紀伊徳川家藩主廟所

紀州徳川家歴代藩主の御廟が、長保寺本堂裏手の山腹に、約1万坪の広さで展開しています

藩主廟所としては全国一の規模です

紀伊徳川家 初代藩主 徳川頼宣(とくがわよりのぶ)御廟(1602-1671)

和歌山藩主徳川家墓所

   国指定 昭和56年5月28日


 長保寺は一条天皇(986~1010)の勅願によって長保2年(1000)二品性空上人が七堂伽藍を創造し、長保の年号を賜り寺号にしたといわれている。
 現存する国宝建造物の建立年代からみて、鎌倉末期には現在の伽藍は完成していたとみられる。
 宗派の異動はたびたび行われていたが、寛文6年(1666)徳川頼宣の菩提所となるとともに天台宗に改め現在に至っている。


 

史跡和歌山藩主徳川家墓所は、このように長保寺が11世紀以来の地方有数の名刹であり、加えて紀州藩主歴代の墓所としてその規模が大きく墓碑や石燈篭とともに墓所を造成する石垣等壮麗豪華な石造遺構は全国的にも近世大名墓所の代表的なものであり、江戸時代の墓制葬制を知る上から貴重な遺跡としてその価値が認められたものである。
 歴代藩主のうち、五代吉宗と十三代慶福は将軍となったため墓碑がない。
 墓所の参詣堂は大門からすぐ東の小高い処に御成門があって御廟所門まで200メートルばかり坂を登り、長保寺本坊に付属する御霊殿の後方に墓所を築いている。
山の東南傾斜面一帯に点在する墓碑は28基で、そのうち12基が藩主の墓碑で、他は藩主の夫人や子息等のものである。
傾斜を切り取り石垣を築いて墓所を造成し、玉垣で囲い、石門を建て、330基に及ぶ石燈篭などすべて石材は花崗岩を使用している。12基の石碑の型式は5つの型に分類できる。
塔身の無銘の石塔は一朝有事の際の処置として墓の後方に井戸を掘り、これに石碑を埋めるしかけになっていたと伝えられる。
 下津町は、この境内に歴史民俗資料館を建設し、この由緒深い名刹の文化財とともに地域の文化財保存に努めている。
この史跡徳川家墓所も歴史の散歩道として広く一般に紹介したいものである。

清文堂「和歌山県の文化財 第2巻」から

長保寺絵図面(廟所絵図)  海南市指定文化財

一幅 紙本著色 縦191.7 横214.2   江戸中期

陽照院(現在の長保寺)の、伽藍および紀州徳川家の廟所・墓地を描いた資料である。近世の長保寺寺領については、慶長6年(1601)に浅野幸長が浜中上村の5石を寺領としたのち、寛文12年(1672)に徳川光貞から500石を加増されている。本図はその際に確定された、境内と墓地について描いたものである。藩主の墓が深覚院(第4代藩主頼職)までしか書かれていないことから、本図が作成されたのは吉宗もしくは宗直の藩主時代のことであると考えられる。江戸時代中期の長保寺の伽藍・廟所の状況を知る上で貴重な資料である。
和歌山県立博物館「吉宗と紀州徳川家」より
墓石に墓碑銘が刻まれていない? 

和歌山藩主徳川家墓所

   国指定史跡 昭和56年5月28日 


指定理由 紀州徳川家歴代藩主の墓所で、規模と豪華さから近世大名墓所の代表的なもので、墓制、葬制を知るうえで重要
   面積 43,597㎡
 和歌山藩主徳川家墓所は、和歌山県有田市の北、海草郡下津町の長保寺にある。
 元和5年(1619)に徳川家康の第10子徳川頼宣が御三家の一人として55万5千石を領して紀州に入国し、幕藩体制の要のひとつとなった。寛文6年(1666)に頼宣は熊野巡見の帰途、古刹の長保寺の立ち寄り、この地が三方を山に囲まれ、下津湾を見渡せる景勝地であり、また、要害の地であることに着目して菩提所と定め、翌7年に仏殿を建立し、伽藍の整備を行った。頼宣は寛文11年に死去したが、遺命によりこの地に葬られ、以後、徳川宗家を継いだ5代藩主吉宗(8代将軍)と13代藩主慶福(14代将軍家茂)を除いた和歌山藩歴代藩主と、その夫人や子息の墓所とされた。

