Quantum Sense

 

創意工夫   相手の立場で考える   あきらめない Make the originality   Think of the partner   Never give up

仏教のロジックと物理学との接点

 

平安時代、ものすごく、加持祈祷やまじないが、まあ、全盛期で、迷信なんて言葉も無かった時代で、科学的なんてことも無い時代ですから、それこそもう無茶苦茶だったわけです


そういう時代に、天台宗に良源がでて、元三大師と呼ばれてる人ですけど、これがまた、ずば抜けた霊能者だったんです。でも、実はこの人はですね比叡山で学問や論議を活発にした人なんです

つまり、ロジックですね、これを非常に重視した

それで、比叡山は開闢以来の全盛期を迎えました。それが、鎌倉仏教の天才達が輩出される基礎になりました。

チベットでも、ヒンドゥーとごちゃごちゃになって、なにがなんだかわからなくなった時に、ツォンカパが出た。これも、どえらい霊能者です。この人も、ロジックをものすごく重視して、チベット仏教の本当の基礎を作りました。


感覚比べは収拾がつかなくなるので、仏教ではロジックを徹底してやるんです



ナーガルジュナの中論なんかもそれですね
もう、延々延々延々とやる

ナーガルジュナは「八宗の祖」と言われて、現在の仏教の基礎をつくった人です
密教でも祖師になっています

青年時代に透明人間になる術を友達とマスターして、王様のハーレムに忍び込んだのですが、友達が見破られて殺されたので、出家して坊さんになった、と言われてます

どうやって見破ったかというと、小麦粉を床に撒いて、足跡を探したそうです
ナーガルジュナは王様の後に隠れたので逃げることができました



空海も、ロジックにはこだわってます
しかし、空海がほんとに何を考えていたか理解できる人は、たぶん、ほとんどいませんね
秘密曼陀羅十住心論とか、まだいいほうで、声字実相義くらいならまだなんとなく雰囲気がわかるけど、吽字義とかなると、やっぱりわかりませんね



神話など、根拠を示せない前提を信じなければ、話が始まらない宗教もけっこうあります

それが受け入れられていくというのは、人があまり理屈(ロジック)そのものを信用してないせいもあると思いますけどね

まあ、信仰はロジックゼロでも成り立ちます

今でも、カルトとか、あれは「理解する必要はない」ってお約束で成り立ってるんで、頭のいい人がやってても不思議はないですよ
それでも、問題が、かなりある

狂信は非常に危険です



それで、脳の機能の科学的解明もそうなんですけど、宗教が真実を説明しているなら、現代の物理学とどこか接点が有るはずなんです

それで、仏教のロジックと物理学との接点です

 

感じられる前の世界

僕はなにも、無理矢理に量子論を仏教に結びつけようというのじゃないんですけど、どうも、非常に興味深いのが、Superpositionなんです

ペンローズの三角形



二重スリット実験という、量子論だけでなく物理学すべてにとって最も基本的な実験があります。物理学に詳しい人は説明いらないと思いますけど
レーザービームを照射して、二本のスリットを通すと、光の波動としての性質によって干渉作用がおこり、縞模様が観察されます
これを、電子銃で電子を一つずつ発射して二本のスリットを通すと、一つの電子なのに波としての性質により、やはり干渉作用が観察されるのです

英語のサイトですけど面白いので見てください
こちら
画像の緑のボタンをクリックするとレーザーが発射されます
次のページは電子が干渉する様子です

つまり、電子は粒であると同時に、波でもあることが観察によって確認されているのです

この現象をどのように解釈するかが、物理学上の大問題で、いまだに完全な決着はついていません

おおまかに言うと
コペンハーゲン解釈
エヴェレットの多世界解釈
の二つに分かれています

この二つが、量子論の面白さの核心でもあるのです

コペンハーゲン解釈では、電子の位置は、観察されないと決定できません
観察されるまでは、一個の電子は「ある場所にいる状態」と「別の場所にいる状態」が重なりあっていると考えます
重なりあっている、のを英訳するとSuperpositionとなります

エヴェレットの多世界解釈では、観察者の数だけ世界があると考えます。パラレルワールドですね
SF的な感じですが、物理学の世界では、コペンハーゲン解釈が主流として受け入れられています

