あなたは仏教を知っているか? 2009/6/27

 

仏となる過程


仏涅槃図(重文)

 

ちょっと抽象度の高い話


 


仏教では、涅槃経で「一切衆生悉有仏性」と言い切って、つまり生きとし生けるものすべて、いつかは仏となると断言している
これが、お釈迦様の遺言で、一代の説法で、最後まで、このことは言わずにいた


どんなにクダラナクても、極悪でも、無気力無意味でも、仏となる過程ということになる
努力とか忍耐とか頑張りや自己犠牲など、してもしなくても、仏となるという結末に変わりはない


となると、修行とか、勉強は、どうでもいいことになってくる
慈悲や善行など、どうでもよくなってしまう
どっちにしろ、仏となるのです


で、これ、やっぱり、そんなにうまい話はないわけで


法華経寿量品に「得入無上道 速成就仏身」(無上の道に入ることを得させて、速やかに仏の身を成就せしめん)と、「無上」「速」とハッキリとした方向感を打ち出している


なにをしてもいいわけではなく、「無上の道」にはいり
いつまでもボンヤリしていていいわけでもなく、「速やかに成就」する


つまり


「仏になる性」を「無上の道」により「速やかに成就」して「仏身」になる


仏性-->無上道-->速成就-->仏身


ということです


で、仏教2500年の歴史は、すべて、無上道によって速やかに仏身を成就することを(さすがに、さまざまな混じりけはあるものの)目標にしてる、ということになります

無上の道を速やかに進んでいる状態が、つまり、仏となる過程であるということです


 


弘法大師は、「三密加持すれば速悉に現る」と言って、まあ、やはり、スピード感を重視してます
ただこれ、既に法華経にもあるわけで、正念誦の最後の祈願で唱える言葉(真言で加行した人はわかるよね)は寿量品からとっているのです


 


無上であることと、速やかであることが、「なにをしてもいい」とか「努力は無意味」とかを否定しているのです

ま、ですけれど、その一方、なんでもかんでも、仏となる過程であることにもなるのです

いかに無上であるか、いかに速やかであるかが問われつつも、すべては、仏となる過程として肯定されます

仏の導きは、ですから、無上であること、速やかであることを念頭になされている、ということになります

昨日は有益でも、今日は無駄
今は正義でも、明日は悪

などなど、道を進んでいるから、変化していきます

決まった答えはないのですが、我々には仏性が備わっているのですから、どうしても無上で速やかな道を探してしまいます

それが、今のあなたです


 

パラレルワールド

仏教哲学の模式図です




わかりやすくはないです


基本的に、仏教は、
「人は感覚器官で脳内にイメージをつくって、実態そのものでなくて、そのイメージにしがみついて生きている」
と、考えています


こうしてモニターを見て、字を読んでいただいていますが
字が見えているのは、自分の目でモニターを見て、視神経を通って信号が脳に行き、脳内で意味を考えているわけです


パッと目をつぶって見えていなくても、モニターはそこにあります
見えている字と、モニターに映っている字は別々なのです


で、これは、目だけでなく、耳で聞く音、鼻で嗅ぐ匂い、舌で感じる味、体で感じる外気の寒暖など、感覚器官で外界を感じて、自分の脳内に印象を作っています
そして、「外界」と「脳内イメージ」は、常に別々の現象です


 

もともと一つの現象も、脳内イメージは、人によって、必ず違うものになります

「見る」という一つのことで考えても、見る角度が別々ですから、必ず見える姿は違ったものになります 

 

先に結論を書くと、神とか仏というのは、人間の作った、脳内イメージです
宗教も、言葉で書かれた脳内イメージです

ユダヤ教のヤハウェ(旧約聖書)
キリスト教のゴッド(新約聖書)
イスラムのアッラー
などは、エルサレムの神の一つの神格の別々の脳内イメージだと考えることができるのです
もっと言えば、その唯一神は、仏教で言うところの大日如来でもあると考えることもできます