 長保寺は寺伝によると一条天皇の勅願寺で、長保2年(1000)に二品性空上人を開基とし、年号を賜って寺号とし、往時は七堂伽藍、子院12か坊を有した壮麗な寺院であったといわれている。その後、延慶4年(1311)に現在地に移転し、本堂、多宝塔、鎮守堂を建立し、嘉慶2年(1388)に大門も再建され、ほぼ現在みられる寺観に整備された。
 境内は南へ傾斜する山腹に位置し、小畑川の辺りに大門を整え、その北方150mの上壇に本堂、その南東に接して多宝塔、その北方の山腹に鎮守堂、本堂東南部の中壇に霊殿、本坊などを配置し、墓所は霊殿の北東の急峻な山腹に位置する。
 本堂、多宝塔、大門は国宝に、鎮守堂、絹本著色仏涅槃図は重要文化財に、紀州藩霊殿、客殿、木造阿弥陀如来座像、林叢は県文化財に指定されている。町文化財に指定されたものも多数あり、境内一円が文化財となっている。また、墓所のみでなく、これらの境内地およびその背後地の山林も含めた広大な範囲が昭和56年に史跡に指定された。
 本堂は桁行五間、梁間五間、入母屋造り、向拝一間、本瓦葺きの建物で、入側三間四方を内陣とし、後端の中央に須弥壇・厨子を置いており、内陣正面の一間通りを外陣、他を脇陣と後陣に区画している。側回りの開口部は少なく、入側四周は引き違い格子戸と菱欄間で区画して閉鎖された空間を造り出し、密教系仏堂の特色をよく表している。また、側回りは和様、入側は禅宗様として意図的に内外を区分し、全体として折衷様の建築となっている。中世の仏堂は外陣奥行を深くする必要から通常二間とするが、この本堂は外陣を一間としながらも、奥行を確保するため、四支分を広くし、柱間に架けた繋虹梁に三斗を置き、隅木を真隅に入れ、小天井をも付け処理する。この手法は紀州における中世仏堂の外陣空間の架構構造に多用されたものである。多宝塔は三間多宝塔で、裳階は支輪付きの出組、身舎は四手先の和様とし、内部は四天柱を建て、二重折上の小組格天井としている。塔身は小さく引き締まった良好な多宝塔である。大門は入母屋造りの三間一戸楼門で、腰組は三手先、上層は尾種木入の三手先  とし、和様を基調とするが、細部に禅宗様を採り入れた重厚な楼門である。
 寛文7年に建立された仏殿は、その後、位牌堂にあてられ、紀州藩霊殿として指定されており、寄棟造りの妻入りとする珍しいものである。奥の霊室には一間厨子を置いて歴代藩主の位牌を、手前の霊室には二基の厨子を置いて正室・側室と、その子息の位牌を祀り、墓所と一対をなす貴重なものである。
 各墓域は急峻な山腹を削り、城郭の石垣と見まがうばかりの砂岩の石垣により、上下壇を作り出している。上壇の中央には花崗岩の広い基壇を築き、四周に瑞垣をめぐらし、正面中央に廟門を構え、基壇中央に墓碑を建て、その背面には5本の木製卒塔婆を挿入できる穴をうがち、上壇の正面にも瑞垣を建て、下壇と区画している。下壇は参道より高い石垣で区画され、正面中央に石階段を設け、一間の門を構え、さらに上壇まで砂岩製石畳の参道がつづき、上下壇の正側面には多数の大きな灯篭を置き、この形式を基本形としている。
 墓域の設定・配置については、全体として規則性はみられない。しかし、2代と8代、3代と9代、11代と12代の墓所は、同一の上壇に、それぞれの基壇を並立して建て、下壇を共用し、石畳参道は中央に位置しており、後世に改修された可能性が考えられる。
 墓碑を形式によって分類すると、無縫塔は1、6、7代、角柱(棟型角柱を含む)は2、3、4、9、14、15代、八角宝塔は8、10、11、12代になる。墓碑銘については6代まではすべてを無銘で、7代からは正面に院号と両側面に没年時を刻んでいる。
 この墓所の建立および修理にかかる史料はないが、「長保寺古図」には下壇の正側面に土塀を築き、正面中央に一間向唐門を、中央に桁行三間、梁間二間、入母屋造りの参篭所とみられる建物をもつ墓所が描かれている。この古図には4代までの墓碑が描かれていることから、宝永2年(1705)から宝暦元年(1751)の間に作製されたものとみられ、往時の姿を知ることのできる貴重なものである。
 この墓所の本格的な保存修理は実施されておらず、調査および修理が望まれる。

