最先端の脳科学や量子論が仏教と似ている、というのは大変に興味深いのですが
僕としては、あまり深入りする気にはなりません
というのは、例えば、仏教の唯識論は、釈尊在世当時はなくて、仏滅後900年くらい後に、アサンガとかバスバンドゥ(4~5世紀頃)が体系的にまとめたものです
この前後に大量の唯識関係の論書が作成されたようで、ナーランダーを中心に盛んに研究されました
それで、唯識と一口に言っても、長い歴史があるわけで様々な学説があります
唯識三年倶舎八年とも言って、専門家が習得するのもたいへんな時間がかかる膨大な研究がなされていて、しかも、時代や学派によって、考え方が違ったりします
それが、瞑想と思索だけによって積み重ねられていますから、言葉のつながりはもっともらしくても、理屈のための理屈や、妄想に近いものもふくまれてきます
説法していると宙に浮かんだ、とか、普通に書いてあります
本当か嘘かはわかりませんが
ですから、実験と観察によって得られた科学的知見と、仏教論書に書かれている概念とを照合しても、「似ている」という以上のことは言えないのです
仏教の長い歴史の中で、ありとあらゆる思考実験がなされていますから、科学者が自分の考え方に似ている学説を探せば、たいてい見つかるんじゃないでしょうか
僕も、こうやって偉そうに色々書いていますが
分野としては、「文学」だろうな、と思って書いています
また、学問としての仏教文献学は、近代的な手順ではあるのですが、その内容は、「文学研究」のジャンルだと思いますよ
まあ、それはそうなのですが
なぜか
最先端科学と仏教は、似ているのです
これは、どうしようもありません
キリスト教とかイスラムでは、ありえないことだと思います
「神はこう言った、だから神が正しく、あなたは間違っている」
などといった思考回路は仏教にはありません
仏教が、神からの啓示とか、超越的な権威とかに基づかずに、自分自身の瞑想と思索に基づいて組み立てられているからだと思います
言ってみれば、「自己の観察」ですから、その部分については分析的で科学的であるとも言えます
その「自己の観察」結果を書き記すと、それは文学になってしまいますが、科学に接近してはいます
仏教が、「自己の観察」をせず、過去の権威に縋って、瞑想も思索もしなくなったら、仏教ではなくなってしまうのかもしれませんね