吉宗300年
徳川吉宗が藩主になって今年で300年です
宝永2年(1705)10月6日22才で藩主となりました
この年、将軍綱吉から「吉」の一字をもらい吉宗と名乗りました
吉宗が藩主となった時、藩財政は極めて困窮の中にあった
藩祖頼宣(よりのぶ)が多数の浪人を雇用した
紀州藩江戸屋敷、和歌山城があいついで火災にあった
父と兄2人と、同じ年にあいついで3人藩主を亡くし、大がかりな葬儀を営み費用がかさんだ
日高、有田が大津波におそわれた
藩財政を立て直した
質素倹約令 新田開発や用水工事 目安箱 武芸の奨励 学問の奨励
正徳6年(1716)将軍となる 33才
享保(きょうほう)の改革 将軍になって年号を享保と改めた
新田開発 | 井沢弥惣(やそ)兵衛(べえ)(海南市野上出身)の登用。町人による請負制が多かった。 |
定免(じょうめん)制 | 過去数年の収穫高を元に豊作凶作に関係なく一定額を年貢とする。
収穫高の増加に伴い農民は努力をすればするほど儲かる。 |
足高(たしだか)制 | 役職ごとに一定の役高をきめ,役職に就任する者の家禄が役高より低いとき,不足分を在職中だけ支給する。役職の世襲をやめ,人材登用を容易にした。大岡越前もこの制度で登用され、江戸の町火消しを創設した。 |
成文法典 | 公事方(くじかた)御定書(おさだめがき) 司法・警察関係の法令と判例を定めた |
目安箱 | 箱の鍵は吉宗が自ら管理した。目安箱の投書から小石川養生所を作る。経費は幕府が負担した。 |
武芸の奨励 | 鷹狩りを頻繁に行った。軍事訓練にもなった。 |
上米(あげまい)制 | 大名に米を上納させ、見返りに大名は参覲交代の江戸在住の期間を半減する。 幕府には大きな財源になり、大名は江戸の無駄な消費を減らすことができた。 |
質素倹約 | 法令で厳しく強制した。吉宗は自ら、一汁三菜、木綿の着物を実行した。 |
庶民の花見 | 現在の庶民の花見の風習は、吉宗が隅田川堤(向島)や飛鳥山(王子)、御殿山(品川)などに桜を植えさせ、花見客用の飲食店まで造らせ、花見を奨励したのが始まり。 |
米市場開設 | 大阪の堂島に米市場を開設し、先物取引を容認した。吉宗は後に米公方(こめくぼう)と呼ばれるほど米価の安定に腐心した。ここでの相場が全国の基準となった。 |
宝暦元年(1751)6月20日、68才を以て江戸で逝去
2005/09/06 下津ライオンズクラブ テールツイスター 瑞樹(たまき)正哲(せいてつ)
後に行われた寛政の改革、天保の改革とならんで江戸時代の三大改革と呼ばれた享保の改革でしたが、実質成功したのはこの享保の改革だけでした。後の改革を主宰した松平定信、水野忠邦は反対勢力に足をすくわれ十分な成果をあげていません。
米余りを加速させたのは諸藩の財政難で、お金に困った諸藩は集められるだけの米を大坂に送って現金化しようとします。領内では豊作だと言うのに領民は草や木をかじるほど飢えさせても米を大坂に送ります、現金は領内に送られ、大坂には金銀がますます乏しくなり、米価が下がります。米価が下がっても金銀が必要な諸藩は大坂に米を送り続けることになり、さらに米価が下がる悪循環を繰り返すことになります。
部下の不正を監視するため隠し目付けと呼ばれるスパイを大量に抱え、配下の隅々まで目を光らせました。秘密警察「御庭番」の設置。各大名家の情勢を知らせる。
徳川吉宗が中国商人に注文して象を輸入した 生きた象が日本に渡来したのは、この享保期が初めてではなかったが、海外の船が象を積んで日本にやってきたのではなく、徳川吉宗自らが発注し求めたものであることや、象が長崎から江戸まで陸路で運ばれ民衆に至るまで多くの人が目にする事ができたこと、更には出版界(書物、漢詩集、瓦版、錦絵など)や歌舞伎、象をあしらった関連グッズ販売等、各分野で象ブームがまきおこるなど、室町期などの過去の象の渡来とは画期的に異なるものであった。