同朋社「図説 日本の史跡 8」 山本新平



御廟所普請の御用石

 長保寺の霊域には歴代の藩侯の廟が並んでいる。この廟に使用されている石材はどこから割り出され、どのようにして運ばれてきたのか明らかにされていない。尾鷲組大庄屋記録の『御用留』(三重県尾鷲市市立図書館所蔵文書)によると、宝暦8年(1758)に、奥熊野郡尾鷲組梶賀浦と曽根浦の山から切り出されたことが記されている。その記録にはだれの墓の石材であったか記されていないが、6代藩主宗直の歿年が宝暦7年2月であり(『南紀徳川史』巻之十二)、たぶん宗直(大慧院)のものでなかったかと思われる。
 「浜中御用石割り出しならびに海士郡下津浦へ積廻し候儀につき、添奉行中より別紙のとおり申し来り……」という書状が、戸田孫左衛門から届けられている。そして曽根、梶賀浦へは、戸田孫右衛門、服部八郎右衛門、和田伊右衛門の3人の役人が出張してきた。この役人から尾鷲組大庄屋や両村の村役人へは、用石の割り出しについての指示があった。「諸職人御用人足ならびにお調物船などの儀につき、ご用がかりの役人より申出次第あと方の趣をもってさしつかえこれなきよう…」とある。この時に鍜治吹子一組が必要であって、石屋六兵衛より借用していた。また石材の輸送についても「大切なる石の儀に候へば、積舟の儀ずいぶん吟味致され、慥なる船を選び相廻り……」とあって、下津浦までかなりの遠距離輸送になるだけに、「もし時気などの節はご用船気をつけ湊より船を出し候よう浦々庄屋どもへ申しつけ」というおふれを紀伊半島の浦々の庄屋たちへも出していた。 
 ついで明和2年(1765)5月にも曽根、梶賀両浦でご用石が割り出された。これは菩提心院(7代宗将)のご墓所の普請に使う石材であった(尾鷲組大庄屋記録)。宗将は明和2年2月26日に江戸赤坂邸で逝去した年46才であったが、3月2日に江戸谷中感応寺で火葬し、11日に柩が江戸を発して長保寺で埋葬している(『南紀徳川史』巻之十二)。「浜中長保寺、菩提心院様御廟所御普請御用の石、奥熊野曽根梶賀浦山にてこのたび割り出し申す筈につき、別紙の役人、近々彼地へ差遣候」とあって、菩提心院の御墓所普請がはじまった。
 大庄屋や村役人、また石材の割り出し作業に参加する諸職人へ入山の申つけを行った。和歌山から両浦へ役人が出張していた。
 ご用石は下津浦まで積み回すために紀伊半島の沿岸の浦々すべて厳重な警戒のもとですすめられた。ご用石を運んだ回船は、大川浦の専蔵船、林太夫船、彦三郎船と、梶賀浦の嘉右衛門船、五左衛門船などがあった。ご用石の船積みが終わって出帆がなされる時に、曽根浦、梶賀浦より各浦々へ回状が発せられた。「船数も有之候事に候へば、猶おのおのより船手をも吟味手を詰め、運賃銀の儀は申すに及ばず、そのほか万端申あわされ……」とあって、それぞれの運送回船へ対する要望もきびしかったと思われる。ご用石の運搬はこの年の7月ごろ行われており下津浦まで届けられた。そこから長保寺までを運んだのであるが、加茂組の農民が負担することが多かったのではなかろうか。

下津町史 通史編より