仏教の瞑想

仏滅後100年頃バイシャーリで行われた第二結集で、仏弟子は上座部と大衆部に分裂します
伝統を墨守するのが上座部、臨機応変に本質を求めるのが大衆部です

上座部はほぼ原型のまま、南伝してタイやミャンマー、スリランカなどに伝わり
大衆部はインドで密教化しつつ、大乗仏教として中国やチベットに伝わり、日本はこの流れに属します

上座仏教の修行の実践方法は「清浄道論」に、まとめられています
実に克明に解説が書かれています
瞑想方法も各種解説されていますが、主要な方法は、シャマタ(止)ビバシャナ(観)と言い、つまり、止観です

パーリ語から口語訳された500ページくらいの本が三冊です
上座仏教の修行法が説きつくされた、と言っていいでしょうね

一方の大乗仏教では、膨大なものがありそうですが、修行について体系形的にまとめられた本は天台大師が書いた「摩訶止観」とその要点をまとめた「天台小止観」しかありません
あとは、その2冊の止観の解説書があるだけです
仏教の修行を止観という概念で統合しています

「摩訶止観」は文庫本にもなっていて、400ページくらいのが2冊です
今、この本は絶版してしまっているようです
漢文の書き下しですが、細かい字で、けっこう大部です
「摩訶止観」以上の止観の体系的解説書は、結局現れませんでした

「清浄道論」と「摩訶止観」が、仏教の修行法の解説本の双璧です
止観が、上座部・大衆部の修行法の共通概念であることがわかります

これを、きちんと理解しなければ仏教の修行ができないということだと、坊さんは皆、大学院で仏教学を専攻しなければならなくなりますね(^^;;

で、実際は
僕は高野山で僧侶専門の修行道場の監督を1年やりましたし、比叡山で一から修行しなおしましたけれど、部分的な引用などはあったかもしれませんが、通して読んだりはしません

現在は、こういう古典的論書を踏まえた、もっと洗練された方法が、各宗派で研究され実施されています

主要な修行法は

天台系 経典読誦と密教
真言系 密教
浄土系 念仏
禅宗系 坐禅
法華系 題目と経典読誦

まちまちで統一感がありませんが
密教を印と真言と観念に分解すると

身  印
口  真言 経典読誦 念仏 題目
意  観念 坐禅

と、おおまかに、身口意の三つに分類できます

身口意の全ての要素を含んでいるのが密教です
密教は、日本では平安時代からある古い宗派になりますが、仏教史の流れからすればインドで仏滅1000年後位に成立した、もっとも新しい宗派です
ですから、修行法は、古くからある方法を統合した、洗練された方法に進化しているとも言えます
また、逆に、各宗派は、一つだけを深く追求しているとも言えます

密教では止観を踏まえて、加持という概念が成立しました

いろいろ書きましたが
つまり仏教では、自分が脳内に作り出す、生きているという素朴な感覚ではなく、その感覚を感じる前の世界を求めている、ということなのです

なぜなら、自分という存在が、執着、妄想、間違い、思い込み、など様々な歪みを作り出しているからです

これを学習と経験から学ぶ、というのが世間一般の常識なのですが、その学習すべき対象も、果分不可説で、あまり当てにはならないのです

でまあ、学習ももちろん大事ですが、瞑想は必要だということになるのです