第4節 本堂の建立と後世の修理

 本堂は前節に述べたとおり、長保2年(1000)の草創以来、度々の再建をうけてきたが、現在の本堂は延慶4年(1311)の建立になるといわれる。このことについては「長保寺記録抜書」には

 一、長保寺古書ニ云 長保寺棟上延慶四年辛亥五月五日 大願主僧承禅律師印玄并衆徒   等僧淨明氏人等 大工藤原有次
 一、当寺最初者長保二年建立也 然仁治三年仁寅十月十五日釿始 十一月廿二日立斯同   廿六日棟上 但自西干東改造之大工長命律賢等云云 其後延慶四年辛亥被移上壇    釿始同正月廿九日壬寅 卯時礎同三月八日庚辰 時柱立同八日午時矣 (後畧)

とあり、この書の書かれた天和3年頃までは何らかの記録が残されていたらしい。大願主、大工の名や、延慶の時の釿始、礎石据え、柱立の年月日まで記されている点、かなりの根據があるように考えられる。
 以後、近世まで数度の修繕があったと思われるが記録を欠き、寛文6年に紀州藩主頼宣公が帰依され菩提寺となるまで何の資料も見られない。
 元和7年には最勝院恵尊によって大門が修覆されているが、この折は大門のみの修理で本堂には及ばなかったものであろう。
 「当山諸堂絵図面」の本堂の頃には「寛文七丁未年十一月徳川頼宣修繕之以来御一新○徳川家ヨリ修覆仕候」とあり、また、「大門再営由来写」には、「而寛文年中大門并鎮守社食堂柱傾棟崩頽毀乱墜 仍而僧徒等皈依渇仰再興志願 依之当國主嗣黄門光貞公造修事業不獲黙止即三箇所之修営 天和三癸亥自始無射下旬至應録□付 同○造畢訖」とあるので、藩主の保護を受けるようになった寛文頃までは、かなり建物の破損などがあったものと窺える。
 この寛文の本堂の修理はどの程度であったか記録がなく、また大正の修理でかなり復原されたため大正補足材も多く、寛文修理と古材に残る痕跡から詳しく知ることが出来ない。
 しかし、現在使用されている向拝の頭貫は、その絵様、繰型よりもこの折のものと思われ、小屋組も全体が江戸の形であるので半解体程度の修理ではなかったかと考えられる。また、今回現状変更を行った内陣正面の鴨居をあげたことや、脇陣の間仕切の取り去られたこと、明治16年に作られた「当山諸堂絵図面」に見るように(写真第96図参照)背面の縁の取り去られたこと、及び側面縁上の脇障子などもこの時の修理ではなかろうか。 そのほか、厨子の正面間口にも変更された痕跡がみられるが、内陣正面の敷居、鴨居間の内法高さを高めたことと関連しているかもしれない。
 なお、両側面の前より第二間と第三間に内法材が取付き、前記の絵図面にも引違いの板戸が入ったように画かれているが、今回調査の結果、やはり後世の改造になるものと認められたが、この部分はその風蝕や必要性等を考えると、寛文の時の修理より古く、案外早く設けられていたとみられる。また、側柱三本、入柱一本が取替えられているがこれも中世の修理とみられる。
 明治3年には屋根鬼瓦、向拝留蓋瓦の銘よりも屋根葺替が行われたことは明らかであるが、屋根葺以外のことについては全く不明である。
 大正9年の修理は根本的な解体修理で、第5章に示す資料のように礎石下の基礎工事を含め全般に及んでいる。この時も蟻害を相当に受けていた模様で取替材も必然的に多くなったと思われるが、旧状の復原も行ったようで背面の縁廻りはこの時に復されたと思われ、小屋組のほとんど全部と屋根瓦も多く補足されていた。縁廻りや、妻飾り、向拝部の破風板など全部が、この折の材であるので、資料があったかどうかは疑問である。
 その後、昭和36年9月の第2室戸台風により本堂西面の松の木が倒れ、本堂西北の隅棟及び背面の降り棟などが飛散し鎮守堂と共に災害復旧工事を行っている。
 この折の修理は約30uの範囲の屋根部分修理であって(鎮守堂の檜皮葺は全面葺替)本堂工事費として18万6560円、全体30万円を要している。