伊舎那天 紙本著色 桃山(16世紀)長保寺蔵
ヒンドゥーのシヴァ神が仏教にとりいれられた
大自在天とも言う
やれやれ、また、わかりにくい話です
なぜ、自由意思があるのか
大問題です
*イメージと実体が感覚器官を境目に分離している
*イメージは感覚器官というフィルターを通して脳に作られるから、必ず実体とは違うものになる
*イメージは、脳の数だけ、てんでんばらばら、別個のものになる
*イメージだけが実体を知る手段
*脳はイメージを自由に解釈することができる
*人間は、自分勝手な解釈に基づいて、自由に行動することができる
そうやって行動している人々が、衝突し、傷つくのは、必然と言わざるをえません
といって、この分離がなければ、世界は存在できません
自由気儘が無ければ、社会はかなり平穏でしょうけれど、幸か不幸か自由はあるのです
で、理屈を言えば
イメージの側に自由があるということは、実体にも「実体としての自由」があります
それを、仏教で諸行無常 諸法無我、と言います
「因縁果報という因果関係の連鎖のなかで、どこかで連鎖を凍結して時間を止めれば、なにか固定した存在を定義できますが、実際は、連鎖は止まらず(諸行無常)、粛々と因果が流れていきます(諸法無我)つまり、物事には定まった自性は無い、と考えられます」
あるいは「空」、「無自性」とも言います
つまり、なんら、実体にはこれと言った定まった性質がないのですから、「完全な自由」と言い換えることもできます
厳密には自由も不自由もどちらもない、完全な、なんでしょうね、とてつもない自由です
ですから、イメージに自由がある、とは、実体が反映されているだけのことです
その、自由が衝突すれば、苦痛や悲惨がある、ということですね
それで、理論的には、イメージが完全に実体と一致すれば、苦痛は全くありません
涅槃寂静ですね
イメージと実体が完全に一致すれば、それが、成仏です
それで、仏教的には、苦痛を離れるために、どうしても仏になる(成仏)必要がある、ということになります
ところが、イメージは必ず実体と違うものになります
実体と違うイメージ—->実体と一致したイメージ
イメージを実体に近づけるように書き換える作業が、自由意思を持つ我々にとって、絶対的に必要だということですね
仏教では、それを、長い長い輪廻の試行錯誤で学ぶとは考えていません
仏の加持によって速やかに成就する、というのが、日本で完成された大乗仏教です
ちなみに、キリスト教やイスラムなどは、唯一の絶対的な神が世界を創造した、ということで互いに衝突したりするのですが、一見慈悲深く見える、その地平線が、正統を競って対立せざるを得ないのが一神教の宿命なのです
構造的な問題を孕んでいると言わざるを得ません
僕らは、否応もなく、多神世界に暮らし、自分と社会の折り合いをつけることで苦しんでいます
今の宗派仏教が完璧でないのが残念ですが、いずれ、仏教的な考え方が、それも、日本で完成された大乗仏教が基調になって、より人間を幸せにする、と思いますね