隅田川花火大会の起源は、1733年(享保18年)に川施餓鬼を目的として行われた両国の川開きです。
隅田川河畔では、大橋(両国橋)架橋などもきっかけに、夏季には納涼の人手でにぎわっていました。
川開きとは、5月28日から8月28日までの期間、隅田川に納涼船を出す初日のことで、隅田川両岸の水茶屋が許可を得て、この納涼船を出していました。
川開きの花火の起源は、1732年(享保17年)に起こった享保の大飢饉でした。西日本一帯でうんか(いなご)が大発生し、田畑の収穫は壊滅的な打撃を受け、餓死者が多数出ました。また、江戸では疫病も流行し、市中には死体が多く放置された状態でした。
この時、江戸幕府八代将軍徳川吉宗は、死者の慰霊と悪疫退散を祈願して隅田川で水神祭を開催しました。隅田川両岸の水茶屋は5月28日の川開きに川施餓鬼を行い、1733年(享保18年)には、前年の大祭にちなんで、川開きの花火を開催しました。
以降、この川開きの花火が年中行事となり、隅田川花火大会の起源となりました。
銅製香炉 長保寺蔵 将軍吉宗が享保10年に長保寺内の南竜院(初代藩主徳川頼宣)の霊前に寄進したものです。質素倹約をすすめる吉宗が、将軍になってから寺院になにか物を寄進したのは、この香呂だけです。吉宗にとって格別の意義のあることがわかります。この享保10年頃に、大赤字で引き継いだ江戸幕府の財政が吉宗の享保の改革によって黒字に転換していきました。南竜院は吉宗から見て祖父にあたります。危機に瀕した幕府を立て直すめどがついたことを、尊敬する祖父に報告したのでしょう。家康、南竜院、吉宗と繋がる徳川家の精神の濃厚な継承を証明し、吉宗が将軍となることの正当性を物語るのが、この香呂です。
長く続いた戦国時代にまた後戻りするのではないかという恐怖感がどれほど深いものであったか伺い知ることは出来ませんが、墓碑銘を見る限り、かなりの恐怖心があったことがわかります。残された墓碑銘から、当時の人々の気持ちがわかるのです。7代藩主に至り「それには及ばず」という理由で、墓碑銘が書かれるようになりました。調べてみると吉宗の子の家重が将軍を世襲した後のことです。将軍職を世襲することで、やっと徳川の世が安泰であると安心したのでしょう。
吉宗が藩主の時本尊が修理されました(正徳4年 1714)あいつぐ肉親の死が、吉宗を本尊修復に向かわせたのでしょう
吉宗は将軍になったが、母親の墓は失われて無い
鷹狩りを復活。吉宗の鉄砲の腕前に幕臣達はびっくりした。
大岡忠相(41歳)を江戸町奉行(今でいう東京都知事)に登用。彼は、以前紀州藩に隣接する伊勢山田の奉行で、紀州藩と幕府領の伊勢山田の農民の争いを、紀州藩の圧力に屈することなく、公平に裁き、紀州藩の農民を処罰。これが吉宗に感銘を与えたのだった。で、将軍就任とともに早速登用。
吉宗はその他にも博物学の発展にも貢献した。彼の後押しで、博物学は大ブームとなるのである。
農村人口の停滞が年貢収入を減らしてしまうことに、吉宗が気づいたと思われる。そこで幕府により初めての全国的な人口調査が1721年に実施され、総人口2606万人が記録された。
生育が容易なさつまいも(甘藷)を普及させることで、飢饉の防止で役立てることになる。
吉宗は紀州藩主三代目光貞の三男として生れ、さらに生母は百姓出身の側室でした。立場からすると将軍はおろか紀州藩主でさえ逆立ちしてもなれるものではありませんでした。それが二人の兄(綱教、頼職)が相次いで急死したため紀州藩主になり、また将軍継嗣の時には最有力後継者であった尾張徳川家の当主吉通およびその嫡男五郎太がこれもまた相次いで急死するという幸運がありました。しかしこれを単なる幸運というにはあまりにも出来すぎたライバルの急死であり、当時から陰謀の噂はついて回っております。