今、あなたはモニターを見てますが、眼で見て、意識で思ってるわけです
これを、どう名づけてもいいのですが、自分が今生きているという素朴な実感ですね
で、眼をパッとつぶったら、モニターが月に飛んでいく・・・・・わけは無く、モニターはそこにあるのですが、見てないのだから本当はどうなっているかわからないのです
見てないので、わからないが、ある
この感じる前の世界を、一くくりにしてしまえば、
時間も空間も無い(見てないんだからあたりまえですが)
苦も楽も無い(感じる前の世界ですからね)
一つでも多くでもない(見てないんだから数えられません)
同じでも違うでもない
生じるでも滅するでもない
去るでも来るでもない(くどいですが、お経に書いてあるんです)
で、これ、感じるということは、「自分勝手」「自己中心」「我田引水」などが、どうしても含まれます
人間の不幸の、根本原因と言えるでしょう
仏教的には、この歪みを正さなければ幸せにはなれないことになります
だから、仏の教えが必要だと
仏教の2500年の歴史の中で、様々に理論が考えられてきました
禅
「自分」というものを、限りなく小さくする、ということなんですが、自分で自分を否定することにもつながるわけで、苦行と感じる人もあるかもしれません
でも、理屈どおりにやれば、効果はあります
戒律を厳格に保って精進努力することが必要になりますが、出来る人もいれば、成就した人も多いのです
しかし、親鸞さんなどに言わせれば、「普通の人には無理だ」ということになります
密教
仏からの働きかけを、身口意(しんくい)で受け止める、ということです
身(印)口(真言)意(観念)全部を使うのが密教です
この図でいうと
加が
阿弥陀仏ならーーー>念仏
法華経ならーーーー>題目
など、普通の人でも実践しやすい方法が編み出されてきました
やや脱線して言えば
加を
神とすればーーー>神道、キリスト教、イスラム
なども、この図で説明できることになります
それでも、神仏に頼りきって、「自助努力は必要ない」という考え方になる可能性もあるし、「自分の信じる神以外は拝むな」という人もでてくるのです
いままでの図で見ると、右と左の丸がバラバラなんですね
それが、統合されました
これで、仏の働きと、自助努力の両方が必要、という説明が完成します
出家–>真実の生活–>空
在家–>仮の生活–>仮
形に捉われない生活–>現在の日本仏教–>中
慈悲
神仏がどんなに偉くても
朝起きて、かわりにトイレに行ってくれるわけでもなく
ご飯をかわりに食べてくれるわけでもありません
生きていくのは、自分なのです
では、いかに生きるのか
身近な表現で言えば、理想だけ追求してもダメで、現実だけ重視してもダメなんです
理想と現実、両方あるのが人生です
理想でもない、現実でもない、なにが重要なのかというと、慈悲だというのが仏の教えです
ですから、「慈悲とは何か」「自分になにが出来るのか」を考え続け、身口意で表現するのが仏教徒、ということです
それが、「心の歪み」を原因とする、様々な苦厄から逃れる道だということです