丸木の柱ですから、まるで、森の中にいるような感じになります
冷たい空気が下に来ますから、木々の梢の下を通ってくる風は、涼しくて気持ちいいですよ
ここで、ユリイカなど読むのです
「法身は説法する」弘法大師
密教の精髄ですね
どのように説法するかと言えば、「五大に皆響きあり」で、響きが感覚器官を通じて、脳内にイメージとして色香触味法を作ると
ユーミンの歌にありますが
「すべてのことはメッセージ」です
ですから、勝手なことを言えば、ユーミンは密教を布教してることになりますw
弘法大師的には、「響き」はつまり、Superpositionです
で、それがサンスクリットだ、となるんですが、まあ、どうなんでしょう
サンスクリットもイメージじゃないかと思いますが
波動という説もあるのですが、なんでしょうね、「波とその動き」として観測されてるわけじゃないので、波動はいわば、文学的表現ですね
「水からの伝言」など、どうしていきなり波動になったんでしょうね
水と波で、つながったのかな
水と心が通うでも、念飛ばし、でも、まあ、文学的表現はいろいろあるんじゃないですかね
さて
銀河系には2000億以上の恒星があるそうですが、宇宙全体には、そのような銀河が1000億以上あるらしいです
しかし、それは、眼で観測して数えるからで、響きとしてとらえれば、実はたった一つの響きしかありません
Barred Spiral Galaxy NGC 1300
->をクリックしてください
こちらでも書いています
その響きが真言である、となるのが弘法大師なのですが、サンスクリットにしろ、マントラにしろ、脳内のイメージ、とするのが厳密な態度でしょう
真言密教は、真言以外を密教として考えないという立場なのですが、天台密教は、全く違います
天台学は、そもそもは中国の天台山にある国清寺で始まったのですが、日本に伝教大師が請来してから、比叡山で密教化します
その時、真言だけでなく、阿弥陀経や法華経、般若心経なども密教に分類します
密教の範囲が、全く違うのです
専門的には、「教主の違い」と言うんですが
真言密教では、教主は大日如来です
天台密教では、教主は釈迦如来です、で、釈迦大日一体とします
大日如来が説法している経典が、金剛頂経や大日経などです
阿弥陀経、法華経、般若心経はお釈迦様が説法します
一見、大日如来だけが密教を説いているようなんですが
お釈迦様の悟りの本質が、大日如来の本質と同じなら、釈迦大日一体で、お釈迦様の説法も、大日如来の説法も同じカテゴリーだとすることもできます
これは、慈覚大師や智証大師が入唐したとき、改めて向こうの坊さんに確認して、大陸正当の考え方であることを、わざわざ確認しています
ま、学問的にはそうなりますが
真言も、経典の言葉も、同じように、向こうから来て、脳内イメージとなるんですから、来る前の実体は一緒と、考えていいわけです
それで、意味がわからずお経を呪文のように唱えても、仏の言葉として尊んでいれば、伝統的に、それはそれでいい、とされているのです
ですが、比叡山で天台密教の教理か純化するなかで、意味を知らずに読んでも、真言と同じように効果かあると認定された経典が、阿弥陀経、法華経、般若心経となります
他の経典は、理解し、仏教の意味を知るための経典として分類します
こういう土台があって
念仏だけ、題目だけ、をマントラとして唱えるだけで間に合うという、浄土宗や日蓮宗が出てくるのです
ですから、天台学的に言えば、念仏、法華は密教です
さて、実は、密教には大きな落とし穴があります
なかなか、うまくいかないのです
真言や経典の言葉がですね、向こうから来る、のはいいんですけど、それが宇宙の根本で、正義で、愛に満ちて、人々を救うと、どうして言えるのか、ということです
縮めて言うと、神秘体験がすべて善きものとはかぎらない、ということですね
それが、悪魔の囁きでないと、誰が決めるのか
ここで、つづく、でもいいんですが、書く事を忘れそうなので書いときます
そのために、スッカラカンが必要なのです
一回Superepisitionを見て、絶望しなければなりません
禅で身心脱落と言いますが、死んではないんですが、死んだも同然に自分を離れて初めて見える境地です
釈迦は6年苦行し、イエスも40日荒野をさまよいましたが、自分の都合を捨てて初めて、本質が現れる、ということなんですねぇ
欲得抜きで、神秘体験を評価しなければ、私利私欲の拡大になるだけです
御利益先行の神仏詣では、神仏の願うところではないということです
そんなことを言っても、欲も願いも無い透明人間になれるわけではないですし、やはり、難しいんです