また、電子は「位置を決めようとすると速度が決まらず、速度を決めようとすると位置を決めることができない」という不確定性原理によって、必ず、あいまいにしか捉えることができないことが知られています

アインシュタインは、EPRパラドックスを主張して、量子論のあいまいさを批判したのですが、ベルの実験によって、光速をこえた情報伝達があることが証明されました

EPRパラドックス

量子論的には
月は見たからそこにあり、見ていない時はそこにいない
ということになります

コペンハーゲン解釈によれば、電子の位置がどこか決まるのは、シュレーディンガー方程式によって、観察した瞬間に確率論的に決定されることになっています
しかしながら、数学的に計算すると、物質の世界では電子の位置が決定できないことが証明されました
それを、証明したのが、今のコンピューターの原理を発明したノイマンです
マッドサイエンティストなどと呼ばれたりしますが、なかなか画期的なのは
電子の位置が決まるのは、人間の意識の中である」と結論づけたことです
まあ、これは、今のところ物理学の主流ではありませんが、量子論と意識とのつながりが完全に否定されたわけでもなく、様々な研究が今も続いています



と、これは前置きです

言いたいのは、観察される前の状態、「ここである状態と、あそこである状態」が共存して重なりあっている、Superpositionです

光速をこえた情報伝達がSuperpositionでは行われるのです

色即是空のかなた

僕らは感覚器官がとらえた世界の中に閉じこめられて暮らしている

見えた物を信じたり疑ったり、聞こえた物を信じたり疑ったり
暑さ寒さを感じ、美味しいまずいを感じ
感じられる物が世界の全てだと思いこんでいる

目で見る前の光
耳で聞く前の音
舌で感じる前の味
皮膚で感じる前の感触
それが、あなたというフィルターを通さない、ありのままの真実


自己の拡大は進むべき道ではない
感覚器官の中に閉じこめられている現実が変わるわけではない

自己否定も道ではない
めちゃくちゃで、バラバラの自分になるだけ

感覚器官に写し出される前の、ありのままの世界
世界の本当の姿を知っている自分になるのが、道

あなたは、すでにその道を完成した存在を知っていますか
全く完全に我執がなく、それでいて個性があり生命に満ちあふれた存在

五神通と常・楽・我・浄の境地
大慈悲の感触




感覚器官に写し出される前の、ありのままの世界
感じられる前の世界、それこそがSuperpositionなのです



マトリックス


理論物理学上の、観察される前の量子という考え方が、感覚器官によって認識される前の世界の姿を想像する示唆を与えてくれます

僕は、量子論をそのまま人間の心の働きに応用するのには懐疑的で、たまたま、二重スリット実験の観察結果を辻褄あわせるために導きだされた計算上の概念ですから、どうにも、実際に人が生きたり死んだりにつながるようには思えません

しかしながら、人間の生死は、妄想とか考え方の立場とかではなく、現実ですから、現実世界を説明しようとする物理学とどこかに接点があると考えざるを得ません

Superpositionの概念など、いい例で、仏教が示唆を与えられることもあるでしょうが、また、物理学が仏教から示唆をあたえられることもあるでしょう
理論物理学を追求していくと、感じられる前の世界の姿の片鱗が明らかにされていくかもしれませんね


仏教は、三界唯心と言って、世界のすべては心の中で起こっているという唯心論が考え方の基本になっています。これは主に華厳経に説かれています
仏教では唯識論の研究も盛んにおこなわれました

三界唯一心 心外無別法
心佛及衆生 是三無差別 (正法眼蔵 道元)

唯識論自体が非常に歴史のある考え方で、伝統のなかで色々な決めごとがあって、今に至っては、議論のための議論のような部分が多くなってしまいました
ややこしく考えると、心と識は違うとか

で、まあ、僕なりに要約して言えば


白い矢印が、感じられる前の世界を感覚器官で感じてるところです
で、仏頭が脳で、イメージを作って、「もあもあ」と、自分なりの世界を感じます
イメージを上手に作れなければ、妄想になります
イメージを現実だと思いこむと執着になります
(だから、今、のぞき込んでらっしゃるモニターも、あなたの心の中に作られた「もあもあ」ですよ)

