金輪->仏眼
金胎蘇の関係を考えると、伝統的な解釈に縛られることになる。現用の実践のためにアウトラインを求めることにする。 金輪と仏眼が一対になって、空観の胎蔵と唯識観の金剛界が一対になっている。 |
部屋の明かりをつけたら、ありのまま様子が見えた、といった感じ。 空観とか唯識観とかいっても、いかなる力によって真如にたどりつくかといった視点が明確でない。 |
経典の文言に拘泥せずに実感に基づけば、こちらに向かってくる光とは大慈悲の威徳力をさす。 行者はありったけのイマジネーションを働かせて、一切の束縛から解放されて慈愛に包まれている自分を思い浮かべなければならない。 |
慈覚大師と智証大師によれば、釈迦大日一体説は唐大興善寺の元政から伝承の密教の正当説ということになる。 釈尊を離れて大日如来があるというのは、理屈はともかく実感に乏しい。 |
21日の間、一日につき法華経を6回読誦して懺悔し、その合間に4回坐禅するのが法華懺のやりかたである。 罪の意識の無い者に懺悔を強いるのは無理。止悪より勧善を強調した方がよい。 |
止観は漢方薬のように全体的なバランスを回復させ、密教は外科手術のように患部を摘出する。 |
器根を烈しく峻別するから、合う人と合わない人がある。 |
釈尊と神僧を信仰しなければならない。 自分の力だけでは絶体絶命のところは切り抜けられない。 |
劇的な効果もあるが、用い方を知らないと強い副作用がある。 欲望の充足の為に法を用いていると、次元の低い心識にフォーカスが合うようになってくる。 |
加---->持(所観-能観)
入定留身
釈尊---->過去七佛、三千佛、法報応、毘盧遮那佛、大日如来
などど増広されるが理論的な洗練は逆に実感の欠如をもたらす
リアリティーを持つには歴史上の人物にフォーカスする必要がある
すべての教えは実在した人の、心から生じている
今、自分が闇にいることを認めること
死に対する無知に重怖畏を持つこと
光明を求めること
諦めず粘り強く繰り返す
進もうとしなければいつまでも進まない
背を向けていたら、いつまでも光は目に入らない
速やかに結果を出すには光明に浸りきる必要がある
闇の由来を知ること
暗愚、エゴ、我執、無知、怨念、etc
自分自身の内にあるものと周囲にあるものとがある
ほとんどの場合、有縁無縁の霊の供養が十分でない。 土砂降りの雨の中で燈火をかざしてもすぐに消えてしまう。自分のことより先ず雨をなんとかすることが重要になる。 |
有縁の心識を光明に導くことと、自心の光量を増すことが同時に必要
社会的には念の集まるところを避けるのが賢明
富、権力、名声
三密加持
1 インドの八大仏跡
2 中国の五台山
3 神僧の廟所
4 神僧によって開眼された仏像
5 法華経
威儀を正す事ばかり強調するのは施主への受けねらい。
リラックスしていなければ大慈悲は求められない。
ここで雑念を去り、強く集中する。
和光同塵。
加持する対象が定まっている場合に特に留意する。影現し入我我入する。
心の片隅にあるということでよい。
しかし、忘れてはいけない。
真言行者座を立たずして一切の仏事を成す
もしあなたが神秘体験の存在を否定するなら、密教とは縁が無い。 問題は信じるか信じないかではなくて、内容をどう評価するかである。
05/05/09
輪廻について3
仏教における輪廻転生を考えるのなら、どうしてもチベット仏教を避けて通ることはできない。
日本ではチベットの無上ヨガタントラやおどろおどろしい憤怒尊の曼陀羅など、今では奇異な目で見る人も少なくなったかもしれないが、特殊な仏教という捉え方をしていると思う。がしかし。チベットに行けば、普通の常識的なあたりまえの正当派仏教である。チベットからみれば、日本仏教こそ、極東で勝手にねじくれた不思議な宗教としか写らないだろう。
それはさておき、転生については、チベットでは極めて重大な、チベット文化の核心といってもいいくらい重要な問題として考えられている。
高僧が死ぬと、その生まれ変わりを探して跡目を継いでもらうのである。決め方は、占い・夢告・遺品を選ばせるなど、それなりに、かなり厳重である。選ばれた少年は、期待に違うことなく、天才的なひらめきを持っていて、英才教育を施される。あえて言えば、生まれ変わったのだから、別の人生を選んで歩む、などという自由が与えられないのが、ちとかわいそうな気もする。
チベットでは一家で一人出家するという文化があるから、前世が坊さんだった人は無数にいることになるが、高僧から転生してきた人でないと、資質が劣ると言って、跡目として受け入れられないらしい。まあ、生まれによる差別と言えば言える。ほんとに資質と意欲があれば、野に生まれてほったらかしておいても、艱難辛苦の末に高僧となる、などという発想はないらしい。
日本でも、宗教団体の長が死んだら、生まれ変わりを探すとか、社長が死んだら生まれ変わりを探すとかになったら、どうなるんでしょ。エリートの条件は転生した記憶だとか、前世で犯罪者だったら再犯性が高いとかね、なったらどうなるのかな。
魂の記憶を覗いて利用するって発想かな。怖いような気もする。
チベットでは坊さんに子供はいないから、ヒンドゥーみたいな生まれによる差別にはならないが、極めて似た発想ではある。一つ間違えれば、輪廻転生は差別の温床だね。
履歴書に前世の経歴を書くとかね、なったらどうでしょう。その方がうまく行きますかね。世の中。
まあ、輪廻による知恵の蓄積を認めれば、そういうことになる。
輪廻による知恵の蓄積は、あるにはあるが、光による救いに遠く及ばないと捉えるか、輪廻が繰り返されなければ、賢くはならないと捉えるか、同じ輪廻を認めても全く違う。これは、宗教観でもある。光の存在を、必要不可欠と考えるか、輪廻から学ぶことが重要と考えるか。
僕は、「光が絶対に必要」と感じてるけど、さあ、あなたはどっち?
