2010年2月15日にお参りいたしました
涅槃堂は釈尊が涅槃に入られた場所に建てられています
沙羅双樹の間で涅槃に入ったとお経に書かれているので、日本人が公園に沙羅の木を植えました
その木の間で涅槃に入ったので、双樹と言うのです
内部は10年前と変わらず、昔のままです
涅槃像は、グプタ時代(5世紀頃)のものです
かなり大きな像ですが、タイに行くともっと大きくなります
なぜか涅槃像は大きいのです
涅槃という概念を表そうということでしょうか
仏教では、悟りを開いた釈尊を有余涅槃(うよねはん)、入滅後を無余涅槃(むよねはん)と言って、肉体のあるうちは完全な悟りの状態ではなく、肉体が消滅した後を完全無欠な悟りの状態と考えています
そう考えれば、クシナガラが仏教最高の聖地ということにもなります
肉体は移ろいゆく限界がありますが、肉体を捨てた後も意識が存在するなら、死による限界はありません
キリストの復活も、キリスト教にとって、どうしても必要な事跡ということになりますね
キリストの復活も、キリスト教にとって、どうしても必要な事跡ということになりますね
仏教では、仏性が全ての生物にあるとしていますから、涅槃の世界は、誰にでもあります
釈尊のクシナガラにおける最後の説法は「一切衆生悉有仏性」です
「今の僕らの意識は空から肉体が借りてきたものだ」、と考えてみると、死は意識をまた空に返すだけということになります
葬式、法事、お墓、仏壇など、すべて、意識の不滅が前提に成り立っています
輪廻転生も意識の不滅があれば成り立ちます
妄想を抱いたまま死んでしまうと・・・・妄想世界に行きます
悟りを開いてから死ぬと・・・・・涅槃です
仏教は、普通の我々が死ぬと、生きていた時してきたことに従って、輪廻転生すると考えています
実は、ここのところはヒンドゥー教といっしょです
ヒンドゥー教では、貧乏に生まれたのは前世の報いだから、死ぬまで貧乏階級でいなければなりませんが、仏教は、生まれが悪くても生きているうちに挽回することもできると考えています(これが画期的な考え方なのですねぇ)
仏教の考え方を延長すると、神様も悪いことをすると地獄に行く、ということになります
もちろん善いことをすれば、善い神様のままですけど
お堂は綺麗に塗り直してあります
丸いドームは涅槃に立ち会ったアーナンダのストゥーパです
アーナンダは川の真ん中で涅槃に入りました
仏滅後、アーナンダに説法に来てもらいたくて、川を挟んで阿闍世王とリッチャビ族が戦争になりかけました
それで、川の真ん中の船の上で、アーナンダは自らの意志で涅槃に入りました
ですから、アーナンダの舎利は二つに分けられ、もう一カ所、バイシャーリにもあるそうです
涅槃堂から少し離れた所に、釈尊を火葬した荼毘塚があります
インドでは2月15日が涅槃の日ということではないので、特になんの行事も行われていません
現在インドの仏教行事は、ほぼテーラワーダ式かチベット式で、日本仏教の考え方は反映されていません
やはり、地理的に遠いのと、なぜか日本では、インドの仏跡より自分の宗派の祖師を重視しますので、存在感が薄いのでしょう
四国や西国を巡礼するように気軽にはいきませんが、残念ですね