第2節 各部の構造形式及び技法に関する調査

 本堂は延慶4年の建立以後、記録に現われているだけでも、寛文、明治、大正、昭和37年とそれぞれ修理が行われているが、建立以後の中世から江戸初期にかけても度々の修理が行われたものと考えられ、数度の改宗や、寺院の盛衰のこともあり、今日に至るまでには数々の変遷があったと推察される。
 今回の修理は屋根葺替を主とした工事であるので細部にわたっての技法調査が出来なかったため、要所のみの記載とするが、内外の斗○の制、架構、平面構成など異色ある建物である。

一、建物平面及び間仕切装置 本堂は正面五間、梁間五間の、やや梁行の長い建物で正面に一間の向拝を附している。身舎は桁行、梁間とも三間を内陣にとり、周囲に各一間の入側を廻らせ、正面の入側を外陣、両側面の前より第二間と第三間の二間を脇陣に、背面側を後陣にしている。通常の密教建築では外陣の梁行を二間にとり広くする例が多いが、この建物の場合、他の入側より四支分多いだけである。
 化粧屋根裏の場合、桁行と梁間の隅の間が合致しないと隅木尻の納まりに無理を生じてくるが、この堂においては外陣にかけた繋虹梁上に大斗を置き、内陣柱上の斗 と一体にして 掛を受け、この四支分は小天井を作って処理している。
 また、脇陣も後陣との境の間を内陣背面の柱通りとせず、一間前に出している点も異色といえよう。
 柱間装置については、第3章第5節に述べた復原が行われた結果、内陣廻りは厨子の部分を除いて全部一連の引違格子戸となり、脇陣の前後の間仕切も同様となった。側廻りは正面三間と、側面前端間、及び背面中央間が両開桟唐戸を建込み出入口としている。正面両端間は連子窓としているが、脇陣側面に一時期設けられた引違格子戸は後補のもので、やはり当初からこの部分には柱間装置はない。この結果、前記扉構えと窓以外の間は真壁で、脇陣はかなり暗くなる。
 厨子は内陣背面中央間に合わせた一間厨子を厨子上に置くが、この通りの両脇間は中央寄りに小柱を建てて須弥壇を取付け、この間はやや狭い引違格子戸を建込んでいる。
 向拝は正面に一間の向拝を設けているが、身舎の中央間より六支広くとり、繋虹梁で身舎と繋いでいるが、当然身舎の側柱上の斗○に合わず、両脇間の頭貫に取付けている点も特異である。
 本堂の周囲に切目縁を廻らせ、正面に五級の木階段を設けているが、背面の階段は仮設的なものである。

 一支の寸法は各間とも0.167m(5寸5分)で、身舎桁行柱真々12.332mに対し、梁行12.999mと梁間が0.667m(5寸5分×4支=2尺2寸)長くとっている。各面の中央寄り三間が各十六支で内陣を正方形にとり、入側は十三支とするが、外陣の梁行のみ前述のとおり四支広くとり十七支としているので、各間のうち1番広く、この広げた分だけ身舎の梁行が長くなっている。

二、基礎 長保寺は山の南面傾斜地を切り開き、約3段に平坦地を作り、寺域としたもので、本堂は多宝塔、鎮守塔とともに上壇に位置するため、背面にはすぐ山の傾斜地が迫っている。
 本堂は、さらにこの上に約30pの盛土をなし亀腹を設け、床下ともモルタル塗仕上げとしている。
 この亀腹については、おそらく大正の修理時に設けられた模様で、この折の設計書のうち地形の部には「地盤ノ濕地ニ付高壱尺通リ盛土亀腹ヲ附スルヲ以テ柱石ハ番号ヲ附シ一旦堀起シ盛土ハ堂後ノ山土ヲ鋤取リ高平均壱尺通リ散布シ十五貫以上大蛸ヲ以テ充分搗キ固メ云々」と書かれている。
 「当山諸堂絵図面」の本堂の図はどこまで真憑性があるか判らないが、この図では身舎の柱と縁束の礎石天とが同一に画かれているのをみても、ほぼ間違いないと考えられる。 柱礎石は身舎のものは地山自然石、向拝柱は花崗岩切石であるが、階段下地覆石と正面中央寄りの4箇の縁束石及び正面の雨落葛石は花崗岩の切石である。これも大正の修理の補足材と思われ、その他は砂岩の切石であるので、当初材か否かは不明であるが、かなり古い材と考えられる。また、各礎石および床力は水平になるように作られている。
 縁束は後述するように、側面の中央部より背面の束全部に根継されているので、あるいは、大正修理前の縁束礎石は背面に対して上り勾配に据えられていたのかもしれない。