感じられる前の世界はSuperpositionで、過去と未来、右と左、が重ね合わさって共存しています。光速以上の早さで情報が伝達される世界です。
時間と空間は不確定性原理によって、あいまいな状態になっています。この、あいまいさが、実は、「自由」の根源になっているのかもしれません
不確定性原理は、実際に応用もされていて、たとえば走査型トンネル顕微鏡など実用化されてますから、勝手な屁理屈じゃありません

で、「もあもあ」のイメージは、頭の数だけあります
しかし、感じられる前の世界は、「もあもあ」がネットワークになって繋がっている状態ですから、実は一つしかありません
これは、華厳的には無尽重々縁起です
ですから、エヴェレットの多世界解釈は、行き詰まって、ノイマンの「量子力学の数学的基礎」(序文は湯川秀樹が書いてます)あたりからいかないと大統一理論はできないんじゃないかと考えてます


ネットワークは一つですから、イメージが各人別々に作られても、共同体やら、協力やら、仲間やら、お友達やら、普通に暮らしていくことができます
画一的な教義を信じ込ませる必要はなくて、自由にまかせても、仲良くやっていくことが可能です
ただし「もあもあ」がしっかりしていれば、ですけど


ある禅宗の坊さんが、悟りを開いて、あまりの嬉しさに、表に飛び出して叫んだそうです
「雲くーん、君は僕だなー 風くーん、僕は君だなー」


因果応報とか言いますが、つまりは、ネットワークが繋がっていて一つだから、自分のしたことが自分に返ってくるのです
便宜的に、写し取ってと表現しましたが、実は、写し取るもなにも、
あなたは私で、私はあなた、なのです

仏頭がなくなるのが死です
死んでも、執着によってつくられたイメージが「もあもあ」と浮遊し続けます
これが心霊ということになります
仏教的には、霊界を旅する心霊は、いまだ執着を離れないでいる心です
脳がないのですから、心霊は、新たなイメージを作ることができません
それで、同じような繰り言を延々と繰り返すのです
心霊のいろいろな特徴は、これで、おおかた説明がつきます
執着から離れる力を付与するのが供養、ということになってきます
仏教的には「己を忘れて(執着を離れ)他を利する(堂々巡りの苦痛から解放する)」心ですね、つまり慈悲です

で、心霊は感じる前の世界から切り離されていますから、消滅する事がありません
長い旅路のはてに、究極的には、感じられる前の世界とまったくそっくりな存在になります
しかしながら、そこまでに至る歴史は刻まれています

何回も言いますが
感性と理性の統合、慈悲(感性)と智慧(理性)の統合、「見る者・理」と「見られる物・智」の統合、執着を棄て思考停止し感覚遮断した状態が、感じられる前の世界と「もあもあ」が一致した状態です

それで、つまり、神は増え続けます

見る者と見られる物の分離が、「もあもあ」の始まりで、時間と空間の開始点です
不確定性原理で説明されるような、ゆらぎ、あいまいさ、が分離の原因かなー、とか考えてます
分離する必然性があるのですから、いったん分離したら消滅しません


でもって
この矢印が太い人が霊能者なのだと思います。生命進化の必然です。仏教的には五神通です
ただーし
矢印が太くても「もあもあ」は「もあもあ」です。妄想と執着が、自動的に作られます。だから、霊能力がいくらあっても、イメージの正しさとは関係ありません
だから、正しいイメージをもつには努力が必要です
イメージは、教育や訓練で、正しく保つことができます。努力が報われる可能性が開かれています。転生による学習効果もあるでしょうけど、妄想は自動生成しますから、いずれにしても、努力しなければうまくいかないでしょうね


伝統宗教の教義や世界観は、感じられる前の世界をイメージ化した、「もあもあ」です。洗練されてない、宗教や神秘的教義には、妄想がたくさん含まれてます

正しいイメージをもち、「もあもあ」を感じられる前の世界に近づける努力が必要なんですね

ああ、それで、マトリックスですけど、つまり、感じられる前の世界のことになりますね


意識の根源


感じられる前の世界には「もあもあ」が沢山浮遊していて、それが、照らし合い感応しあっている、と
で、時間も空間もゆらいでいて、生と死が重なり合い共存している。情報は光速を越えた早さで伝達される

