癒される瞑想の模式図

癒される瞑想の仕方 

あなたが一番信頼する光に意識を集中します
リラックスして
目をつぶって
ほほえんで(大事なコツです)
無条件に全てを赦し救う心を感じながら
静かに息を吸って
無条件に全てを赦し救う気持ちで
体の力を抜きながら 息をゆったり吐きます
それを繰り返して
光だけになります
疲れてきたらやめて
光に感謝を伝えます

かすかに微笑む  とても大事です
インドに残されている仏像はどれもかすかに微笑んでいます。仏頂面という言葉がありますが、口をへの字に曲げてしかめ面をするのは瞑想の時の面構えではありません。奈良の大仏さんの顔は、威厳のあるちょっと怖い顔ですが、あれは国家の威信を示すためあんな顔をつくったのだと思います。
皆さんは、安らかな微笑みを浮かべて瞑想してください。

初転法輪の釈尊 サールナート博物館
姿勢
仏教では一般的には座って瞑想することになっていますが、これは釈尊が悟りを開いた姿が源泉になっています。しかしながら、仏教の長い歴史をひもとくと、行住座臥いろいろな姿で過去の高僧方は悟りを開いています。
阿難尊者は仏滅後の第一結集の時にまだ悟りが開けず、仲間に入れてもらえそうになっかたので、もうだめだとガックリとうなだれたところで忽然と悟りを開いたといいます。弘法大師は求聞持法を修行したとき明星が口に入ったといいますから、おそらく首を明星を見る角度まで上げています。白隠禅師は托鉢をして門前に立っていた時、無信心な婆さんに水をぶっ掛けられて、悟りを開きました。この白隠禅師の「軟蘇の法」は寝てします。キリストは荒野をさ迷い歩いて、これは座ったというのはないらしい。
悟りがひらける瞬間は、あまり姿勢とは関係ないと思いますが、長いこと瞑想しつづけるには、やはり負担の少ない方法ということで有史以前から、座って瞑想という姿に自然となったのでしょう。これが、だから、背筋を伸ばした優雅な姿勢であることが望ましいですが、姿勢が悟らせてくれるのではありません。
座る場合、右が上か左が上かで諸説あります。どうもインドの仏像、ビルマ、タイなども右が上のようです。左が上は中国に来てからかもしれません。宗派の伝統に従えばいいとしておきます。
ただこの瞑想は座るのなら加持を得るため密教式に右を上にしてください。

見える、聞こえる、感じるなど、感覚器官でとらえた印象が脳内イメージになって、世界を認識しています

脳内イメージは、各人各様、すべて独自のものになります

しかし、感じる前の世界は、たった一つしかありません

生滅も垢浄も増減もない、時間と空間のない完全無欠な世界です

感じる前の世界には、生じることも滅することも、垢つき汚れることも清浄なることも、増すことも減ることも無く、一でも異でも常でも断でも去でも来でも無く、「完全な秩序」があります

しかし、自分の感覚器官を通じて、脳内にイメージを構成する時、「歪み」が生じます

妄想、誤解、間違い、思い込み、見落とし、などが生まれます

瞑想によって、歪みのない世界に触れ、バランスを取り戻し、素直で冷静な気持ちになります

悩みを解決し、窮地を救い、行き詰まりを打開する「慈悲と智恵」が自分の中から生まれます
自分が感じた世界は、自分だけのものです

感じる前からある、ありのままの世界とは違います

自分の作り出したイメージに捉われることを、我執と言います

苦しみや悩みは、自分がいる、という我執が根本原因です

感覚器官で感じる前の、ありのままの世界そのものが、自分というフィルターが介在しない、真実の世界です

今自分が感じている、苦しみや悩みが、全くない世界です

苦しみや悩みを救う力は、感じる前の世界にあります

その力に気づくのを、悟り、と言います

わがこころ、吾心ですね

見る側の我々と、見られる側の世界との間には壁があります

この壁を超えるのが「慈悲の感触」です

ここでは、光と言っておきます

「慈悲の感触」だけが至高の心に繋がっています

あなたが、全力で誰かのために働く時、自分自身の中にある、至高の心に出会えます

身近な表現で言えば、理想だけ追求してもダメで、現実だけ重視してもダメなんです

理想と現実、両方あるのが人生です

理想だけ求めて他人を非難し、欠点を探しても、なにも解決しません

現実の利害得失だけ求めても、出口のない堂々巡りが続くだけです

理想でもない、現実でもない、なにが重要なのかというと、慈悲ではないですか

誰かのために働く時、本当の力が湧き上がります

それを仏教では「慈悲」と言っています