三、軸部、架構 身舎の軸部は側柱20本、内柱12本を、それぞれ足固貫を入れ、側柱は頭貫と切目長押、内法長押で固めて和様としている(正面両端間のみ腰貫を入れ窓構えとする)。内陣柱は内法長押と頭貫を入れ柱上は棕付をつけ、台輪こそないが、禅宗様形式とし、側柱と内柱とは繋虹梁で繋いでいる。
 柱は内外とも円柱で側柱は0.332m(1.1尺)、内陣柱は0.394m(1.3尺)で、その比率は側柱1に対し1.18倍で約2割増となり、ともに自然石の礎石に柱石口を仕合わせている。向拝柱は8寸4分角で側柱の8割弱に相当する。
 側柱は桁行、梁間とも足固貫を通しているが、桁行方向の貫は床板をのせ床板上端と切目長押上端を同一になし、梁間方向の足固貫は根太掛り分だけ下げている。内陣柱の貫は梁間方向のみ入れ、桁行方向に入る根太で各柱を挟んでいる。
 身舎の柱は当初材、中古材、大正の補足材に区分出来る。当初材においては大部分檜材であるが、一部に欅材が含まれている。
 向拝柱は鎌倉期の大面取りの柱とみなしたが、後述の頭貫との関係から考えると江戸期の補足材のようにも思われる。
 繋虹梁は、内陣柱の頭貫位置から側柱上の丸桁にかけて架け渡されているが、隅梁はなく、内陣柱には持送りの肘木と巻斗で、側柱上は斗 で受けている。
 この梁の上端は全体にかなり大きな弧形となり、下端には眉欠きを設け、断面は上端と下端はともに平であるが、側面はやはり円弧となっている。
 向拝は柱上に斗○を組み大面取りの繋虹梁で身舎と繋ぐが、前述のとおり向拝の間口は身舎の中央間より六支(3尺3寸)広くとっているので、この繋虹梁は身舎柱位置より外れ頭貫に取付いている。
 通常は柱通りを合わせるか、または手挟で始末するが、この建物の場合、特異な架構法をとっている。向拝柱下の礎盤は大正の補足材であるが、柱上の虹梁形の頭貫とともに江戸期の形式であって身舎と不釣合である。
 頭貫上の蟇股は内方の彫刻部は失われているが当初材と考えられる。現在の頭貫は虹梁形になるため上端は柱上端より4.2p程上っているので、柱が古いとすれば、当初の頭貫も虹梁形であったとみなさざるをえない。頭貫が虹梁形でなかったとすると、柱上の斗○は両者とも大正材であるので、あるいは柱頭部は蟇股下端の位置まで延びていたとも解され、この場合は斗○は現在より小さなものだったのかもしれない。
 身舎の頭貫の下端は水平に入っているが、「せい」で増があり、中央柱より隅柱には8分の柱延をつけ、頭貫上端は中央柱より隅柱に対して直線で上り、隅柱の次の柱はこの延び分だけ上ることになる。丸桁には「せい」の増がないので、丸桁口脇はこの柱延び分だけ上り、これを軒に移していると考えられる。

 柱番付について
 中古材と思われる柱にも付けられているので、後世の修理のものであろうが不明の分が多かった。

四、縁廻り 縁廻りは全部大正の補足材となり古材は全く見られないので、当時までこのような形が保たれていたかどうか疑問であるが相当腐朽していたものであろう。正面の木階段も同様である。
 縁束は、径22.7p(7寸5分)の丸束で側柱の約7割に相当しており、各側柱の柱通りに入っているので、当時代の木割り上適当と考えられる。しかし第4図に見るように後方の約半数の縁束が根継されているとはいえ、上部と根継材とでも、あまり時代的な差が認め難いので、あるいは全部が大正材なのかもしれない。
 「当山諸堂絵図面」でも柱真に縁束が入っているので、明治の頃もやはりこの制を保っていたものであろう。
 縁板は縁葛と縁板掛の間に架渡しているが、縁束毎に縁繋を入れている。今まで側柱の足元は解放であったが、不用心でもあるので、この部分に仮設的に犬防の見切桟を入れておいた。

