第4章 調査
第1節 破損調査
一、概要 本堂は延慶4年の建立以後、中世には柱の取替えを受ける修理や、寛文7年の修覆を含め、明治3年の屋根葺替や大正9年の解体修理、昭和36年の第2室戸台風による災害復旧工事を含め、数度の大小修理を受けて今日に至っている。
大正の修理の記録においても、当時白蟻の被害がかなり甚大であったように記されており、第2次大戦の終戦後も「イエシロアリ」の侵蝕があり、昭和25年に駆除の施工は行ってはいるが、その被害も大きく、また、第2室戸台風による災害復旧においても屋根の一部の補修を行ったに過ぎない。
大正の修理より約50年を経、当時の屋根葺方の不完全さもあって、逐次、屋根の破損の度を増し、過去の蟻害の環境的条件に合わせ、かなり早くから修理の時期に至っていたと考えられる。
二、軸部 今回は軸部の修理は行わなかったが、柱には蟻害を受けた形痕が見られる。すなわち、側柱においては西側面の前より3本目と5本目の柱、内陣柱においては来迎柱通りの4本全部と東側の前より2本目と3本目、西側は前より1本目と2本目の柱とに被害が認められる。また、内陣の西南隅柱より上った白蟻は、西面の側柱にかヽる繋虹梁まで侵入しているようで、その他のものも柱より斗 、さらに小屋内へと至っている。軸組材はいずれも取替えを要する程のものではなかった。
三、縁廻り 縁廻りはいずれも大正の補足材で比較的良好ではあるが、本堂は高台にあり西風が強く当るため、ことに西面の縁板の風蝕が大きかった。また、各隅も腐蝕が大きく、その他、背面の東寄りは昭和36年の修理に縁板のみ取替えを受けているが、巾の狭い板を張り不適当と思われたので、それぞれ不良部分を取り替えた。
背面の木階段は雨落ちにあるので腐れが大きく、踏板2枚を残して取替えた。
四、斗○ 側柱通りは良好であったが、内陣の西南隅及び西北隅とその隣接する斗 は一見して蟻害がかなり大きく認められたが、構造的には差支えないと認められたので、巻斗の差替えの可能の箇所の巻斗を一部取替えた。また内陣の東北隅も小屋内の蟻害が大きいので、かなりの被害を受けていると考えられる。
五、軒廻り 向拝部と身舎の東北隅部の腐朽、破損が大であったほか、切裏甲は上端が雨漏れによる腐朽で瓦座とも取り替えを必要とした。
向拝部は、かなり以前より雨漏れを生じていたらしく、打越○の丸桁より 鼻までの間で腐れが大きく7本を取り替えたが、その他も○鼻の腐れが見られた。この部分の化粧裏板は茅負に近い部分が全体に腐れ、中央部ではすでに穴があいていた。茅負は四面とも割合狂いが少なかったが、木負はかなり波状をきたしていたので、小屋内で飼物等入れ可能な限り修正した。
地○は良好であったが、東面北隅部の飛擔○が蝕害をうけていたほか東北隅の化粧隅木は隅柱上で、下端より板決りまでの約40pの間が大きく空洞状態となり、桔木でかろうじて保っていた。
切裏甲は身舎の両妻部と正面軒より向拝破風板上にかけて良好だった他は、大部分が厚みの約半分程が腐朽し取替えを要した。
六、小屋組 現在の小屋組は大部分が大正の補足材であるが、雨漏り及び白蟻の被害も大きく、野地は全面にわたり腐朽し、母屋・桔木等も軒先に近い範囲が殊に甚しかった。
野地には従来土居葺が施されてあったが、蒸れ腐れと白蟻の侵蝕により、野地板とも大部分が原形を残さない迄となり、野地板は部分的に脱落し、その他の板もかろうじて瓦を受けていた。
野○は大棟と前包際がほぼ良好であっただけで、正背面の一部はすでに野 が折損し、ほとんど再用出来なかった。
