弘法大師画像、物語

長保寺の深い歴史の一端をご紹介します

長保寺に現在みられる主要な建造物は鎌倉時代後期を中心に整備されています

国宝 本堂(1300) 
国宝 多宝塔(1354)
国宝 大門(1388)
大門 仁王像 (1286)長保寺木造金剛力士立像像内納入文書断簡

長保寺は鎌倉時代、高野山金剛心院の荘園で真言宗でした

いま残されている主要建造物は、真言宗の時代のものです

これには、当時、仁和寺と高野山金剛心院を共に管掌していた真言宗の禅助が深くかかわっています

長保寺には後宇多法皇宸筆と伝える弘法大師画像が伝えられていますが、禅助は後宇多法皇の密教の師です

禅助は後宇多法皇の師匠ですから、国師大僧正と呼ばれていました
弘法大師像   絹本著色 縦110.4 横61.1
上に書かれた跋文が後宇多法皇宸筆、開眼は国師大僧正禅助
後宇多法皇が活躍した時代(1267-1324)が、まさに、長保寺が整備されていった時期と重なるのです
後宇多上皇像(宮内庁蔵『天子摂関御影』より)wiki

後宇多法皇は、出家した後、自らの密教の最高位である地位を、よく言えば活用し、ひらたく言えば利用して、政治的立場を強化しようとしていました
その後宇多法皇と結託していたのが禅助です
横内裕人 「仁和寺と大覚寺─御流の継承と後宇多院─」

山間に中規模な密教寺院が形成されるのは中世期の特徴ともいえることで多数の類例がありますが、地方の政治経済が充実しはじめ、同時に荘園制度が衰微していったここと無縁ではありません

全国的な規模で、在地の勢力が中央の権門の影響力から逃れ、力強く自己表現をし始めたのです

長保寺の場合は、地方の経済力と中央の権威が相まって伽藍の再建を行わせたと言うべきだと思いますが、後宇多法皇の意志がなければ、ここまでの伽藍整備はなかったと言えるでしょう

長保寺には建造物の他、中世期の仏像、仏画、教典など大量の文化財がほぼ完全な状態で残されていますが、中世密教寺院の代表的な史料として今後ますます重要性が認識されると思います