五、斗○ 側柱上には出三ツ斗組をおき、各斗○間に長方形の束を持つ鎌倉形式の間斗束を入れた和様である。肘木はいずれも枠肘木となり内陣柱と側柱を繋ぐ虹梁を巻斗で受け笹繰をつけている。
 向拝も身舎の側柱上の斗■と同一の形式で、木鼻上に巻斗をおく連三つ斗で大面取りの丸桁を巻斗で受けている。柱上の斗○は全部大正の修理の補足材であるが、向拝柱、繋虹梁、丸桁、○はいずれも大面取りとなっているのに、この枠肘木だけは面がとっていない。肘木にも面をとるのが一般的であるので、当初はやはり面をもつ肘木であったものであろう。
 向拝の正面の中央に当初材の形のよい蟇股を置いているが、中にあった透彫の彫刻は失われその形跡だけみせている。
 内陣柱上は禅宗様の斗○で、各斗○間には間斗束を置かず詰組としている。入側に面しては外陣の繋虹梁上の斗○以外、通常の出三つ斗組であるが、内陣側は出組にして天井を高くしている。
 外陣の斗○は前述のように脇陣より外陣の柱間を広くとっているので、隅木尻の納まりのため、繋虹梁上に斗○を置いて○掛を受けている。この斗○は単独の斗○を置くほど余猶がないので、内陣の斗○と一連のものとし、肘木を延ばして巻斗をのせ変形の連三つ斗の形を造っている。厨子の斗○もまた唐様であるので、内陣は唐様に統一されている。
 内外の斗 の大きさは、柱に関係なく同一寸法で、各部材の実測寸法及び比率は次表のとおりである。
 大斗巾は側柱と同一寸法に造られているが(1.1尺)、内陣柱(柱径1.3尺)上のものは、反対に1尺とやや小さくしている。
 3つ斗組の正面長さは○厚が2寸5分と考えられるので、一支5寸5分とした場合に六支掛よりやや小さくなる計算になるが、一応六支掛の制をとっているものと解釈される。 大斗上の方斗に当る斗は巻斗と同じ形のもので、向拝蟇股上の巻斗は間斗束上の斗と同じ寸法のものである。

六、軒廻り 身舎は2軒、向拝は1軒の繁 で、化粧隅木は隅木蓋付の和様隅木を取付け、茅負上に切裏甲を打ち瓦座をのせているが、軒は柱真より茅負外角まで7.71mと深く、また比較的反りの強い軒を造っている。
 今回の修理では当初背面東隅の化粧隅木を含めてかなりの蟻害が認められたので、この部分を解体し化粧隅木を取替えるべく予定していた。しかし化粧隅木の当初材はこの隅木1本だけであり、地隅木は柱上でかろうじて繋っていたものの取替えるにしのびず、隅木上に補強材を入れたうえ隅の桔木の取付を十分にして再用した。
 この結果、この部分の飛擔種3本を取り替えたにとどめたので、軒の規矩的な納まりまで調査出来なかった。
 大正の修理においてもかなりの補足材が見られ、化粧○はかなり残されているものの、化粧隅木は前述のとおりであり、茅負は身舎東面の隅部十七支分を残しているだけで木負とも全部新たにされ、切裏甲もまた同様であった。
 身舎の丸桁は口脇せい4寸5分巾3寸8分で上端は○勾配をとらず、地○は上端角にのせているだけで、隅部も口脇せいに反り増しをつけず同寸のものを用いている。
 軒反りによる桁の反りは、前項の「軸部、架構」で記したごとく、側柱において隅延びをつくり、斗○の積上りには隅増しがないので、この柱の延びをそのまま丸桁に移している。
 すなわち、正側面とも頭貫上端は中央間を水平にとり、隅柱に対して直線に登っているので、丸桁口脇も同様に8分の延びをもつことになり、○掛の口脇は陸に納められているものと見られるが、いわゆる心反りの軒を造っていると考えられる。
 茅負、木負ともL型の断面をもち、桔木鼻は茅負に杓子○で入れられているが、茅負は中央せい5寸に対して、上端より2寸の位置で眉欠りがとられ、隅は平のせいの約2割増しである。
 向拝部は大面取りの丸桁上に、反り増付、面取りの打越○をのせているが、丸桁上端は面取り部分を欠き入れずにそのままのせている。丸桁は大正の補足材で○間の面戸板は入れていなかったが、当初の打越○には、この面戸板が取付く部分だけ面を留めていて、いわゆる角の断面をもち、面戸板を納めやすくしている。大正の補足○は面を通して造られていたが、旧○の資料により今回は面戸板を取付けておいた。向拝の茅負の反りは1寸程度で、ゆるい反りを持たせている。
 向拝の茅負と縋破風板との納まりは、茅負木口を大入れに納めているので、破風尻上端の裏甲に当る部分は欠き取られている。破風板は大正修理材であって当初の形は不明であるが、やはり当初は茅負の眉上の部分を破風板で隅留にしたものではなかったろうかと考えられる。身舎軒部と破風板との取合せ部や、眉欠りにも問題があるように思われるが、今回はこれまでの解体を行わなかったので現状のままとした。