とてつもなく親切で賢い「もあもあ」さんもいるし、修行中の「もあもあ」さんも沢山いる
脱線したのに気がつかない、いやな奴もいる、と
菩薩とか、神話に登場する神様とか、悪魔とかですね

とまあ、そんなところなんですけれど、それだけじゃないんです


天台大師は華厳を究極のものとは考えてませんでした

また、弘法大師の十住心論では、十番目が秘密荘厳心で密教なんですけれど、華厳は九番目なんです。やはり究極のものではないんです

ソウルミラーネットワークのまだ、その先があるんです

ムフフ



実は、僕の大学の卒業論文は、弘法大師の第九住心と第十住心の境目がどうなっているのかというのが研究対象なんです
論文は学部生のレベルですからたいしたもんじゃないけど、昔からものすごく高度な研究がなされてる事だけはわかりました

学会(がくえ)というんですけど、高野山で行われている密教教学の議論ですね
いまも形ばかりは残っていますけど、江戸時代の一時期、論争に負けたら山を降りなければならないほど激烈な議論がおこなわれました。いろいろ調べましたけど、もう、全く凄い量の研究が残されてます
今もチベット仏教では問答議論が重視されていて、いいことだと思いますね。坊さんの質が高くなるね



十住心論では、第九住心を華厳に配当して、極無自性心としているんですが、その根拠となる経典を各種列挙するなかに守護国界主陀羅尼経という経典があって、そのなかで、[口奄]オン字観の実習方法が説かれています
このオンがですね、ヴェーダなどでも説かれる聖音で、ウパニシャッドでは最高の意義を与えられてます。それが、密教経典の中で、国王を守護する陀羅尼として再生してるわけです。ですけれど、それは究極の成就法ではなくて、第九住心に配当してます
一般に金剛頂経系の密教経典では五相成身観によっって悉地を成就する方法が説かれますが、いちばん最初の通達菩提心の直前が第九住心なんですね
五相成身観と、その前の第九住心に画然とした境目があります
弘法大師的にはですね、そういうことです

天台教学では
お釈迦様が、生涯で説法を始めた一番最初に悟りの内容をそのまま説いたのが華厳経とされてます。これは、天台大師が、いろいろ経典の内容を調べて、説かれた場所と順番を決めていく分類作業をしてみてわかったことです。その結果、法華経に、他の経典にない極めて特異な教説があることがわかり、華厳経などを法華経の前段階の経典であると位置づけました




ソウルミラーネットワークを越えた、意識の源があるんです

それが、キリスト、アッラー、大日如来、久遠仏などと呼ばれる存在です

時間と空間がないところにいるんだから、無始無終でいたるところに遍満してます
数もありませんから、ゼロであり∞です
生死がないから、なんなんでしょう、永遠であると言っておきます

ソウルミラーが浮かぶ空間であり、ソウルミラーを照らす光です
ソウルミラーを妄想と執着から解放する力です
そしてソウルミラーの意識の根源です

空間であり、光であり、力であり、意識の根源です


涅槃の感触


これつまり
-∞=0=+∞ ですから

一神教とか言いますけど、1でも2でも3でも、なんとでも言えばいいんです。数がないんですから
指さす指の数だけ、神話や教義がある、と

神と呼んでも、大日如来と呼んでも、なんと呼んでも、どれも正しく、呼ばれた数だけの表情を見せる、と
そして、名前を付けてしまうと、本物ではなく、名前によって限定されたイメージになってしまいます
これ、仏教では果分不可説って言うんですけど、密教では大日如来って言ってしまうんですね。ま、いいような、悪いような。分かりやすいけど、誤解も招きますね

仏教的には、学びを終えると、この(-∞=0=+∞)になります
涅槃って、そういう意味です
それで、同化して一つになるかと言うと、とにかく数がありませんから、個性を保ったまま、同化します。一即多、多即一です
-∞=1=2=3=0=+∞ です
釈迦如来とか阿弥陀如来、薬師如来いろいろあります
三千仏名経とかありますから、ほとんど、なんぼでもいます



