光の瞑想 バージョンアップ

光の瞑想を、ちょっと手直ししました

光という表現もどうしようかと思いましたが「慈悲」とか「愛」とかね、今風の表現はどうかととも思案しましたが、ロゴもつくちゃったし、まあ、いいかと

瞑想の方法については、書いていることは原則論であって、個人個人、効果の有る方法は違ってきます

時期もあるし、階梯もあります

ま、一般論ということで

(なんかGoogleでつくるとhtmlにゴミがつくのよね・・・・アメリカが全て正義でもないよ)

見える、聞こえる、感じるなど、感覚器官でとらえた印象が脳内イメージになって、世界を認識しています

脳内イメージは、各人各様、すべて独自のものになります

しかし、感じる前の世界は、たった一つしかありません
生滅も垢浄も増減もない、時間と空間のない完全無欠な世界です

自分が感じた世界は、自分だけのものです

感じる前からある、ありのままの世界とは違います

自分の作り出したイメージに捉われることを、我執と言います

苦しみや悩みは、自分がいる、という我執が根本原因です

感覚器官で感じる前の、ありのままの世界そのものが、自分というフィルターが介在しない、真実の世界です

今自分が感じている、苦しみや悩みが、全くない世界です

苦しみや悩みを救う力は、感じる前の世界にあります

その力に気づくのを、悟り、と言います
わがこころ、吾心ですね

見る側の我々と、見られる側の世界との間には壁があります

この壁を超えるのが「慈悲の感触」です
ここでは、光と言っておきます

「慈悲の感触」だけが至高の心に繋がっています

あなたが、全力で誰かのために働く時、自分自身の中にある、至高の心に出会えます

普段は感覚器官によって切り取られた、自分の脳内世界を自分自身であると思い込んでいるのですが(つまり我執)、実際の自分自身は感じられる前の「至高の心」そのものなのです(これが悟り)

心の重点を、私利私欲に置けば、迷いの世界が深まり
利他公益に置けば、「至高の世界」に直結する、と単純な理屈です

実は、「至高の世界」に気づけば、「死」の意味も変わる、ということですね

光の瞑想の模式図

http://www.chohoji.or.jp/shousei/saloon.htm