「保元、平治の乱」の時代の念仏法要

不断念仏式(ふだんねんぶつしき)

「保元、平治の乱」の時代に長保寺で行われていた念仏法要の記録です
最初にこの法要が行われたのは大治三年(1128)ですが、これは、法然上人がお生まれ(1133)になる5年前です
法然上人、親鸞聖人がお生まれになる前から、長保寺では念仏が唱えられていました
貴族社会が終わりを迎え、武士の武力衝突が社会を動かしていく時代になっていくわけですが、長保寺のような地方寺院は、平穏な宗教活動をしていたことが伺えます

「保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。wiki
不断念仏式       一巻
紙本墨書 縦27.4 横195.8
鎌倉後期(14世紀)

 長保寺における不断念仏の式次第を記したものである。
 不断念仏とは円仁(慈覚大師)が五台山から比叡山にもたらしたもので、一定の期間中、僧侶が絶えることなく、阿弥陀仏を念ずる修法である。敬白文によると、長保寺においては大治3年(1128)に不断念仏が始まり延慶2年(1309)まで毎年10月に行われていたことが判明する。また、それ以降もこの修法を再整備して継続していくことが述べられている。その中で、道俗を限らず阿弥陀仏と慈覚大師に結縁して往生極楽を願っている点は、この時期の長保寺とその周辺地域における信仰を物語っており、貴重な史料と言うことができる。
 なお、巻末の部分には長保寺においてこの不断念仏が大治3年に10月1日一夜の形で始まり、保元3年(1158)には10月16日からの七日七夜に改められ、さらに正応2年(1289)には10月11日からの七日七夜、五昼夜に改められたことが記されている。

和歌山県立博物館「長保寺の仏画と経典」より