名づけ、根源を知らざるをば妄語と名づく。妄語はすなわち長夜に苦を受け、真言はすなわち苦を抜ぎ楽を与う。譬えば薬毒の迷悟に損益不同なるがごとし。
問うていわく、竜猛所説の五種の言説と、今の所説の二種の言説と、いかんが相摂するや。答う、相と夢と妄と無始とは妄に属して摂し、如義はすなわち真実に属して摂す。すでに真妄の文字を説きおわんぬ。
(C)つぎに内外の文字の相を釈せん。頌の文に「六塵ことごとく文字なり」とは、いわく六塵とは、一に色塵、二に声塵、三に香塵、四に味塵、五に触塵、六に法塵なり。この六塵に各々文字の相あり。初に色塵の字義差別いかん。
頌にいわく、
顕形表等の色あり、 内外の依正に具す、
法然と随縁とあり、 よく迷いまたよく悟る。
釈していわく、頌の文を四つに分つ。初の一句は色の差別を挙げ、次の句は内外の色互に依正となることを表し、三は法爾・随縁の二種の所生を顕わし、四はこの種種の色、愚においては毒となり智においては薬となることを説く。
(a)初の句に顕形表等の色とは、これに三の別あり、一には顕色、二には形色、三には表色なり。
一に顕色とは五大の色これなり。法相家には四種の色を説いて黒色を立てず。「大日経」によらば五大の色を立つ。五大の色とは、一に黄色、二に白色、三に赤色、四に黒色、五に青色なり。この五大の色を名づげて顕色となす。この五色はすなわちこれ五大の色なり。次のごとく配して知れ。影光明暗雲煙塵霧および空一顕色もまた顕色と名づく。またもし顕了にして眼識の所行なれば顕色と名づく。この色に好悪倶異等の差別を具す。「大日経」に、「心は青黄赤白紅紫水精色にあらず、明にあらず」というは、これ心は顕色にあらずと遮す。
次に形色とは、いわく長短麁細正不正高下これなり。また方円三角半月等これなり。またもし色の積集して長短等の分別の相あるこれなり。「大日経」に、「心は長にあらず、短にあらず、円にあらず、方にあらず」というは、これ心は形色にあらずと遮す。
三に表色とは、いわく取捨屈伸・行住坐臥これなり。またすなわちこの積集せる色の生滅相続することは、変異の因による。先生の処においてまた重ねて生ぜずして異処に転じ、あるいは無間、あるいは有間、あるいは近、あるいは遠差別して生ずるなり。あるいはすなわちこの処において変異して生ずるこれなり。また業用為作の転動差別これを表色と名づく。「大日経」に、「心は男にあらず、女にあらず」というはまた心は表色にあらずと遮す。これもまた顕形色に通ず。
またいはく、「いかんが自ら心を知る。いわく、あるいは顕色、あるいは形色、もしは色受想行識、もしは我、もしは我所、もしは能執、もしは所執の中に求むるに不可得なり」とは、これは顕形表色の名を明す。顕形は文のごとく知んぬべし。自下はすなはちこれ表色なり。取捨業用為作等の故に。かくのごとく一切顕形表の色はこれ眼の所行、眼の境界、眼識の所行、眼識の境界、眼識の所縁、意識の所行、意識の境界、意識の所縁なり。これを差別と名づく。かくのごとくの差別はこれすなはち文字なり。各各の相すなわちこれ文なるが故に。各各の文に各各の名字あり。故に文字と名づく。これこの三種は色の文字なり。あるいは二十種に分つて差別す。先にいうところの十界の依・正の色差別なるが故に。
