智恵の心

「諸法は空を相とし、生ぜず滅せず、垢つかず浄ならず、増さず減らず」

とまあ、般若心経には書いてあります
これを、「時間も空間も質量も無い」という意味で理解しておきます

で、これ
「時間も空間も質量も無い」から、勝手気ままで、自由自在で、やりっぱなし、ということになるかというと、そうでもないのです

問題は「諸法は空を相とし」という部分です

「諸法」とは自然界の法則とでも言いましょうか、因果応報の理ですね
それが、厳然として、「空」の前提になっています

たとえば、自然科学における真理の探究や、経済学における社会法則の発見などは、つまりは、般若心経における「諸法」の探求とも言えます

このへんは、物理学の量子論が極めて示唆的ですが、ややこしくなるので、ご興味のある方はこちらをどうぞ
仏教のロジックと物理学との接点

ガリレオが振り子の等時性を発見したとか、現代の最先端の科学研究も、まさに「諸法の空の相」の探求とも言えるのです

ピサの聖堂にあるガリレオのシャンデリア

で、人間は、この「諸法」に束縛されて、生まれ、生活し、死んでゆくのですが、この「諸法」には「時間も空間も質量も無い」という特徴があるので、束縛されているようで、じゃ、いったい何に束縛されているのかというと、束縛するのもが無いという理屈になってきます
これがですね、我々に自由意志がある、という言い方にもなってくるのです

でも「諸法」に従って、我々は生きているのです
たとえば、ガスレンジの上に水を入れた鍋をおけば、大人でも子供でも、老若男女、イスラム、キリスト、仏教、白人、黒人問わず、だれでもお湯を沸かせます

人間に自由意志があり、自然界の法則が厳然としてあるわけですから、それを、諸法を自在に利用することができる、というふうに言ってもよいのではないでしょうか

まあ、屁理屈の積み重ねのように聞こえるかもしれませんが、お釈迦様はインドの霊鷲山(りょうじゅせん)で、般若心経を説いて「一切の苦厄を度した」わけです
それは、一瞬にして、全てがバラ色の極楽世界に様変わりしたわけではなく、「必ず問題を解決することができる」ということを言っているのではないですか

今風に言えば、智恵で科学法則を利用して苦しみや災厄から逃れることができる、と解釈することもできるわけです

もちろん、老いや不治の病があって、いずれは死を免れないとしても、「時間も空間も質量も無い」智恵の心が我々にはあるのだから、いつまでもくよくよする事は無い、ということにはなりませんか

図解 般若心経