でもって、これが難しいのは、指ささないことには説明できないわけです
困ったもんです

それで、しょうがないんで、僕は、感触っていつも言ってるわけです
これは、ですから、菩薩とか巷の神々の感触とは次元が違う感触です

それで、この感触を感じるには、なんの条件もありません
時間と空間のない世界から、常に(と言うと時間的表現になってしまいますが)照らしてるんですから

海辺で日光浴をするのに、犬でも猫でも人間でも、いい奴でも、いやな奴でも、関係なく、お日様が照らすのといっしょです



善悪正邪損得はネットワークの中のことで、延々と突いたり引いたりしなければなりません
で、本当の救いは、ネットワークの外から来るんです

それで、仏教では如来、来るが如きもの(如きとでも言わないと、意味が限定されてしまいますから)、と言い習わしてるわけです
キリスト教的には啓示です

第九住心と第十住心を、画然と隔てているのは、啓示があるかないか、です
努力の積み重ねではありません
来るんです


これが、妄想と執着とカルマにがんじがらめになったソウルミラーが救われる仕掛けです
ごちゃごちゃと手術みたいなことをする必要はありません

スッキリ、照らされて、救われます

簡単でしょ




ところで、物質は粒子であり波動でもあります
そして、Superpositionであり、あいまいな存在です

霊界と生死ある世界を分けているのは「観察」じゃないかと考えたりしてます
観察によって、Superpositionが実体化されます
ゆらぎがあるから、生死のある「見る者」が生まれるんでしょうね
そして、苦痛が生まれ、救いも生まれる

Superpositionが霊界で、観察する、見る者と見られる物のある世界が生死のある世界です

観察結果は確立論的に偶然に支配されますから、常に不確定な未来が描かれます
「自由」がある、と言うこともできます

ということは、Superpositionである霊界では、ソウルミラーの変化は顕在化することはできなくて、観察がある生死の世界にソウルミラーが変化する可能性があるということになります


わかりやすく言えば
霊界では魂の進歩が出来なくて、人間界に転生してきて初めて、修行することができます
進歩するか、落っこちるか、人間界での修行次第です
ですから、人間としてどのように生きるのかは極めて重要だということになってきます


それで、弘法大師の「声字実相義」になるんですけど
量子論的には物質は粒子であり波動です。声(波動)であり字(粒子)です
それが、言語になっています

弘法大師の場合は、波動は、唯識的な心の中の響きです

五大にみな響あり
十界に言語を具す
六塵ことごとく文字なり
法身はこれ実相なり

五大 地水火風空
十界 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・縁覚・声聞・菩薩・仏
六塵 色・声・香・味・触・法


マトリックスも(-∞=0=+∞)も粒子であり波動であり言語です

「もあもあ」も「ソウルミラーネットワーク」も「次元の違う感触」も、シームレスに繋がっています
波動が違うだけなんです

Superpositionから粒子になると、生死のある世界になります
Superpositionでは全てがあいまいですから、生死のある粒子の世界に変化の可能性があります

それは、波動の変化でもあります

波動が、ある臨界点を越えると、「次元の違う感触」となって、ソウルミラーネットワークから切り離されるんじゃないでしょうか

密教的に言うと、生死ある者達は、ソウルミラーネットワークの中の善悪正邪損得よりも、「次元の違う感触」に近づくほうが意義深いことです
「次元の違う感触」の波動に近づくことが、つまり、霊格の向上です
霊格が向上して波動が臨界点を越えると、ソウルミラーネットワークの輪廻から抜け出して「次元の違う感触」の仲間入りをします
輪廻から抜けでないで、苦しむ「もあもあ」を助ける存在を、仏教では菩薩といいます