正面と背面の母屋は流れの中間迄が良好であったほかは腐朽が大で、ことに背面の軒先より三通りと両妻の母屋は蟻害が甚しかった。
背面北寄りの野隅木は軒先に当る全長の約半分が白蟻に侵され、その他のものも上端に腐れが認められた。
桔木も北西隅の3本が野隅木同様の状態であったほか、西面では南寄りに折損されたものが1本認められた。また、向拝上は土居桁より鼻先の腐朽が大きく、その他の桔木についても表面より2p程度が白蟻に侵されていたが、使用可能であった。
その他、身舎中心部の小屋梁、棟木、束、貫等は良好であったので、小屋全体を解体することなく部分的に補修する程度に止った。
七、屋根 前述のごとく昭和36年の第2室戸台風の被害もあり、一時的に補修はされてはいたが、すでに葺替時期に到達し、各所に雨漏れや、凹凸が目立つ状態となっていた。野地の腐朽同様、正背面は流れの中央部が特に不良で、析々にトタン板が差込まれていたものの一部は地瓦が陥没し雨水が侵入していた。両妻も地瓦の陥没か所こそないが同様の状態であったほか、背面の両隅棟は大きく波状をきたしていた。
大棟と正側面の降り棟及び隅棟は熨斗積の部分に、また背面にも野草が生えていたほか、妻の螻羽の面戸瓦は約半分が脱落し、向拝部の掛巴、西側の軒巴は一部に破損が認められた。
地瓦のうち大正の瓦と近世の瓦は焼成温度も割合低く、また平瓦は古瓦に較べ谷が浅く作られ、古瓦も凍害による被害が多かった。軒先瓦も大正瓦は古瓦に対して形状が合わぬ点があり、身舎の妻と西側の一面分に使用しただけで不足分は新たにした。
この結果、平瓦、丸瓦は全体の約40%、巴瓦、唐草瓦は約54%を取替えた。
八、壁及び畳み 本堂は側柱通りの柱間及び内外の斗○間、内陣柱通りの頭貫と飛貫間の壁がいずれも真壁になっている。本堂内部は雨漏りによる汚損が認められたが、側柱通りのうち正面の連子窓下と西面の柱間壁は、台風による破損と思われるが、壁下地から全体に浮き上り、白漆喰の上塗りの大部分が剥落し、正面の壁は4分の1を打ち壁の脱落を防いでいた程であった。
また、西面と背面の壁は内法長押下端との間が2p前後の隙を生じていたほか、落書も多く、斗 間の小壁は内外とも上塗が下地壁から離脱した箇所が各所にみられたので、柱間壁のうち特に不良箇所は下地より施工し、その他は全部上塗替を行った。
また、内陣の畳は近年表替えをなし比較的良好であったが、外陣の畳は雨漏り等もあり、全体に軟弱になり、畳床も再用出来ず全体を取替えた。
九、塗装、建具 軒の化粧裏板及び側柱通りの頭貫と内法長押間の小壁、小組天井板、斗 間の小壁、及び面戸板に胡粉塗がなされていたが、いずれも大正修理に塗られたもので、雨漏りによる汚染のほか、ことに外部化粧裏板の剥落が甚しく、全面的に塗替えた。
斗○、天井、軒廻り等の処々に丹塗の痕がみられるが、大部分剥落ちているうえ、大正補足材はいずれも古色塗仕上げとしているので、今回はあえて丹塗は行わなかった。
建具のうち外部の両開桟唐戸は全部大正のもので破損等は見られないが、各扉に付いている戸締用の「こころ」金具は、留金具の不完全と錆付から動きが不自由のものや、離れているものが認められた。
内陣廻りの格子戸のうち正面の腰付格子戸は、幅の割りに高さが高くなり、下框の磨粍のため開閉がことに不自由であって修理前は外されてあった。この通りの6枚の格子戸のうち1枚は改造の折、間違って切られたのか巾が約3p短かくなっていた。その他の格子戸の部材も、当初材は「キクイムシ」による虫害を受けていたほか、一時、障子紙を貼った折の糊付部分に虫害が認められた。