300年前の長保寺の絵図面です
お墓が4代藩主までしか書かれていませんから、5代藩主の吉宗が描かせたと考えられています
この絵図面から、当時の細かな様子がいろいろわかります
山全体がどうも松山だったようです
50年ほど前までは、よく松茸が採れたそうです
大門を入ると、塔頭寺院が4軒あるのがわかります
本坊を入れて5軒のお寺があり、寺町とも呼ばれていました
それぞれのお寺に30軒ほどの檀家がありました
本坊の檀家は徳川家だけです
今では、塔頭寺院の檀家は福蔵院へ統合し、徳川家はそのまま長保寺の檀家になっています
明治の時に、徳川家は負け戦ですから、おおきなリストラがあったのです
戦後は、農地解放もあって、長保寺は過去の栄光の面影もなく、丸裸になりました
まあ、これは、どこのお寺でもいっしょですが
時代の荒波を越えて、長保寺は残りました
図面そのものは、畳2枚分くらいある大きなものです
今は軸装していますが、保管するだけでも大変ですよ
長保寺絵図面(廟所絵図) 海南市指定文化財
一幅 紙本著色
縦191.7 横214.2
江戸中期
一幅 紙本著色
縦191.7 横214.2
江戸中期
陽照院(現在の長保寺)の、伽藍および紀州徳川家の廟所・墓地を描いた資料である。近世の長保寺寺領については、慶長6年(1601)に浅野幸長が浜中上村の5石を寺領としたのち、寛文12年(1672)に徳川光貞から500石を加増されている。本図はその際に確定された、境内と墓地について描いたものである。藩主の墓が深覚院(第4代藩主頼職)までしか書かれていないことから、本図が作成されたのは吉宗もしくは宗直の藩主時代のことであると考えられる。江戸時代中期の長保寺の伽藍・廟所の状況を知る上で貴重な資料である。
和歌山県立博物館「吉宗と紀州徳川家」より