我が大王(厩戸皇子、聖徳太子のこと)の所告(のたま)いけらく、『世間は虚仮にして、ただ仏のみ是れ真なり』と、其の法を玩味(あじわい)みるに、我が大王(厩戸皇子)は、応(まさ)に天寿国の中に生まれましつらんとぞ謂(おも)う。
天寿国曼陀羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅちょう)の銘文にあります
極楽浄土の様子を刺繍したものです
よく「コケにするな」、とか使いますが、これ全くの仏教用語です
眼耳鼻舌身意の五感によって、つくられたイメージは仮のものであり、感じられる前の世界が真実です
世間虚仮とは、イメージによって作られた社会生活全般すべて、虚しく仮のものであるという認識ですね
厭世感でもありますが、仮のイメージにしがみつかず、真実を見つめるということにもなります
好き嫌い、損得、利害、すべて虚仮です
冨、名声、地位も虚仮です
イメージにしがみついているかぎり、虚仮からは抜け出すことができません
別に抜け出さなくてもいいですが、真実にはたどりつきません
「怨みをもって怨みに報ゆれば怨みやまず、徳をもって怨みに報ゆれば怨みは即ち尽きる」伝教大師
憎しみや怒りも、報復すれば、また新たな怨みを呼びます
まあ、気の利いた解決策がなくても、少なくとも、報復は報復を呼ぶことをわかっている必要があります
報復を止めなければ、憎しみの無限ループが続くのです
人は得てして、得意なことや好きなことで失敗するもんですが(酒、女など)、気持ちに任せて無反省に生活していれば、どうどうめぐりで、いつまでも愛憎から離れられません
これはもう、人間はイメージの中を生きるしかないのですから、しかたのないことなのですが、イメージに固執しなければ、真実を感じることはできるのです
仏教で出家するのは、世間を捨てて山にこもるということではなくて、本当の意味は、虚仮を虚仮としてわきわえて執着しない、ということです
執着から離れられないなら、出家も形だけのことです
愛は、ちょっと難しいんですが
仏教では執着のない愛を、慈悲として別扱いしてます
英語だと、慈悲のいい訳語は無いですね
執着のある愛は、失うと、憎しみに変わりますが
慈悲は、失うと、憐みですかね
執念がなければ生き残れないのが人生ですが、まあ、どうせ最後は死ぬんだし(あー、それ言っちゃお終いよ)あんまりこだわらないことです
死ぬことはあっても、それで自分が無くなることはありません
死んでも、感じる前の世界は無くならないのです
だって、有るとか無いとか関係ないですから
でも、生きていると、見えるし、聞こえるんです
パっと目をつぶっても、目の前のモニターは無くなりません
見えてるということは、イメージが脳内に形成されたということですが、これ、実体じゃないんです
イメージに過ぎないんです
実体は、目をつぶってもそこにあるんです
だから、感じなくても、実体はあります
死んで感じなくなっても、実体はあり続けるということです
自分がいるという実感も、イメージです
ですから、感じられる前の自分がいるわけで、それが実体です
で、その実体は死んで感じなくなっても、なくならないと
思いっきり、わかりにくいですが、こう考えないと説明のつかないことが、やはりあるんですよね