と、ここまで理解すれば、あとは
なるべく善いことをしようと心がけて暮らすだけです

ああ、それと、「光の瞑想」をお薦めしますよ
「次元の違う感触」に出会ってくださいね


時空を超えた相関状態

量子論のsuperpositionが、仏教で言うところの「空」と非常に近い概念なのです


実はこのsuperpositionが成り立つと、「自分を変えることで世界を変える」という理論も成り立つのです

それがentanglementsです
密教的に言えば三平等観ですかね

「我とホトケと平等
ホトケと衆生と平等
故に、我とホトケと衆生と平等平等なり
故に、真言行者座を立たずして一切の仏事を成す」

ま、一気にここまで言うと飛躍しすぎと言われそうですが、entanglementsで量子コンピューターを作るつもりらしいですから、笑っていられませんよ

まあ、電波とか電気も、霊的世界と近いと言えば近いしね


i半導体中で量子もつれの生成と検知に成功


「重ね合わせ(superposition)という概念は、何らかの物体が同時に2つの状態で存在できる現象を意味しています
これはとても妙なことで、私たちの日常生活では経験できないことです
当然、量子力学を創り出した物理学者さえも理解に苦しむ大難問でした
たとえば私がここに座っている状態と向こうの方に座っている状態は想像できます
でも、同時に両方に座っている状態は想像できません
しかし、量子力学では、まさに重ね合わせ(superposition)の原理によりこれが可能です
このように原子、電子、分子などは同時に2つの状態で存在することができ、この概念が量子技術を強力なものにします
重ね合わせ(superposition)のさらに延長上にエンタングルメント(entanglements)があります
これには2つの量子的物体が必要です
この2つが絡み合う(エンタングルメントentanglements)と、個々の物体を分けて考えることはできません
エンタングル(entanglements)した2つの物体を宇宙の両端まで引き離したとしても、片方の状態はもう片方の状態に影響を及ぼすという時空を超えた相関をもちます」

 

量子論と心

量子論をamazonで検索すると1500冊位の本があるのがわかります
マンガや絵解きもあって、これはこれで興味深いです

で、僕は、量子論と仏教哲学と接点があるんじゃないかと思っているわけですが・・・

端的に言って、お釈迦様は量子論を研究したから悟りを開いたんじゃありません
ま、関係無いと言えばそれでお終いですが、無くても間に合います



それでも、量子力学は案外身近なんですよね
たとえばパソコンのCPUで使われている半導体

この半導体ですが、電気を通したり通さなかったりするから半、導体ですね
なぜそうなるか、きちんと理解するには量子力学で説明しなければなりません
たとえば、今でも使われている江崎博士がノーベル賞を取ったトンネルダイオードは、まさに量子の不確定性原理によるトンネル効果(Quantum tunneling)を応用しています

トンネルダイオード

平たく考えて、量子レベルで不確定性原理が成り立っているわけですから、結論的に言って、脳も例外では有り得ないわけです

これ、文章で書くと
「量子は観測されるまでは、霧状の存在(superposition)であって、観測された瞬間、収束して粒子になる」
つまり、あなたの知り合いのA氏は、面会するまでは、霧であって、面会した瞬間にA氏となる、てことらしいです

変ですが、この理論でダイオードや電子顕微鏡などが実際使われているんだから、しかたありません

現在のコンピュータの原理を発明したノイマンは、「原子の位置は心の中で決まる」と説いていたわけで、それを完全に否定することもなく今も研究は続行しています
いずれ、もっと研究が進めば、華厳とか唯識、空、といった仏教理論も理解が深まることでしょう

今のところは、仏教は空理空論ではない、とだけ言っておきます

 

Superpositionの仏教的意味

すいません
これからの話は、かなり、わかりにくいです



量子論的には、観測されるまでは物質は粒子として場所を特定することができません
それをSuperpositionと言って、(最近になってようやくネットなどでこの言葉が見かけられるようになってきました)波動として、あそこと、ここと、重ね合わさって同時に存在している状態としています

仏教で言えば、唯識で言うところの所観で、つまり、感覚器官で感じる前の観察対象のことで
たとえて言うと

今、パソコンのモニターを見て、字を読んでますよね
ぱっと、眼をつぶります
その、眼をつぶっている間に、モニターは月まで飛んでいってます・・・

なわけはないのですが・・見てないんだから、わかりません
でも、そこにあったということも、見てないんだから、わかりません

で、そのモニターは、どうなっていたか、有るでも無いでもない、ま、見てないんだからわからない
それを、「空、くう」と仏教では言うわけです

観察によって、時間や空間が生じるのです
つまり、生や死も

考えようによっては、広大な「空」のなかにぽっかりと、あなたの意識が浮かんでいるようなものです


あなたは、今、見たり聞いたりして、生きているという素朴な実感を感じていますが、見ていない、聞いていない、広大な未知領域に囲まれているとも言えます
広大と言いましたが、時間も空間も無い(有ると断定できない)領域です