2005-05-21
輪廻について2
天台大師の師匠であった南岳慧思大師は・・・はじめて天台大師が大蘇山でお目にかかった時、「よく来たね、昔お釈迦様が法華経を霊鷲山でお説きになっていらっしゃった時、並んで聞いたのを覚えているかい。その時結んだ縁がもとで、また遇うことが出来たのだな。もっと早く来てほしかったよ」といったそうです・・・・・観音経入門 大久保良順
南岳大師は天台大師に遇うまで3回生まれ変わって修行を続けたと自ら説明した。
また、南岳大師が聖徳太子に生まれ変わったという伝説もある。
弘法大師が唐の長安で恵果和尚に初めて遇ったときには、恵果和尚が「汝と私は師となり弟子となったのは一回だけではない」と言って挨拶した。ここから、弘法大師が恵果和尚の師であった不空三蔵の生まれ変わりという伝説が生まれた。
弘法大師は心経秘鍵で、霊鷲山で お釈迦様が般若心経を説くのを聞いた、と書いている。
それにしても、聖徳太子自身が前世は南岳大師だったと言った、とか、弘法大師自身が前世は不空三蔵だったと言った、という記録は無いし、自分で書き残したものも無い。伝説を作り神格化する過程で持ち出されてくるだけのものらしい。
主要な命題は、今、なにをするか、ということなのだろう。
2005-05-18
輪廻について
不思議なことに、仏教では真正面から輪廻転生を認めているのに、なぜか、いままで主要な命題として議論されたことがない。むしろ成仏論の一部分として取り上げられている。
もうすこし暇だったら、きちんと整理して仏教学会に論文として発表したいところだが、それは誰かもっと適当な方がなさることを期待して、およそのところを書いておく。
法華経などによると、悉地を成就するのに、つまり最高の悟りを得るのに三劫(ほとんど永遠ともいえる長い時間)かかる者と10回転生が必要な者、3回、2回、1回など様々あるという。
普通に勉強しながら善根を積んでいくと、修行が完成するのに三劫かかることになっている。突いたり引いたり、いつまで経っても埒があかないのである。善根を積むことは推薦されてはいるが、修行の完成を目指すなら、ほとんど意味が無い。決着がつかないのである。善根の集積では、因果応報の連綿と続く連鎖の輪から抜け出すのは容易ではないとされている。凡夫には事実上不可能なのである。
自分の力を信じて生きるのは結構なことではあるが、所詮、生死の淵は越えられない。何回も転生しても、様々なしがらみに流されて、いつまでも流転から抜け出せない。自己努力には限界がある。ほとんど、堂々巡りを繰り返すだけになる。それでも一応、三劫ともいう無限に近い時を経れば、いつか輪廻の輪から抜け出すことができることにはなっている。
つまり、輪廻を繰り返すことで、徐々に賢くなって、愛憎の連鎖から抜け出すということは不可能に近いと考えられている。大抵の場合、複雑に絡み合った運命の糸は、転生を繰り返しても、より複雑に絡み合っていくだけなのである。
よって、仏教では、良いことをすることによって悟りに近づく、などということは期待されていない。基本的には出家して世間的な生活を捨てて、もう転生しないように願うことになっている。あるいは、善悪の生き様にかかわらず、仏によって救われると説く。
簡単に言えば、輪廻転生による知恵の蓄積は期待されていない。だから、輪廻を認めてはいるが、さほどの関心が無いのである。
むしろ、修行が完成すれば転生はしない。転生を繰り返している間は、未熟な存在である。
じゃ、どうするのかと言うと、仏による救い、瞑想による修練が強調される。
「世間虚仮、仏道唯真」
とも言って、俗世間の生活は重視されない。転生を繰り返しても、俗世間にこだわる間は修行は成就しない。
特に、 ビルマやミャンマーに行われる上座部仏教では、社会奉仕そのものをさほど評価しない。世間と関わりを持つことは修行の妨げと考える。
日本で完成の域に達した大乗仏教各派では、慈悲に基づく善行を賞賛する。これはしかし、また生まれ変わって良き生活をするとか、あるいは、前世からの乗り越えられない精神的課題を克服するとかではなく、結果や評価を求めない、無私無欲な行為が求められている。