七、小屋組 小屋組はほとんど全体が大正の補足材となり、江戸期の形式であるので、あるいは江戸期の改造の形をそのまま踏襲したのかもしれないが、建立当時の資料は全く得られなかった。
 現在の小屋組のうち身舎天井上の梁組は、内陣柱真上に9寸角の材を2本重ね、まず梁行方向には内陣の中央寄り柱上に2通り、1本材せい60p巾21pの大きな木を架渡し、この上に棟束通りに径50pの丸太を渡し、この梁鼻は敷桁上に立てた束で受け、さらに、この上には5通りの丸太梁せい36p巾30pを梁行に架け各小屋束を受けている。 小屋梁はこのように大材で堅固に組まれているが、梁行の母屋割は側柱真上に立てた束と棟束との間を5等分(一間約4尺2寸5分)して、これより茅負までは中間に1通りの母屋を、向拝上は向拝柱上の束との間を3分している。
 一方、桁行方向は、1番妻寄りの梁行梁を内陣柱真より18p外方に入れて、これを妻束の立ち処としている。
 小屋貫は巾12p厚3pの貫を、棟束で桁行上木、梁行下木とし相接して各3通り入れ、貫鼻はそれぞれ母屋に架けている。
 桔木は末口20p前後の丸太を各面とも隅木脇に2本相接して入れ、その他は約2m間隔毎に6本の桔木を入れている。
 向拝部は丸桁鼻の垂下を考慮してかなり入念な工作をしている。すなわち、向拝茅負を受けるため4本の桔木入れ、土居桁を向拝柱上においているが、この土居桁の桔木を3本入れている。この桔木は身舎木負上の土居桁で受けているが、このままでは木負が垂れるおそれがあり、さらに3本の桔木を入れているので、向拝の軒を受けるためには3段の桔木を入れていることになる。
 野○はせい5.4p巾7.0pの角材を約40p間隔に母屋に架渡し、母屋上で胴付としている。野地板は杉の板巾30p前後、厚1.5p板を約1.2pの刃重ねに張り、この上に長さ24p厚0.9pの杉の柿板を葺足8.2p、鉄釘打ちとする土居葺が施されてあった。

