法華曼荼羅図 絹本著色 天明3年(1783)長保寺蔵
中央に釈迦如来、多宝如来が並んで座っています
これは、「イメージと実体」の象徴的イメージです
法華経寿量品の中で、美しく文学的に表現されています
「真言行者、座を立たずして、一切の仏事をなす」
身語意を加持して、仏と我と衆生が繋がると、仏の力が衆生に注がれます
実相の中で、三平等になるからです
その瞬間、行者は衆生の痛みを感じます
そして、衆生が仏の力によって癒されていくのを感じます
衆生の苦しみが大きければ、行者は耐え難い苦しみを受けることもあります
初心の行者は、衆生と繋がるのを制限しながら、仏との繋がりを深めなければなりません
しかし、加持を繰り返すうちに、徐々に行者は仏と深く繋がり、苦しみを癒す力が大きくなります
人には、様々な才能というか個性がありますが、加持のできる人も、まあ、才能の有る無しがあって、天才もいれば、どうも伸び悩む人もいます
でも、たとえば音楽がそうですが、楽しむことは誰でもできます
演奏家や作曲家は、苦しんだり努力したりが避けられませんが
天台学は、もともと中国で始まりましたが、比叡山で、まったくの密教になってしまいました
それは、やはり、密教の現実世界を変える、応用力というか、霊験ですよね、これが桁違いに強いからです
霊験と書くと、理屈無視のようですが、順を追って考えると、それなりに仏教哲学の中で辻褄はあってます
ですが、大前提があります
僕は、仏の存在だと考えています
つまり、ものすごい昔に、仏教的修行をして、自己を完成させた人がいる
ということです
道の先を歩いている存在ですね
まあ、お釈迦様ですね、歴史的には
やっぱり、仏の力が注がれている
これが、感じられるかどうかです
苦労した人は、やはり、仏に近いですよ
威張ってたらだめだな、わからなくなる
純真な、お子さんは近いんじゃないですか
子供に出来ることだから、実は、簡単なことなんですよ
むしろ、大人になって、権威とか知識を振り回すようになると、だめですよね
仏の力が感じられるようになると、これ、拝んでばっかになります
世界を、てっとり早く善くできるように感じるからです
昔の偉い坊さんは、拝め拝めと、めちゃくちゃ厳しいです(^^;)
僕なりに言えば
天才はそれでいいんです
ですけど、チベットみたいにあまりに観念的になって、戦争の代わりに瞑想しよう、てなとこまでいくと、歴史的には失敗してます
やっぱり、いろんな人が住んでいる世の中ですから
音楽の世界に、作曲家、演奏家、歌手、聴衆があるように、役割というか住み分けかな、あるんじゃないですか
霊験はね、求めたら得られないんですよ
自分を差し出して、人を助けようとすると、現れるんです
まじない、魔法などの、儀式や物と交換で生じるのは、マジックよ
仏には、慈悲しか通じませんよ