無宗教の人に、いい人もいれば悪い人もいる
無神論者に、いい人もいれば悪い人もいる
仏教徒に、いい人もいれば悪い人もいる
キリスト教信者に、いい人もいれば悪い人もいる
イスラムに、いい人もいれば悪い人もいる
唯物論者に、いい人もいれば悪い人もいる
坊さんに、いい人もいれば悪い人もいる
神主に、いい人もいれば悪い人もいる
学校の先生に、いい人もいれば悪い人もいる
などなど
およそ、レッテルがどうであれ、中身は別です
ま、イメージと実体ですねぇ
これが、こんがらがっている人が多いのです
レッテル貼りは、妄想にしがみつく行為そのものです
日本はどう、韓国はどう、アメリカはどう、と、割と簡単に一般化した議論をしますが、一種夢遊病のようなものではないですか
レッテルを剥がしたらどうなるか、よく考えてから議論を進めた方がいいですね
ちゃんとした結論が欲しいなら
ところで、仏教哲学の「空と唯識」ですが、これを前提に考えたら、いろいろ不思議なことになるのですね
相手と、向かい合って話をしてるとします(対話です)
パッと目をつぶると、相手は見えなくなります(あたりまえですが)
その時、相手は、Superpositionにいます(理論的には)
自分の心の実体はSuperpositionです(厳密には自分自身がですが)
で、Superpositionは、有るでも無いでも無く、一でも多でもなく、始めも終わりもなく、というか、観測されないんですから、どうなっているかわからず、仏教で言えば、空であるわけです(実相でもいいですが)
ですから、空の中で、相手と自分の心は、一緒にいます(だから、一でも別でもないんですが)
その時、自分の心にマナ識がなければ、相手と自分は一つです(ここがミソです)
マナ識は仏教で厳密に定義されてますが、ここではザックリ省略して、レッテルにしがみついている状態とします(妄想に執着してるってことですね)
純粋な子供、自分と他人の心の垣根の低い人、など、レッテル貼りはあまりしません(一口に言うと、先入観の無い、やさしい人かなぁ)
仏教では、妄想を離れれば菩薩です(つまり、先入観を捨て、レッテル貼りをしない人)
だから、先入観を捨て、レッテル貼りをしないと、空の中で相手と自分の心が、繋がります(相手を理解するってことです)
仏教では他心通といいます(天眼通、天耳通、など他にもあります)
これは、目の前の人でなくても、地球の裏側でも、時間を隔てた、過去の歴史上の人物でも、同じことです(Superpositionですから、どこでもいっしょです、というか、一でも別でもないです)
まあ、普通に、相手と心が通う、理解を深める、話がかみ合うとかの、理論的根拠ですね
で、これは、基本です
ここから、応用編
先ず妄想を離れます(えっと、座ってする密教の修法ですね)
つまり、対象に対して、先入観を捨て、レッテル貼りするのを止めます(心の中で)
この時の対象は、仏です(つまり、仏と心が通います)
それから、誰か対象になる人を思い浮かべます(仏と心が通った状態のままで)
すると、対象になる人が仏と繋がります
これ、加持祈祷の原理です
座っている間は、やさしい気持ちになって、自分の都合を捨てるのがコツですね
というか、自分の願望成就を思うってことは、妄想への執着ですからね
仏が心の中に、しっかりと存在する人なら、簡単にできますよ