「喩伽論」にいわく、「今まさにまず色聚の諸法を説くべし。問う、一切の諸法の生ずることみな自種よりしかも起る。いかんがもろもろの大種よく所造の色を生ずと説くや。いかんが造色かれにより、かれに建立せられ、かれに任持せられ、かれに長養せらるるや。答う、一切の内外の大種とおよび所造の色との種子はみなことごとく内の相続心に依附するによる。乃至諸大の種子、末だ諸大を生ぜざるより以来は、造色の種子ついに造色を生ずること能わず。必ずかれ生ずるによつて、造色まさに自の種子より生ず。この故にかれよく造色を生ずと説く。かれによつて生ずとは前導となるが故なり。この道理によつて諸の大種、かの生因となると説く。いかんが造色かれに依るや。造色生じおわつて大種の処を離れずして転ずるによるが故に。いかんがかれに建立せらるるや。大種損益すればかれ同じく安危するによるが故に。いかんがかれに任持せらるるや。大種に随つて等量にして壊せざるによるが故に。いかんがかれに長養せらるるや。飲食・睡眠・修習・梵行・三摩地等によつてかれによつて造色ますます増広するによるが故に。大種をかれが長養因となすと説く。かくのごとくもろもろの大種を所造の色に望むるに、五種の作用あることまさに知んぬべし。
またつぎに色聚の中において曽つて極微より生ずることなし。もし自種より生ずるとぎにただし聚集して生ず。あるいは細、あるいは中、あるいは大なり。また極微集つて色聚を生ずるにあらず。但し覚慧によつて諸色を分析して極量辺際を分別し、仮立してもつて極微となす。
また色聚にもまた方分あらば極微にもまた方分あるべし。しかるに色聚の有分は極微にはあらず。何をもつての故に。極微すなわちこれ分なるによつて、これはこれ聚色の所有にして、極微にまた余の極微あるにあらず。この故に極微は有分の相にあらず。
また不租離に二種あり。一には同処不相離、いわく、大種の極微と色香味触等と無根の処において離根の者あり、有根の処において有根の者あり。これを同処不相離と名づく。二には和雑不相離、いわくすなわちこの大種の極微と余の聚集の能造所造の色処と倶なるが故に、これを和雑不相離と名づく。またこの遍満聚色はまさに知るべし、種種の物を石をもつて磨つて末となし、水をもつて和合してたがいに相離れざらしむるがごとし。胡麻・緑豆・栗稗等の聚のごときにはあらず。また一切の所造の色はみなすなわち大種の処に依止して大種の処量乃至、大種所拠の処所を過ぎず。もろもろの所造の色還つてすなわちこれによる。この因縁によつて所造の色、大種によると説く。すなわちこの義をもつてもろもろの大種を説いて名づけて大種となす。この大種はその性大なるによるが故に。種となつて生ずるが故に。
またもろもろの色聚の中において略して十四種の事あり。いわく地水火風と色声香味触とおよび眼等の五根となり。ただ,意所行の色を除くのみ」云云。また十種の色を立つ。つぷさには,彼に説くがごとし。
かくのごとくの種種の色の差別はすなはちこれ文字なり。また五色をもつて阿字等を書くをもまた色の文字と名づく。また種種の有情非情を彩画するをもまた色の文字と名づく。錦繍綾羅等もまたこれ色の文字なり。「法華」・「華厳」・「智度」等にもまたつぶさに種種の色の差別を説けり。しかれども内外の十界等には出でず。かくのごとくの色等の差別、これを色の文字と名づく。
(b)これこの文字は愚においてよく著し愛し、貪瞋癡等の種種の煩悩を発してつぶさに十悪五逆等を造る。故に頌に「よく迷い」という。智においてはよく因縁を観じて取らず捨てず、よく種種の法界曼陀羅を建立して広大の仏の事業をなし、上、諸仏を供じ、下、衆生を利して、自利自他これによつて円満す。故に「よく悟る」という。
(c)つぎに「内外の依正に具す」とは、これにまた三あり。一には内色に顕形等の三を具することを明し、二には外色にもまた三色を具することを明し、三には内色定んで内色にあらず、外色定んで外色にあらずして互に依正となることを明す。内色といつぱ、有情にして、外色とは器界なり。経にいわく「仏身は不思議なり。国土ことごとく中に在り。また一毛に多刹海を示現す。一の毛に現ずることことごとくまた然なり。かくのごとく法界仁普周す。また一毛孔の内に難思の刹あり。微塵数に等しく種種に住す。一一にみな遍照尊あつて、衆会の中にいまして妙法を宣したもう。一塵の中に大小の刹、種種に差別せること塵数のごとし。一切国土の所有の塵、一一の塵の中に仏みな入りたもう」と。
