御三家 紀州徳川家
紀州徳川家は元和5年(1619)8月13日徳川家康の第10子頼宣が駿河50万石より紀州と勢州の一部と松坂を合わせ55万5千石の藩主として入国、御三家紀州徳川家の藩祖として紀州藩の基礎をつくる。
嫡子光貞は2代をつぎ、光貞嫡子綱教3代をつぐも病没、第3子頼職兄の後を襲ぎ4代藩主となる、頼職もまた病没、故に、第4子吉宗受け嗣ぎ紀州藩5代藩主となるが正徳6年(1716)吉宗は8代将軍に選ばれる。
その空席を紀州徳川家の分家伊予西條2代藩主松平左京大夫頼致その席をつぎ6代藩主宗直となり、その嫡子宗将が7代藩主。
宗将嫡子(実は二男)重倫8代藩主となりしが安永4年(1775)幕府の命により若隠居となる、故にその嗣を6代宗直の第2子にして伊予西條5代藩主松平左京大夫頼淳が名を治貞と改めて紀州9代藩主となり、重倫の第2男岩千代(後に治宝)を養子とす、治貞薨去により治宝その席をつぎ10代藩主となる。
文化13年(1816)11代将軍家斉の第7男清水式部郷斉順は治宝の息女豊姫の聟養子となり、文政7年(1824)治宝の隠居によって、斉順11代藩主となる。
弘化3年(1846)斉順薨去につき、その弟家斉将軍第21男清水中納言斉疆が養子となって相続12代藩主となる。
弘化4年(1847)斉順の嫡子菊千代(慶福)が斉疆の養子となり、嘉永2年斉疆の薨去によって慶福4才にして紀州徳川家13代藩主となる。安政5年(1858)13代将軍家定の養子となり、同年10月25日11才で14代将軍家茂となる。
その空席を伊予西條9代藩主松平左京大夫頼学の第7男賢吉名を茂承と改め紀州宗家14代藩主となりしが明治4年在封13年にして致職、維新後和歌山藩知事に任ぜられて後東京府華族に列せられ従一位勲三等侯爵に叙せられる。
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