癒される瞑想が、なぜ必要なのか

地獄はあるのか?

はい、地獄はあります

お経に書いてあります
「地獄を見た」という人もあるでしょう

ただ、地獄にいるから苦しい、と単純ではないようです

「地獄に仏」という言葉がありますが、地獄にいらっしゃる仏様もあるわけで、おそらく、仏様は地獄にいても苦しくはないのでしょう

我々は、普通に漫然と生きていると、地獄に行く可能性が非常に高いです

なぜならば

人間は、感覚器官を通じて外界を脳内に再構築して、それを認識とか経験、学習、知識と呼んで暮らしています

そもそも、脳に外界の情報が入力されるときに、自分にとって有利か不利か、安全か危険かを取捨選択しています
また、せっかく取捨選択して学習、経験しても、忘れてしまうこともあります

つまり、外界にあること、そのものが脳内に再構築されるのではなく、かなり、自分勝手な取捨選択をしたものが取り入れられているのです
そして、これは、人間で有る限り、避けられないことです

自分で真実だと確信していることも、ありのままの真実を自分なりに脚色したものであるのです
そこには、ありとあらゆる誤謬や勘違いが入り込む可能性があり
それは、構造的に、避けられないのです

程度の差こそあれ、ありのままの真実にあらざる認識に基づいて生きていけば、脱線しないほうが不思議です

その危険性を自覚しないで生きていれば、当然に、地獄に行く可能性が高くなるという理屈です

苦とか楽、といった感情は、自分がどう思うかということですから、自分の脳内にあると言えるわけで、自分でなんとかなりそうです

時間、空間といった普通の実感も、仏教的に言えば、脳内の産物です
それは、生きて感じるから、時間があって空間があるのであって、感じなければ、まあ、有るとも無いとも言えません

また、生死を感じるというか、生きていくのも自分だし、死ぬのも自分ですから、脳内の感情と言うこともできるわけです

苦楽生死といった、我々の置かれた現実は、仏教的に言えば、感じる前の世界には無く、感覚器官と脳によって歪めて感じたから存在する感覚だということになります

苦楽生死によって引き起こされる「孤独と不安」は、自分で解決する他はなく、どんなに偉い神様や仏様も、身代わりにはなってくれません

何回も言うフレーズですが
朝起きて、かわりに便所に行ってくれるわけでもなく、腹が減ったら、かわりにご飯を食べてくれるわけでもありません
生きていくのは自分です

ここで、解決のヒントになるのは「地獄に仏」という言葉です

たとえ地獄にいても、心が仏のごとくであれば、「孤独と不安」は癒されるのです

自分の都合を一先ず忘れて、相手の立場で考えてみて、出来ることから少しづつでもしていく、ということではないでしょうか

「孤独と不安」から、本当に逃れる活路は、他には無いです
利害、得失を追い求めても、不愉快な現実がいつか立ちはだかります
夢や理想は、思うだけ、語るだけでは得られません

そして、「癒される瞑想」が、やはり必要です
いったん、自分がしがみついている脳内現実から離れなければなりません
相手が無くても出来ますから、比較的身近で簡単で、本質的です

癒される瞑想の仕方 
あなたが一番信頼する光に意識を集中します
リラックスして
目をつぶって
ほほえんで(大事なコツです)
無条件に全てを赦し救う心を感じながら
静かに息を吸って
 
無条件に全てを赦し救う気持ちで
体の力を抜きながら 息をゆったり吐きます
それを繰り返して
光だけになります
 
疲れてきたらやめて
光に感謝を伝えます

信仰のある人は、その神仏が光です
信仰の特に無い人は、「お日様」が光ですね

自分に光が注がれるだけでなく、縁の有る人すべてに注がれると思いながらすると、より気持ちいいですよ