心経玄談 6

まさに、肝要の心経です
そして、心経は最後の「呪」を説くための経典
というのが結論でいいと思います
せっかくなので、心経の内容の理解を深めるきっかけを探ってみたいと思います
最近の心経研究の到達点を示す好論文です
言っときますが、サンスクリット原本に基づいた、仏教文献学の論文ですので、読み進めるには、高度な専門知識が必要です
このようなもんなんだ、ということで参考にしてください
kindleで265円です
サンスクリット語からの知見で、伝統的な解釈を批判しています

一口に言って、経典解釈というのは、その気になれば、いくらでも拡大解釈できてしまうもので、たとえば弘法大師の般若心経秘鍵では
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
(ぎゃーてい、ぎゃーてい、はらぎゃーてい、はらそーぎゃーてい、ぼーじそわか)
この呪を声聞、縁覚、大乗、真言と、それらを統合した成果としてとらえ
羯諦(声聞行果) 羯諦(縁覚行果) 波羅羯諦(大乗最勝行果) 波羅僧羯諦(真言曼荼羅具足円輪行果) 菩提薩婆訶(諸乗究竟菩提證入) 
に、それぞれ配当します
これを、いいとか、悪いとか言ってもしょうがないので、これが弘法大師の境地ということです
瞑想の階梯とも言えるし、心経が全ての修行を網羅しているとも言えます
ただこれ、弘法大師の解釈ということで真言宗の人は、すんなり受け入れても、他宗派の人は、参考程度にしか考えてないし、つまり、主流の解釈とはみなされてません
日本仏教の場合、心経を唱えないのは、真宗ですかね
専修念仏ですから
日連系も唱えませんね
真宗と日蓮系は、鎌倉時代に成立した宗派で、仏教信仰に時代的な特徴があって、いわば、時代背景に応じた「選択と集中」をしています
当然、これを、いいとか、悪いとか言ってもしょうがないのです
まあ、でも、玄奘がインドに行った時の空気感や、天平時代の仏教空間を思うと、心経は仏教世界のとして扱われていたと思われます
現代を生きる我々は、今を生きるために、自分の責任で仏教に向き合うしかありません
仏教の歴史に誠実に向き合う限り、仏教の要として心経を理解することを、個人的には、お勧めします
心経的に言えば
どのような事実であれ、解釈しなければ、理解されないわけで
一つの事実であっても、様々な解釈が成り立つわけです
これが
自分なりの解釈が、事実から極端な乖離をしないよう、常に自戒しなければなりません
それが、仏教的な生き方の本質に繋がっている、ということになります