前世も来世も「幻の如し」ととらえて、今、仏の慈悲を体現して生きることが求められるのである。
釈尊は輪廻についての議論は意図的に避けたとされている。輪廻の存在を認めることはしても、仏教を実践するのに輪廻転生を重ねる必要はない、ということになる。
転生をいくら重ねても、業が浄化されるとは限らない。仏の力に頼る必要がある、というのが、仏教の立場になると思う。
輪廻転生をあてにしないで、今、できることをしましょう、ってこと。
退行催眠ふうに言うと、過去世を追体験することよりも、光との対話を重視する。光そのものを追求する。また、輪廻のキャリアは光からの学びにどうしても必要なものとは考えていないようだ。個々人の様々な問題を、権威主義的な教条主義で押し切ってしまう傾向がある。
このへんかな、仏教にさらなる改善の余地のある部分は。
僕は、仏教が退行催眠の技法を飲み込んで発展していくのではないかと考えてる。密教がヒンドゥー教を飲み込んでしまった様にね。
2005-05-17
アウト・オン・ア・リム シャーリー・マクレーン
山川夫妻の訳
前から、読もうと思って机の上に積んであったが、ようやく読めた
アメリカの自由な空気の中で育った人が、精神世界の真実に触れていく過程が美しく描かれている。ちょっとしたエピソードとか、ふとした情景が大きな意味をもって描写され、上手に構成されている。
私にすれば特に目新しい知見はないが、心の内面に関心を持つことを知らない人が、しだいに引き寄せられていく過程が興味深い
もう一つの興味はニカイア公会議について
カトリック的には神は教会を通じて礼拝すべきものとされていて、宗教的な見解は教会の中で統一されていなければならない。これは、きわめてシビアな話で、異を唱えれば異端者の烙印を押され、最悪、異端者にされた者は火あぶりにされたこともある。ジャンヌ・ダルクは男装が異端ということで火あぶりになった。ガリレオの天動説が異端にされたのも有名な話だ。終身刑を言い渡されたが、減刑された。
一神教世界では、唯一の神の掟には逆らえないわけで、八百万の神のいる日本では理解しにくい話ではある。
ニカイア公会議は、325年3月20日から小アジアのニコメディア南部の町ニカイア(現トルコ共和国ブルサ県イズニク)で開かれたキリスト教の歴史で最初の全教会規模の会議(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia))
公会議は現在まで22回開かれているらしい。で、その最初の会議で、神とイエスと聖霊が別々であるとするアリウス派は否定され、三位一体説が正当と決定された。このあたりをキリスト教による輪廻転生説の否定の起源とするらしい。
ご興味ない方も多いと思いますが、キリスト教では輪廻転生は否定している。仏教ではお釈迦様自身が数限りなく転生をくりかえし善根を積んだという、ジャータカ物語(本生譚)が大蔵経の中に多数収録されていて、輪廻転生は、宗教自体の当然の前提になっている。
本当のところはどっちだ?ということになるが、数多の退行催眠などの傍証を採用するなら、輪廻転生はあると考えざるを得ない。
仏教では「成仏」というが、読んでそのままのとおり、いつか我々は「仏に成る」のである。
キリスト教では「神」には絶対にならない。転生を繰り返しいつか神になると言えば、異端者である。
ヒンドゥー教では前世の悪業によって不幸があるのだから、生まれによる差別を正当化する。
仏教では、そこのところを、「行いが悪ければ、今良くても来世はわからない」お互い様なんだから助け合おうと考える。
興味深いのは
「 論議の結果、アリウス派の思想を退ける形でニカイア信条が採択された。この中で御父と御子は「同質」(ギリシャ語:ホモウジオス)であるという表現が使われたが、この語の使用は聖書にない言葉がはじめて教義の中にとりいれたという意味で画期的な出来事であった。 」
ここらあたりから、キリスト教は変わっていく可能性があるかもなー・・・
2005-05-07
死の壁 養老孟司
新潮新書の帯に「最終解答」って書いてあったが。あー、恥ずかしくないのか。
雑談の聞き書きだそうで。居直った高級漫談なのでしょう。
読まないことをおすすめします。
2005-05-07