心経玄談 17

自在に観ることさえできれば、悲劇は回避できるのです
自在に観ることができれば、自分というちっぽけな殻を打ち破って、大きな生命力に触れることができるのです


ですから自在に観るには、どうしたらいいのか、というのが最も重要な問題になるわけです

心経は、それを、と説いているわけです

故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪

般若波羅蜜多(智慧の方便)は、大神呪、大明呪、無上呪、無等等呪であると知る

つまり
智慧は呪であると言ってるわけで、呪の定義が問題になるわけです

呪をサンスクリットで言うとdharaniですけど陀羅尼ですね
呪文、真言、まじないの言葉、などの意味に使われることが多いわけですが、もともとは精神統一の意味で、それが、だんだんと精神統一する時に使う呪文そのものをさすようになりました

呪=精神統一
 
ですから

般若波羅蜜多(智慧の方便)は
大いなる神のごとき(精神統一)であり
大いなる明らかなる(精神統一)であり
この上なき(精神統一)であり
比べるもの無き(精神統一)である

という意味になります

続いて最後の部分がですね

故説般若波羅蜜多呪
ゆえに般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)の呪を説く

即説呪曰
すなわち、呪を説いていわく

呪が2種類あるんです
精神統一の意味の呪、と、呪文の意味の呪

般若波羅蜜多(智慧の方便)の呪(精神統一)、と
呪を説いていわく、の呪(呪文
同じ文字でも、意味の違う呪があるのです

実際問題としては、精神統一しつつ呪文を唱える、のが心経の言う
「自在に観(観自在)ると、脳が作り出すイメージ(五蘊)は「空」だと照らし見て、すべての苦と厄難を解決できる」
方法である、ということになるかと思います


心経には、自在に観るために「考え方を改めましょう」とか、「立場を変えて考えてみましょう」とか、もっともな説教はありません
もちろん、そんなことしちゃいかん、と否定しているわけではありませんが、どうやら、重視していないようです
考え方を変えようにも、「自分自身の考え方の盲点」を自覚することはできないし、「自分の凝り固まった固定観念」を理屈で解消することはできないのですから、当然と言えば当然です
比較的軽微な問題は、視点を変えたり、立場を変えて考えることを意識すれば、なんとかなるでしょう
(まあ、これはこれで難しいわけですが)
「自分自身の考え方の盲点」「自分の凝り固まった固定観念」と向き合うとなると、いわば自分で自分を逆洗脳するというか、逃れがたい業や運命と対峙するというか、普通の方法では解決の道筋が思い当たらないのではないでしょうか

それを心経は、「考え方を変える」でも、「相手の立場で考える」でもない
精神統一しつつ呪文を唱える
これだけです

「自分自身の考え方の盲点」「自分の凝り固まった固定観念」と真剣に向き合って、にっちもさっちもいかないことを十分思い知って、手も足も出ないことがわからないと、こういう境地にはたどり着かないのだと思いますよ