今これらの文に依つて明に知んぬ、仏身および衆生身、大小重重なりと。あるいは虚空法界をもつて身量となし、あるいは不可説不可説の仏刹をもつて身量となし、乃至十仏刹一仏刹一微塵をもつて身量となし、かくのごとくの大小の身土互に内外となり、互に依止となる。この内外の依正の中に必ず顕形表色を具す。故に「内外の依正に具す」という。
(d)「法然と随縁とあり」とは如上の顕形等の色、あるいは法然の所成なり。いわく法仏の依正これなり。「大日経」にいわく、「そのとぎに大日世尊,等至三昧に入りたもう。即時に諸仏の国土地平なること掌のごとし。五宝間錯し、八功徳水芬馥盈満せり。無量の衆鳥あり。鷺鴦鵞鵠和雅の音を出す。時華・雑樹敷栄し間列せり。無量の楽器自然に韻に諧い、その声微妙にして人の聞かんと楽うところなり。無量の菩薩の随福所感の宮室殿堂意生の座あり。如来信解願力の所生なり。法界幖幟の大蓮華王を出現して、如来の法界性身その中に安住せり」と。
この文は何の義をか現顕する。いわく二義あり、一には法仏法爾の身土を明す。いわく法界性身法界幖幟の故に。二には随縁顕現を明す。いわく、菩薩の随福所感とおよぴ如来の信解願力所生との故に。いわく、大日尊とは梵には摩訶毘盧遮那仏陀という。大毘盧遮那仏とはこれすなわち法身如来なり。法身の依正はすなわち法爾所成なり。故に「法然あり」という。
もし報仏をもまた大日尊と名づくといわんか、故に信解願力所生という。また「時にかの如来の一切の支分に無障礙力あり。十智力信解より生ずる所なり。無量の形色荘厳の相あり」という。この文は報仏の身土を明す。
もし応化仏をあるいは大日尊と名づくといわば、応化の光明普ねく法界を照らす。故にこの名を得。故に経にあるいは釈迦と名づけ、あるいは毘盧遮那と名づくという。「大日経」に、「無数百千倶胝那由他劫に六度等の功徳に資長せらるる身なり」という。これは応化仏の行願の身土を明す。
もし等流身をもまた大日尊と名づくといわば、分にこの義あるが故に。経に、「即時出現」といつぱ、この文は等流身の暫現速隠を明す。身すでに有なり。土あになからんや。これは等流身の身および土を明す。
上に説く所の依正土はならびに四種身に通ず。もし竪の義に約せば、大小そ麁細あり。もし横の義によらば、平等平等にして一なり。かくのごとくの身および土ならびに法爾・随縁の二義あり。故に「法然と随縁とあり」という。
かくのごとくの諸色はみなことごとく三種の色を具して互に依正となる。これはしばらく仏辺に約して釈す。もし衆生辺に約して釈するもまたまたかくのごとし。もし衆生もまた本覚法身あり、仏と平等なりといわば、この身、この土は法然の有なるのみ。三界六道の身および土は業縁にしたがつて有なり。これを衆生の随縁と名づく。また経にいわく「かの衆生界を染むる仁法界の味をもつてす」とは、味はすなわち色の義なり。加沙味のごとし。これまた法然の色を明す。
(e)かくのごとくの内外の諸色、愚においては毒となり、智においては薬となる、故に「よく迷い、またよく悟る」という。
かくのごとくの法爾・随縁の種種の色等の能造所造いかん。能生はすなわち五大五色、所生はすなわち三種世間なり。これこの三種世間に無辺の差別あり。これを法然・随緑の文字と名づく。すでに色塵の文を釈しおわんぬ。
作成 瑞樹正哲 平成19年10月20日
底本 弘法大師著作全集(一) 勝又俊教 編修 山喜房仏書林