舎利礼 2

2.(舎利の)本地である法身の法界塔婆を我ら礼し敬って、我が現身をもって(法界塔婆に)入我我入し、仏の加持の故に我は菩提を証して

法身の法界塔婆」というのは、理念として想定されるものです
ですから、眼の前に、これは法身の法界塔婆である、と規定されたものが存在すれば、それが「(舎利の)本地である法身の法界塔婆」ということになります

ですから、多宝塔や、お墓にある卒塔婆、祈祷札、など、塔の形をしているものは、すべて法界塔婆として礼拝することができることになります
簡単に言えば、木の棒を地面に立てても、砂の山を作っても、それが法界塔婆だと言えば法界塔婆です
密教では、いちおうのけじめをつけるため、開眼作法などをして、一般の塔と法界塔婆を分けます

それで、「仏の加持の故に」という部分が必要になってくるわけで、どんな立派な塔であっても、作法どおりに拝んでも、仏の加持がなければ、ただの物質です

「入我我入」というのは、密教の瞑想法のひとつです
(ホトケが)我に入り、(ホトケに)我が入る
のですが、眼の前の、物質としての塔に我が入ってもしょうがないのです
それで、「仏の加持の故に」という一節がなければ、魂が入りません

「加持」は、弘法大師が「加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく」と明確に定義しています
天台も密教ですが、別にこれといった定義はないですから、弘法大師の定義を密教の定説としていいと思います
日の光が水面に映る様子を加持にたとえたのですね

で、どうすれば加持が得られるか
これ大問題です

仏舎利のお経ですから、ここはお釈迦様の加持の話になるのですが
結論を言えば、一方的に無条件に加持してくれています

法華経如来寿量品の最後の部分に破地獄偈というのがあります
これを唱えると地獄も破れるという偈文です

毎自作是念 如何令衆生 得入無上道 速成就仏身
まいじさぜねん いがりょうしゅじょう とくにゅうむじょうどう そくじょうじゅぶっしん

つねに自らこの念をなす 何をもってか衆生をして 無上道に入らしめ 速やかに仏身を成就するかと

これは、お釈迦様が、つねに、今この時も、自分で自発的に、あなたを無上道に導こうと念じている、ということです
「救って欲しい」とお願いされたからではありません 
なんの条件もありません

塔を作って礼拝すると、自動的にお釈迦様の加持が得られ、菩提を証する、ということです

 
それで
3.の神力によって、「衆生を利益し、菩提心を発し、菩薩の行を修す」と

密教に三平等観という瞑想法があるのですが

我とホトケと平等
ホトケと衆生と平等
ゆえに、我と衆生と平等

ホトケが我を無条件に加持するのと同じように、ホトケは衆生を加持しています

我<—-ホトケ—->衆生 =  我<—-神力—->衆生

ですから、塔を礼拝すると、自分ばかりでなく、縁ある衆生にも利益がある、ということになります

4.塔を礼拝することによって「円寂なる平等大智に同入」するので「今まさに頂礼す」ということですね

もちろん、一番効果が期待できるのは、本物の仏舎利ですが、法界塔婆を礼拝することで、無条件にお釈迦様の加持を得て、選択的に利益を得ることができます

で、これ、どんな利益かというと、お釈迦様からくる神力ですから、お釈迦様の都合なのであって、我々が願っていることとは違います
お釈迦様は、我々が「仏身を成就する」ことを願っているのですから、当然、その目的に合った利益になります
そこを、勘違いしてる人が多いですね
拝む人に霊能力がある、とか、チャクラとかは関係ありません
無条件に、ホトケからくる神力です

偈文にホトケの力が込められていますから、きちんと拝めば、強力な神力が発動します
それで、平安時代から今日にいたるまで、宗派を問わず唱えられてきました
なかなか、こうして各宗派で用いられるというのはありません
普遍的な真実がある、ということですね