仏となる過程

仏涅槃図(重文) 長保寺蔵
 ちょっと抽象度の高い話
 
仏教では、涅槃経で「一切衆生悉有仏性」と言い切って、つまり生きとし生けるものすべて、いつかは仏となると断言している
これが、お釈迦様の遺言で、一代の説法で、最後まで、このことは言わずにいた
どんなにクダラナクても、極悪でも、無気力無意味でも、仏となる過程ということになる
努力とか忍耐とか頑張りや自己犠牲など、してもしなくても、仏となるという結末に変わりはない
となると、修行とか、勉強は、どうでもいいことになってくる
慈悲や善行など、どうでもよくなってしまう
どっちにしろ、仏となるのです
で、これ、やっぱり、そんなにうまい話はないわけで
法華経寿量品に「得入無上道 速成就仏身」(無上の道に入ることを得させて、速やかに仏の身を成就せしめん)と、「無上」「速」とハッキリとした方向感を打ち出している
なにをしてもいいわけではなく、「無上の道」にはいり
いつまでもボンヤリしていていいわけでもなく、「速やかに成就」する
つまり
「仏になる性」を「無上の道」により「速やかに成就」して「仏身」になる
仏性–>無上道–>速成就–>仏身
ということです
で、仏教2500年の歴史は、すべて、無上道によって速やかに仏身を成就することを(さすがに、さまざまな混じりけはあるものの)目標にしてる、ということになります

無上の道を速やかに進んでいる状態が、つまり、仏となる過程であるということです
 
弘法大師は、「三密加持すれば速悉に現る」と言って、まあ、やはり、スピード感を重視してます
ただこれ、既に法華経にもあるわけで、正念株の最後の祈願で唱える言葉(真言で加行した人はわかるよね)は寿量品からとっているのです
 
無上であることと、速やかであることが、「なにをしてもいい」とか「努力は無意味」とかを否定しているのですま、ですけれど、その一方、なんでもかんでも、仏となる過程であることにもなるのですいかに無上であるか、いかに速やかであるかが問われつつも、すべては、仏となる過程として肯定されます
仏の導きは、ですから、無上であること、速やかであることを念頭になされている、ということになります昨日は有益でも、今日は無駄
今は正義でも、明日は悪

などなど、道を進んでいるから、変化していきます決まった答えはないのですが、我々には仏性が備わっているのですから、どうしても無上で速やかな道を探してしまいますそれが、今のあなたです