精霊と仏性

Noli Me Tangere(我に触れるな)  Tiziano Vecellio 1511-12 

イエスは磔で死んでから、精霊として復活されます
この復活を事実として受け入れられたなら、キリスト教徒です

イエス亡き後、精霊が存在しなければ、キリスト教は単に過去の偉人の事跡で終わってしまいます
迷える子羊を誰が救うのか、ということになりますから、イエス亡き後のキリスト教には、復活が絶対に必要です

クシナガラ 荼毘塚 2010/02/15

お釈迦様は、クシナガラの最後の説法(涅槃経)で、「一切衆生悉有仏性」を説いてから、涅槃に入り、荼毘に付されます

仏性が、すべての生き物にあるから・・・・・止観をすれば仏性にたどり着けます
仏性がなければ、止観をしても、ただの居眠りで終わってしまいます
お釈迦様亡き後の仏教には、仏性が絶対に必要なのですが・・・・

「仏性の無い人間がいる」という仏教があります
ご存知の、奈良の興福寺や薬師寺の法相宗や三論宗です
まあ、皇室が奈良から京都に引っ越してくださったおかげで、仏性が無い人がいるという説は主流派にはなりませんでした
涅槃経の存在がありますから、仏性を否定するのは、ちと無理がありますが、なぜか理屈を積み上げると、無くすことができるようです

歴史的には、仏性が時代とともに強調されていくようになりました
日本仏教初期の奈良では「仏性がある人と無い人がいる」という説でしたが、平安時代になると「女性以外は仏性がある」に変わり、鎌倉時代になって「老若男女一切に仏性がある」ことに落ち着きました
本当のことを言うのに、社会的な制約があったと考えるべきでしょう

さて、この仏性は目に見えません
当然、手でも触れません
やっぱり無いんじゃないか、という疑問も当然わいてきます
あるとするなら、いったいどこにあるのか

言葉としての仏性は「色」にありますが、仏性そのものは「空」にある、と理論的には、そうなります
で、その仏性に触れる方法が、この図からわかります
「色」は脳内現象なわけですから、つまり「自己」です
「自己」の都合を忘れてしまえば、「空」だけになります

止「自己の都合を忘れ」、観「空だけになる」
広い意味の止観ですね
これ、理屈です
よく言う
「我を忘れて没頭する」
「無我夢中で」
ですね
で、これ、なんでも夢中ならいいと、そんな都合のいいことは無いわけで
対象が「空」である必要があります
それで、わかりやすい便利な言葉がないか、探してみると
「己を忘れて、他を利するは、慈悲の極みなり」 伝教大師

伝教大師は比叡山の天台宗の開祖ですが、この比叡山で、日本仏教の天才達は一度は修行し勉学しているのです
法然・浄土宗(10年)、親鸞・浄土真宗(20年)、道元・曹洞宗(4年)、栄西・臨済宗(14年)、日蓮・日蓮宗(6年)など
括弧の中の数字は、比叡山で天台宗の修行をした、およその年数です
「忘己利他」が、日本仏教の根底にある言葉だと言っていいでしょう

つまり
我を忘れて、誰かのために働く
無我夢中で、人助けをする
その時に、自分自身の仏性に出会うのです