さて、もう何回も繰り返しますが、イメージと実体ですね
感覚器官を境目に分かれています
で、その実体ですが、正邪美醜、神々や、未熟な魂達が、有るでも無いでもない状態で、一つでも∞でもなく、無常無我に存在しています
たとえば、風が吹いたり、まあ、水が流れたり、自然現象ですが、ダイナミックに活動しています、これは、誰かが見ていなくても活発に動いているわけです
ですから、実体は、かなり活動的に運動してるわけです
己の意志があるのではなく、自然に動いています
実体は、有るでも無いでもないのですから、苦痛と言うか、不如意そのものが、有るでも無いでもない
願望が、有るでも無いでもない
私利私欲は、無いでしょうが、有るでも無いでもない
喜びも悲しみも、有るでも無いでもない
無為自然、天真爛漫、自然法爾、あるがまま、です
自然現象の実体は混然とSuerpositionで、ひとかたまりであるでもないでもなく、無意味でも有意義でもなく存在しています
実体は、感覚器官を通じて観測され、イメージになって、初めて、意味を持ちます
閉じられた本が、読まれるように
ですから、慈悲はどこにあるのかと問うならば、有るでも無いでもなく、イメージとして感じられるまでは、読まれずにいる本の物語のように、実体の中で時がくるのを待っています
慈悲は、イメージの中にあるのです
止観が実体にたどりつくアプローチだ、というのが仏教の立場なのですが、感覚器官を止めるだけでは、ただの屍で、仏教で言う、悟りではないです
止めただけでは、Superpositionがあるだけで、その中には、無数の物語が読まれずにあり、まあ、インターネットを丸めてビー玉にして、それを見ているようなものです・・・たとえが分かりにくい(^^;)
ビッグバンの前の宇宙です(もっとわからん)
それで、観もセットになっているのです
慈悲や愛は、自分でつかみ取らなければなりません
あなたが慈悲を感じれば、その時、慈悲があります
あなたが愛を行えば、それが愛です
座して待っていても、慈悲は、実体の中で眠り続けるだけです
「神は愛だ」とか「仏は慈悲深い」とかは定義の問題で、イメージです
あなたがなんにもしなければ、はいそれまでよ、です
当たり前の話ですけど
ただし、瞑想の中で、慈悲を強く思えば、慈悲が現れます
それが、光の瞑想なんですが、理屈はもうちょっと複雑です
つづく
慈悲はどこにあるのか
風天 紙本著色 桃山(16世紀) 長保寺蔵