十二縁起(十二因縁とも言いますがこれば鳩摩羅什訳で、心経を訳した玄奘訳では十二縁起です)では、人間のもっとも代表的な苦である老死を、「無明が尽きればなくなるんだ」という論理で解決しようとしています
普通に考えれば、「無明が尽きる」とは、つまり「空」を体得することだ、ということになりそうなのですが
その、十二縁起で説かれている「無明の尽きることによって・・・老死も尽きる」という、仏教的な救いのセオリーをも心経は否定しているわけです
否定(老死は無い)の否定(老死は尽きる)の否定(老死の尽きることは無い)で肯定と、矛盾してくるわですが
まあ、十二縁起という整理のしかたそのものを、神話的コスモロジーととらえているのでしょう
理屈を積みかさねていくと、どうも、微妙に論理がずれてくるから、長い仏教の歴史で様々な学派が生まれた原因にもなるのですが、精密な理論を構築しようという努力は必要ではありますが、とどのつまりは、神話的コスモロジーの範疇であるということです
2500年におよぶ仏教の歴史で、「空」は様々に定義され、議論され、求め続けられました
うまいこと説明したと思うと、それは、神話的コスモジーになってしまっているわけです
これを、「果分不可説 かぶんふかせつ」というのですが
果分というのは、ここでは「空」ですが、うまいテクニカルタームを考え付くもんです
こういうことがあるので、仏教用語は便利なんです
ただ、弘法大師だけは果分可説です
世界の仏教史で、弘法大師だけだと思います、果分可説は(チベットにもしかしたら果分可説を説いた人がいるかもしれません)
仏教的な常識では、法身(つまり空)は説明することができません(説明すれば、神話的コスモロジーになってしまう)
弘法大師は「法身は説法する」と説き、大日如来が直接説法しているのが真言だとしています
まあ、これ、新義真言宗の覚鑁が「加持身説法」といって、「法身が、大日如来としてイメージされ構築された存在を加持して、語らせている」といって否定して、結局、高野山を追われることになったわけですが、仏教史的には覚鑁が主流派に属することになると思われます
平成29年2月15日の境内 |
延々と、ややこしいことを書きましたが
つまりは
ぱっと目をつぶった時に目の前にあるモニターを説明せよ、ということです
目をつぶっているのだから、見えないし、説明のしようがありません
でも、そこにある
真っ白な紙に向かった時に芸術家の心の中にあるもの、かもしれないし
設計にとりかかかる直前の建築家の心かもしれない
インスピレーションが訪れる寸前の音楽家かもしれない
ま、そんな難しく考えなくても、今、ぱっと目をつぶってみてください
その間に、モニターは火星に飛んでいって・・・いるわけはないのですが、見てないのだからわからない
わからないけど、そこにある(空です)
目を明けば、そこには、さっきと違うモニターがあります
約0.1秒ぶん劣化したモニターになっています
これ、空が色になった瞬間です
じゃあ、真実は
目をつぶった時に、そこにある「空」(見ていないモニター)なのか
目でみて、視神経から脳に伝達されて形になった「色」(モニターというイメージ)なのか
老死も脳内イメージだとしたら、真実の老死とはなにか
真実の老死は「再生への旅(輪廻転生)」という物語なんですよ、というのが仏教なのだと思います