泉水

中庭にある泉水です
江戸時代後期に現在の形に造られました
お約束通りの造りに、紀州の風物が取り入れられたものになっています
奥の水落ちが那智の滝
岩を柱状に並べて立てたのが、串本の橋杭岩
使われている石から、現在の作庭は長保寺第12世住職の堯謙であろうと思われます
堯謙さんの墓石に似たような石が使われています
おそらく、上池の開削工事の時に出た石を泉水と墓石に使ったのだと思います
阿耨院大僧都堯謙
天保の飢饉の時に溜め池を開削し(現在の上池)、近在では餓死者が出ませんでした
今でも、感謝の法要が連綿と続けられています
阿耨院(あのくいん)堯謙(ぎょうけん)

堯謙とは長保寺住職第12世大僧都堯謙である。

宝暦3年(1763)播州明石に生まれ、幼少の頃、兵庫港の能福寺に入り出家、得度をした。
その後、比叡山に登り、修学、精励し、同山の遺教院の住職となった。学識深く、徳望高い人として尊敬を集めた。

文政6年(1823)長保寺へ移住し、地域の為に力を注いだ。
とりわけ、天保3年(1832)から8年には毎年のように干ばつ、降雨、暴風雨などによる凶作がうち続き大飢饉となった。農民の生活は悲惨きわまりないものであった。そこで堯謙は干ばつや飢饉にあえぐ農民を救うべく長保寺池の造営工事を起こした。農民を人夫として使役し、賃金を支払って生活を安定させ、また東光寺池も改削して、農民の苦境を救った。天保11年(1840)退隠して阿耨院(あのくいん)と称した。

老年になり、般若心経八万四千巻を書写する願を立て、以来死に至るまで日夜書写に励み、これを広く人々に施したという。ここ近在には堯謙の手になる般若心経がかなり多く残されている。また長保寺池畔には天保13年9月(1842)堯謙が謹書した般若心経の石碑が建てられている。

弘化2年(1845)5月2日、82歳にて没す。毎年、命日の5月2日には、上地区の関係者が長保寺に集まり読経、供養、墓参をして堯謙の偉業を偲び、後世に伝えている。

(浜中村史)