八、屋根 本瓦葺、入母屋造りの屋根で、軒には三つ巴の巴瓦と唐草瓦を配している。正面、背面及び妻屋根には降り棟が取付き、隅棟と大棟とも鬼瓦上には鳥衾を置き、棟積みはいずれも熨斗瓦積みである。
 鬼瓦は古い瓦は皆無で、第5章資料の項で示すとおり、大部分が明治3年のもので、ことに大棟の鬼瓦は股上65pと大きなもので、左右の鰭は、別に造られている。
 今回は、本堂の脇の多宝塔の二重の西南隅鬼が時代的に相当すると認められたので、この鬼瓦を参考にして各棟鬼の寸法に合わせて造り、二の鬼とも阿吽の形となるよう作製した。
 軒巴瓦は軒唐草瓦とも当初瓦は各25本ずつで、他は巴瓦に江戸期のものが9本あっただけで、その他は妻の掛巴とも大正の補足瓦であった。
 当初の巴瓦は、巴の面の径17.3pであるが上端の反りが4.2pあり、唐草瓦と組み合わせるとき唐草瓦の下端より1.5p上りに納まるので、今回補足の分は多少加減しておいた。大正のものは上端に殆んど反りがなく、玉口長さも当初材が7.5pに対して約半分であって、一見して形の相違が見られた。
 軒唐草瓦は縁取りの中に唐草模様を入れ、谷の深さは4.2pであった。古い瓦は前巾27.6pに対し後巾24pであったが、大正期のものは前巾28.8pに対し28pとほとんど差のない形になっていた。
 平瓦は口巾24.2p、長さ34pのもので、谷の深さは唐草瓦同様4.2p、厚2.4pとし、丸瓦は径16.4p、長さ33.3p、高さ8.2pのものであるが、玉口が取りつく部分の径は17pと広くしている。丸瓦の長さは31.2pより34.5pと色々で、径も15pより17pとかなりの差が見られた。
 熨斗瓦は大棟のものは○型のもので前面4.2pのものを大面熨斗3枚の上に10枚積みあげ高い棟を造っていたし、その他の棟も熨斗瓦用に造られたものであったが、今回は平瓦を転用して格好よく積んだ。
 縦束の瓦の葺方は、軒巴、軒唐草瓦とも尻手を銅線繋ぎとしていたほか、巴瓦は大正の補足分のみ径3分の鉄製瓦釘を胴部より打込んでいた。平瓦は葺足は平均16.7pで2枚重ねとなり、平均10枚目毎に土留桟に留め、丸瓦は平均5本目毎に、16番銅線で繋結していた。葺地は土居葺上に長さ6p程度の藁○を混入した赤土をべた置きに平均6p置き、棟積も同一の土を置いていた。
 隅鬼は鬼位置に据えたのち、10番銅線で野地と鬼瓦の掴みとを繋ぎとめていた。
 雁振瓦は棟中に径9oの鉄筋を入れ、これより16番銅線で控えをとり繋いでいたほか、熨斗積の間に丸釘を差込み、18番銅線で馬乗りに架渡していたが、すでに丸釘が腐蝕してあまり効果的でなかった。
 大棟の棟積は前述のごとくであるが、降棟は肌熨斗2辺、割熨斗6辺、鬼際に捨熨斗4枚を入れ、隅棟は稚児棟は肌熨斗1辺、割熨斗3辺、鬼際の捨熨斗4枚入れ、二の鬼上は肌熨斗上に割熨斗5辺、鬼際に捨熨斗4枚、妻の稚児棟は肌熨斗1辺、割熨斗2辺、鬼際の捨熨斗1枚とそれぞれ積んだ上に雁振瓦を置いていた。
 向拝、身舎とも裏甲部分には反りに合わせた大小の片袖丸瓦を置き、向拝には獅子を形造った留蓋瓦を置いていた。
 これらの葺方はいずれも大正の修理によるもので、背面の東隅部は昭和37年の補修があったが、屋根全体の形としては、建立時より踏襲してきたものと考えられる。

九、雑作、壁、建具 雑作については内陣廻りの内法材しか取外さなかったが、この部分の敷居、鴨居は柱に駄○または待○などの仕口がなく、たんに柱面に仕合せ鴨居は上端より釘打にとめていた。
 鴨居は戸幅に合わせて、それぞれ揚げ彫りが施してあり、戸当りは内法材に近く各1本と中間に1本の計3本が表面より釘打ちされ、鴨居取付部は○入れとしていた。
 この間の内法寸法は、5尺3寸6分で床板から5尺7寸に近い寸法となる。
 内陣廻りを含め内部の格子戸は柱間寸法より2種類となる。すなわち、内陣廻りの柱間は四面とも同一寸法であるが、内陣背面の両脇間は脇陣桁行の柱間と同一になるように小脇柱が立てられている。格子戸は縦はいずれも十六間、横は前者が九間、後者が七間で割付られ、縦横の比率は横1に対して0.76強となる。
 また、内陣廻りの吹寄菱欄間は額縁の面が内方に対しては切面であるが、外陣及び脇陣に面しては唐戸面となっている。しかし、現状変更の項で記したごとく、今回、復原された脇陣後方の間仕切より後方の間と、内陣と後陣の境の間の欄間は外方に対しても切面となっている。この切面も1.5pのかなり大きな面である。
 側面前端間の内側には、弊軸下に外部と同じく半長押が取付いているが、前より2本目の柱に枕捌きとなっている。この材は大正の材より古いと思われるが、外陣と脇陣との境の間仕切が復旧され、敷居が取付くと具合の悪いことになり、柱面に敷居取付痕が見られるので、今回はこの敷居前面で切断した。