今、ぱっと眼をつぶってしまえば、眼の前のモニターも、あなたの左右の手も、Superpositionになります


記憶を例にとって話をします
印象深い瞬間というものは、昨日のことであっても、一ヶ月前のことであっても、ありありと思い出すことができます
古いことほど曖昧にはなりますが、きっかけさえあれば、ほぼ同時に思いだすことができます
これは脳の機能だと言う説明が、一応の科学的な説明なのですが、脳を解剖しても過去がでてくるわけではありません
富士山を思い出しても、解剖したら富士山がでてくるわけではありません
積年の恨みとか、秘めたる決意とか、頭蓋骨を割っても、発掘されることはありません
あたりまえですが

「記憶はSuperpositionに蓄積され、脳によって呼び出される」という仮説を立てても、それはそれで、説明がつきそうな気もします
仏教で言うと、カルマですね
過去の行い全て、それと、前世からの影響も受ける、という思想ですけど、成り立ってきます
過去にしたことすべて、消されずにSuperpositionの中に有り続けます(時間が無いんですから)
で、宿命や業からは逃れられないという思想にもなってきますが、逆に言うと、そこをなんとかするための仏教であるのです
(ちょっと脱線した話をしますが、「死」ですけど、今こうして生きてBlogを読んでいるあなたはSuperpositionの中では時空をこえて存在してます
つまり、死んでも消えることなく、時間を超えて今のまま存在し続けます
感覚的には全く理解不能ですが)


さて、では未来はどうなるのか

過去がSuperpositionなら、実は、未来もSuperpositionです
Superpositionでは時間と空間を特定できないのですから
過去と未来は同時に、Superpositionの中で重なり合って存在しています(ま、理論的には)

人間には自由意思がありますから、明日何をするか、これから自由に決めることができます
ですから、いかにSuperpositionであっても、そこに決まった未来があるわけではありません

でも、ワンピースのルフィーのように「俺は海賊王になる」と決めたらどうでしょうか
生まれ変わり、死に変わり、3000年後にはなるかもしれません
ところがですね、あなたのSuperpositionの中には、3000年後の海賊王がいるのです
「俺は海賊王になる」と決めた瞬間に、あなたの本当の心であるSuperpositionは海賊王になってしまうのです

ここのところを仏教では

「汝是當成佛。我是已成佛。 常作如是信。戒品已具足。」
汝は、まさにこれから仏となる
我はすでに仏となれり
常にかくのごとき信をなせば
戒はすでに具足している(梵網経)

平たく言えば、
「俺は仏になる」と決めれば、仏としての行いが出来る、と説いています

Superpositionに仏となった自分がいると、過去の失敗や間違いもすべて意味が修正され、仏となるための修業期間として再評価され、再生します
「俺は仏になる」と決めればですけど

もう少し具体的に言うと
ルフィーみたいにいつも「俺は仏になる」と言ってるってことでしょうか

実は、ほぼ全ての宗派で、毎日言っているのです
お経を読んだ最後に、必ず唱えます

「願以此功徳。普及於一切。我等與衆生。皆共成佛道
ねがわくばこのくどくをもって、あまねくいっさいにおよぼし、われらとしゅじょうと、みなともにぶつどうをじょうぜん

ですから、あなたが3万年後に仏と等しくなったとして、Superpositionには時間はありませんから、今、Superpositionには仏になったあなたが存在してます
極めてわかりにくい話ですが

