混沌の中の「光」


Picture Album: Galaxy Cluster Abell 1689

感じる前の世界は、般若心経で言うところの不生・不滅・不垢・不浄・不増・不減で、「空」であり「無自性」で、無常・無我で、とてつもなく自由です
そして、その自由は、我々のイメージにも反映されています

で、これ、真っ暗闇の、とことん「無」なのか
無秩序なカオスがあるだけなのか

単純に考えれば、有るでも無いでも、なんでもないんですから、「絶対的虚無」でもいいわけですが・・・

それが、なかなか、そうではないんですねぇ

鍋に水を入れて、ガスコンロの上に置いて、火をつければ、誰でも同じように水を沸かせます
物理的な法則は、万人に当てはまります

仏教のロジックと物理学との接点

こちらで、既に書いていることなんですが、仏教が、我々の世界をきちんと説明しているのであれば、物理学上の法則との接点がなければなりません
その接点が、量子論です
ただ、量子論は実験と観察に基づくのを前提としていますので、人間の心との関係は考えていません

それでも

コペンハーゲン解釈では、電子の位置は、観察されないと決定できません
観察されるまでは、一個の電子は「ある場所にいる状態」と「別の場所にいる状態」が重なりあっていると考えます
重なりあっている、のを英訳するとSuperpositionとなります

エヴェレットの多世界解釈では、観察者の数だけ世界があると考えます。パラレルワールドですね

観察者の存在が重要になってきます

その、自然界にある秩序を、「神の創造」としたりするのですが、まあ、神が創り出したにしては、あまりに悲惨なことが多すぎる世の中なのです

それで、仏教的には、「イメージを何とかやりくりして間に合わせよう」という発想が原点になります

で、歴史的に言うと、タイやミャンマーの上座部仏教、日本から見て言うところの小乗仏教は、それだけでやっていくことになります

大乗仏教では、そんなことしていたら、三大阿僧祇劫かかるとしています
それで、仏菩薩の加持、ということになるのです

劫は1辺1由旬(1由旬は7キロ)の岩を天女が袖で100年に1度さっと払い、石がなくなるまでの年数
阿僧祇は劫の10の59乗倍
無駄だからやめなはれという意味で、三大がつく(^^;)

チンパンジーがでたらめにタイプライターを打って偶然に源氏物語が書き上がる確率、とでもいいますか
イメージを自由放任していても埒があかない、ということを言わんとしているのでしょう

いづれにしても、たいへんな苦労をして、イメージを実体に近づけようというわけなのですが、この実体が「絶対的虚無」だとしたら、まあ、全く張り合いがありませんね

しかしながら、自然科学は、観察と実験によって、我々の世界が美しい秩序を持っていることを証明しつつあるわけです
それがどうした、ということなんですが・・・
 結局 
混沌の中の「光」は自分で作り出すもんなんじゃないでしょうか

その「光」の中に、やっぱり神々がいるのです
僕らの道の先を歩いている存在ですね

イメージにしがみつく、のではなくて、イメージを「光」に向けて書きかえていく
神々の助けは必ずある

その「光」を信じるなら信仰だし
信じなくても、「光」を求めない限り、闇の中、です