第2節 創立沿革

 長保寺は、現在、北は藤白山脈によって海南市に接し東北は長峰山脈とその支脈によって有田郡に、西は紀伊水道に面して湾口を開く下津町のほぼ中央にあって、山の南面を切開いた上壇に本堂、多宝塔などが、また小畑に通ずる道路に面して大門が建ち並んでいる。
 長保寺の古文書などは、天正13年(1585)の兵火で亡失したといわれ、殆んど残されていないので草創以来の沿革は詳らかでないが、寺伝によれば当寺は一条天皇の勅願所で長保2年(1000)慈覚大師の門徒、二品法親王沙弥性空上人を開基とし年号を賜って寺号としたといわれ、往時は七堂伽藍、子院12ヶ坊をもつ壮麗な寺であったという。
 その後、仁治3年(1242)にいたり地をあらためて西より東に本堂を移して造り、その後さらに延慶4年(1311)に上壇に本堂を再建し落慶したのが現在の本堂で、この頃、多宝塔、鎮守堂も建立されたといわれ、嘉慶2年(1388)には大門も再建されて伽藍ができ上がり、僧坊塔頭も成り、ほぼ現在にみられるような寺観を保つに至ったと考えられる。
 創立当初は天台宗であったが、その後、法相宗、次に天台宗、応永年中に眞言宗と改宗され、寛文6年(1666)旧藩祖頼宣公の帰依により再び天台宗に復帰し、以来、代々の藩主は当寺を菩提寺と定められたのである。
 これについて「紀伊國名所図會」および「紀伊続風土記」には次のように書かれている。

 『紀伊國名所図會』(後偏 二之巻 海部郡)
慶徳山長保寺上村にあり
   方七間本尊釈迦如来額字
 本堂           右多宝塔東護摩堂左横食堂左阿弥陀堂左鐘楼堂
   世雄殿と書させたまへり
   金剛力士あり古
 大門
   色尋常ならず
         専光院 最勝院 本行院 地蔵院 福蔵院 普賢院
 本坊陽照院 子院
         吉祥寺 西福院 西南院 明王院 池之坊 明応院
 以上十二坊普賢院以下の七院今廃寺となれり
 寺伝に云 一條院の勅願所にして長保年中の草創なり故に寺号とす開基は慈覚大師の門徒なり其後応永年中に至りて真言宗に改め七堂伽藍子院十二箇寺ありしに衰乱の世子院半は廃絶し倫旨院宣の類も次第に粉失して一も遺るものなしといふ寛文六年更に天台宗に復さしめ給ひ修理を加へさせ給ひて萬世兆域の地となし給へり大門の額に慶徳山長保寺と書し裏に應永廿四年六月一日妙法院宮御筆とありとぞ然れば今の堂舎は應永再建の儘なるべし棟字矮狭にして彫 の飾少しといへども規制朴質にして古色餘あり実に靈場いふべし付物皆 國君より御寄附の名品にして挙て数へかたし

 『紀伊続風土記』(巻之二十五 海部郡 浜中荘 上村)
○長保寺慶徳山 境内周三十町許 禁殺生
   天台宗輪王寺宮末
 本堂 方七間本尊釈迦如来   多宝塔 方二間半
 護摩堂 方二間半       食堂 方四間
 阿弥陀堂 方三間       鐘楼堂
 大門 金剛力士あり 
 公家兆域 境内にあり
 本坊 陽照院
 子院 五箇寺
  専光院 最勝院 本行院 福蔵院 地蔵院
 傳へ云當寺は 一条院の勅願所長保年中の草創にして慈覚大師の門徒の開基なり應永年中に至りて眞言に改宗し七堂伽藍子院十二箇寺あり 其後衰乱の世七箇寺廃絶し 普賢院 明應院 吉祥院 西福院 西南院 明王院 池之坊なり 五箇寺は存すといへとも衰微に至り綸旨院宣の類も次第に紛失して一も遺れるものなしといふ 寛文六年南龍公此地を経歴し給ひて数百年の久しきを歴て兵燹狼籍の患を免れ七堂古のまゝに傳はりしを感し給ひ且其地山巒環抱して外幽にして内敝に萬世兆域の地となすへきを察し給ひ則佛殿一宇を建立し眞言を改て天台宗に復せしめ給ふ 寛文十一年 公薨し玉へる時御遺令ありて此地に葬り奉り佛殿を以て御位牌殿とし新に陽照院を造営して院室とし寺領五百石を寄進し給ふ 夫より以来此地を以て公家の廟所と定め給ひ七堂は舊に仍て修繕を加へられ淨域の體悉備はれり 大門の額慶徳山長保寺と書し裏に應永四年六月一日妙法院宮御筆とあり 然らば長保年間の堂舎破壊せしを以て應永年間諸堂共に再建せしなり 今の堂は即應永再建の堂舎にして今時の制に較れば棟字矮く彫刻の飾なく制度樸質にして古色餘あり実に靈場といふへし 什物は法華経の寄合書其餘佛像佛其等寄附し給ふ物あけて数へかたし これより前慶長六年浅野家より釈迦堂へ五石の寄附あり今猶これに襲用ひらる 近年一位老公親筆の世雄といふ三字の額を賜ふ