長保寺の伽藍

長保寺絵図面(廟所絵図)  海南市指定文化財 長保寺蔵

一幅 紙本著色
縦191.7 横214.2
江戸中期
陽照院(現在の長保寺)の、伽藍および紀州徳川家の廟所・墓地を描いた資料です
近世の長保寺寺領については、慶長6年(1601)に浅野幸長が浜中上村の5石を寺領としたのち、寛文12年(1672)に徳川光貞から500石を加増されています
本図はその際に確定された、境内と墓地について描いたものです
藩主の墓が深覚院(第4代藩主頼職)までしか書かれていないことから、本図が作成されたのは吉宗もしくは宗直の藩主時代のことであると考えられています
江戸時代中期の長保寺の伽藍・廟所の状況を知る上で貴重な資料です
長保寺の伽藍を知るうえで、現存する最古の図面です

紀伊国名所図会 江戸後期の長保寺

江戸時代後期刊 版本
各縦26.0cm,横18.2cm
23冊
 江戸時代後期に和歌山城下の書肆・帯屋伊兵衛(高市志友)によって企画された紀伊国全体に関する地誌で、紀伊藩領だけでなく高野山寺領についても掲載する。初編と二編(高市志友編)は文化9年(1812)、三編(加納諸平編)は天保9年(1838)、後編(加納諸平・神野易興編)は嘉永4年(1851)に、それぞれ刊行されている。単に名所だけでなく、広範な地名や寺社について掲載しており、『紀伊続風土記』とならび、江戸時代後期の紀州に関する基本的文献の一つに数えられる。http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/23057文化遺産オンライン

現在の長保寺案内図面 クリックすると拡大します
時代とともに、藩主廟所の造営が進み、庫裏が増改築され、かなりの変遷があります
ただ、本堂、多宝塔、大門、鎮守堂、御霊屋の位置が変わっていないことがわかります
本堂の左に庫裏が渡廊下で繋がれていたのがなくなり、護摩堂が多宝塔右から移動しています
参道両側にあった子院は、福蔵院を残し統廃合され、芝生などになりました
全体で約15000坪あります

長保寺の伽藍に関する二、三の考察    和歌山県立博物館 学芸員  竹 中 康 彦和歌山県立博物館研究紀要 第3号 1998/3/31発行



癒される瞑想

    

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