菩薩

過去現在未来三劫三千仏曼荼羅 三本組 江戸時代 長保寺蔵

さて、そろそろ、わけのわからない話をすることにします
 
 
今まで、模式的に、イメージと実体の境目が感覚器官、という理論を展開して、眼耳鼻舌身の五感までは境目としてきました
 
それで、意識は境目ではない、ということなんです
 
すでにこちらで書いているんで、ちょっと別の角度から書きます
仏教ロジックの模式図
 
仏教の考え方に、まあ哲学ですけど、大きく二つの流れがあります
 
空観と唯識観
 
空観は、イメージと実体ですね、この実体がSuperpositionで、無始無終無常無我で、有るでも無いでもなく、しかし、そこにあるということを説明しようとしています
 
唯識観は、「イメージと実体」が、意識の中で生じる現象だということを説明しようとします
 
仏教の歴史の中では、瞑想体験や神秘体験の、体験したこととうまく整合性のとれるような理論が研究されました
なかなか苦労してるんですが、ここのところが、どうも煩雑なので割愛します(^^;)

意識、マナ識、アラヤ識、如来蔵と意識は階層化しています
説明がめんどくさいので、興味があれば「仏教ロジックの模式図」を見てください(^^;)
 
 
結論的に言うと、意識が、「イメージと実体」の入れ物だということです
わかりにくく縮めて言うと(^^;)、物質も意識の産物です
 
意識は、無始無終無常無我で、てっとり早く言うと、永遠です
それで、僕らの、肉体は死ぬことはありますが、意識は永続というか始めも終りもなくそのまま、ということになります

意識は、境目(唯識の専門用語でいうマナ識)のあっちとこっちを行ったり来たりします(なんのこっちゃ、だと思いますけど)
唯識的には、眼耳鼻舌身の消失が死です
意識は永続します
マナ識が、妄想にしがみつく、まさにしがみついている本質です
マナ識は、意識が成長する(つまり、妄想から解放される)と消滅します
マナ識が消滅した状態が、ブッダです
マナ識が消滅しても、意識の履歴は保持されます、なぜなら、実体には時間や空間はありませんから
それで、ブッダは無数に存在します(厳密に言うと数えることはできませんが)

ですから、僕らは死んでも、今経験していることは、蓄積され、実績として生かされ、輪廻転生を繰り返し、最後は、別々のブッダになります
ただし、実績が評価されてブッダになるのではありません
妄想から解放されるからブッダになるのです
ここのところが大事です
 
輪廻を通じて、栄枯盛衰、喜怒哀楽、いろいろな経験をするんですが、つまりは、妄想が原動力ではあるのです
それで、どれだけ長く転生を続けても、ブッダにはなれません
でも、妄想にしがみつくのをやめれば、ブッダとなり、経験したことは全て生かされます
ブッダにならずに、妄想を離れた状態で転生を続けるのが、仏教でいう菩薩ですね

で、天台学的には、頓悟が可能になります
なんにもわからなくても、妄想を離れることができれば、すぐに成仏が可能です

これがですね、仏教があんまり人助けを熱心に言わないという歴史にもなるんですねぇ
理論的には、山にこもって瞑想して、それだけでブッダになれます
 
ですけれど、ブッダとなったとき、生きとし生けるものの苦しみ喘ぐのが我がこととして迫るのです
ブッダは実体そのものですからね
 
妄想を離れた生活が、菩薩の生活、人助けの生活、ですね