僕は、仏教の基礎知識で軽く

「仏菩薩を尊敬し
八百万の神を尊敬し
イエスキリストを尊敬し
アラーの神を尊敬し
自分を信じる」

と書いてますが、自分を信じていいんですよ
「俺は仏になる」と決めていれば



「俺は仏になる」と決めてしまえば、どんなに時間がかかろうとも、あなたはいずれ仏となります
未来に仏となったあなたは、Superpositionには時間がありませんから、過去も未来も現在も仏として存在することになります
つまり、今Superpositionで、仏となったあなたが微笑んでいます
現在どういう境遇であっても、これは仏にいたる必要不可欠のステップです
過去の行いはすべて、仏となったあなたに生かされます
細かいことをクヨクヨ心配するのは無駄なことです


仏教では、これを円頓というのです
円、かんぜんで
頓、すばやい


ああ、仏となると決めるからには、仏としての振舞いを目指してくださいね

 

 

 


 

I have an idea !!

 

「見る」「見られる」という基本概念を展開すると





と、まあ

仏教哲学とプラトン哲学と量子論を並べて図示することができます
なかなか壮観です

細かい理屈は抜きにしときます
僕の立場から言えば、細かい理屈とは、脳が紡ぎ出すモアモアですから
いくら念入りに作り込んでも、真実そのものにはなりません


このモアモアが歪み、妄想し、思い込み、勘違いし、自分勝手をし、知ったかぶりをし、エゴイズムにまみれ、脳内お花畑を作り、間違えるのです

人間の悲劇は、自分のモアモアに閉じ込められ、自分のモアモア以外の世界を知ることができないことから生まれます
で、基本、そうならない為にどうするか、というのが大問題です


で、赤丸の部分にちょいと注目してみます


ここの部分が脳幹の網様体賦活系です、五感から意識に「何を入力し、何を入力しないか」を決めていると考えられています

くわしくは、こちら
http://chohoji.blogspot.com/2009/07/blog-post_22.html

脳幹は、それこそトカゲにもあるわけで、生命進化の一番古い時代からある、原始的部分です
「生命の危機」にもっとも敏感な部分ですね

生命維持にとって心地よいものを通過させ、生命の危機を感じさせるものにも敏感に反応します
これが機能しなければ死んでしまいます

で、シンプルに考えて見ると、モアモアを自分にとって都合のいい物に作り上げているのが脳幹ということになります

保身、エゴイズム、自分勝手、自己中心、独善などを、脳幹が自動生成してると言えます
意見の衝突、認識の違い、など、無いほうが不思議です





ここからが、仏教における解決策です

結論を先に言いますと、瞑想が必要になってきます

目をつぶり、五感を可能な限り休止させ、大慈悲が自分に注がれている状態をイメージします
これ「癒される瞑想」です
http://www.chohoji.or.jp/shousei/saloon.htm

禅では、全てをあるがままに認め受け入れますが、実際は、難しいんですよ
なぜなら、脳幹は心地よい物しか通過させませんから

瞑想の目的は、「見える前の世界」(仏教では「空」ですけど)と等しくなることです
観察する主体である自分を消すことはできませんから、「空」と等しくなる
これを般若心経で「無上正等正覚」と言います


普通の日常生活にあてはめれば

落ち着いて、無心になる
私心を忘れ、あるがままを観察する
自分の立場にこだわらず、相手の立場も考える
視点を変えてみる
固定観念を疑う
自説に固執しない

などとなります






ちなみに
洗脳は、この脳幹をいじるんです

たとえば
「おまえは地獄に堕ちる」などと、生命の危機を感じるくらいドカーンと脅かして、(その言葉を言うときに、爆発音を聞かせるなど・・・あんまり言っちゃいけないな)、助けてやれるのは教祖様だけだと徹底的に繰り返します
と、あら不思議、教祖様がすっごく好きになって、言うことをなんでも聞くようになります

これからの時代、放射能、地震、環境汚染など、目に見えにくい恐怖に怯えることが多くなりますから、洗脳されやすい環境ではありますね
テレビの大画面化も洗脳道具にはなるな


ということで、洗脳に打ち勝つ方法としても、「瞑想は必要」という論理的結末になるんですけどね

 


前のページに戻る
最初のページに戻る
長保寺の紹介
長保寺の法宝
聖地巡拝
長保寺と紀州徳川家
歴史の散歩道
参拝案内


Copyright(c) since 1996 CHOHOJI
このホームページの内容を許可なく転載することを禁じます