来迎


阿弥陀三尊来迎図 絹本着色 江戸時代 長保寺蔵
 
   
単にSuperpositionを認知するだけでは悟りではない、という話の続きなのですが
 
Superpositionを知るのが、無上の悟りなら、昼寝でも修行になります
感覚器官がお休みの状態ですからね
 
 
仏教では、悟りにも段階があって、Superpositionがわかるくらいになって、初心の行者になります(なんか専門用語がありましたが、時代や宗派によって違うので、説明するとややこしくなります)
 
わかりやすく、弘法大師で言うと、10段階にわけてです
 
要はですね、本を開けてみたはいいけれど、活字がランダムに並んでいて読めない状態です
自分に語りかけてくるものが無い
 
無始無終無常無我のSuperpositionなのですが、自然科学によって確認されつつあるように、美しい秩序があります
なぜ、あまりにも整合性のある厳然とした法則があるのか、謎ですね
その、法則(とりあえずこう言っておきます)そのものが、イメージの中で形になると・・・
それが、神や仏の姿になります
神や仏がなぜ人の形になるかと言うと、人の理解力に応じた形でイメージが作られるからです
 

金剛界曼荼羅部分 降三世三昧耶会 長保寺蔵 
 
密教では、三昧耶形(さんまやぎょう)というんですが、神様などがいろいろな持ち物を持っていますが、これなども、理解力に応じて、というか、人の中にあるイメージを借りて、法則が表現されたものです
この三昧耶形の意味は、必ず師から弟子に直接伝授されなければなりません
よけいな意味が入りこまないようにです
これが、密教の秘密性にもなるのです
 
 
ここからは、わかる人にしかわからない話です
 
弘法大師で言うと、ここがです
 
 
神仏は、我々に、常に語りかけています
キリスト教だと、啓示ですね
 
これは、つまり、今までの文脈で言うと、感覚器官が自動的にSuperpositionをイメージ変換していて、ついに、法則そのものと出会う、ということです
 
それは、人が、与えられた自由を行使して、求め続けて、求めても得られないことに気がついた時に、与えられます
一回、スッカラカンにならないと、うまくいきません

本を開いて、意味のない文字の羅列を見て、どんなに頑張っても解読できず絶望したとき
その時初めて、文字が語りかけてきます 
 
向こうから、来るのです
僕らの中には、ありません
来迎ですね
 
来迎というイベントが発生するルールも確認されています

阿弥陀如来を呼ぶ場合は、「南無阿弥陀仏」と念仏してちょーだい
とか
念仏で必ず阿弥陀如来の来迎があります
信じてください
 
だから、理屈を言うと、念仏も、向こうから来たものです
真言とか、マントラですね、これらも向こうから来たものです

般若心経の最後の
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
も、だから、向こうから来て、イメージになった言葉ということですね
 
 
それで、この先に、弘法大師の10があります
それが悟りです

この解説は、僕には無理です(^^;)
あたりまえか