その脳内イメージの違いを議論していたら、いつまでも一致することはありません
もともと別々なのですから

で、見える前の世界を説明したいのですが・・・
説明してしまったら、その説明は脳内イメージです
そこんところが困るのです

目の前のモニターで、この文章をお読みいただいているのですが、
「言葉で説明される前のモニターをなんと言うか?」
などと、聞かれても困ります

「字を写す機械」「ブラウン管のようなもの」「発光する点の集まり」などなど、いくらでも説明のしかたがあり、そのどれも正しく、また部分的な説明でしかありません

観察者の数だけ世界があるのです
パラレルワールドですね

ですが、実際は、一つの世界しかありません

その一つの世界には、時間はありません
昨日と今日、過去と現在、など時間の経過は、脳内イメージです

空間もありません
感じる前の世界ですから、あっちとこっち、上と下など決めようがありません

仏教の般若心経では

「不生不滅不垢不浄不増不減
生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず」

と表現します

ナーガルジュナの中論では、八不(はっぷ)と言って説明しています

宇宙においては 

何ものも消滅することもなく(不滅)
何ものもあらたに生ずることもなく(不生)

何ものも終末あることなく(不断)
何ものも常恒であることなく(不常)

何ものもそれ自身と同一であることなく(不一)
何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることなく(不異)

何ものも[われらに向かって]来ることもなく(不来)
[われらから]去ることもない(不去)

戯論(形而上学的議論)の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最も勝れた人として敬礼する

◇引用◇   中村元著「龍樹」(講談社学術文庫)   320ページ

 

あなたが、自分のパラレルワールドこそ正義だと主張しても、それは限定的解釈です

お互いの解釈をぶつけ合っても問題は解決しません

一つしかない真実は、私利私欲や経験を離れて、智慧でなければつかめない、ということになります

 

「どこそこの神を信ぜよ」、などは、偶像崇拝

「死の恐怖」、などは、自分で作り出した感情

「厄年、手相」、などは、集団催眠

「体の痛み」すら、激しい脳内反応

それが、仏教の基本的考えかたということですね


 

一心三観


この図は、天台宗の宗紋です
三諦星(さんたいせい)と言います

宗紋は、家紋と同じく、戦国時代にはきっちりと成立したもので、敵味方の識別マークですね
間違えたら、えらいことになるので、厳格に決められています

背景になっているのは、十六菊紋です
御承知のとおり、十六菊は皇室の紋章です
天台宗は、そもそもは京都の皇室を守るための宗教として始まったからです
京都御所の東北の鬼門の比叡山で、勅許をいただいてお寺(延暦寺)を建立して本山としています
ですから、僕は、毎日、玉体安穏を祈っています
なにがあっても、最後まで、天台宗は皇室の味方です
別に僕は右翼じゃありません
右左などという言葉ができる前から、天台宗は皇室を守護しています

でもって、恐れ多くも、その上に、ちゃっかりと、三つの星が乗っています
これを、三諦星(さんたいせい)と言います

 
三諦は天台学の専門用語で、これこそが天台宗の中心教義です
それを図案化したのが三諦星です 


もうしわけないですが、ここから、また、かなり、わかりにくいです

天台宗による公式な三諦の説明です

諦とは苦集滅道の四諦や真俗二諦の諦と同義で真理を意味し
常識的に真実とされるものは実態のない空諦
実態はないが縁起によって存在する面を仮諦
両者を超えた真理を中諦と称し
相互に具し合うのが円融三諦という
これを観法によって体得するのを空仮中三観とし
漸次に観するのが次第三観
三観各々に他の二観を含め、三にして一、一にして三とするのが一心三観である

天台宗布教手帳


わかります?
坊さんは、こんなことを書いた手帳を本山からもらって、法話をするのよ

はぁー、かんべんして欲しい


例によって図示すると、こんな具合になります


般若心経などで言う、空と色の関係と原則一緒です
まあ、あたりまえです、仏教ですから
ただ、大事なのは、空と仮を一緒にして、それを中として、その空仮中を一心としてまとめたことです
これは、比叡山の最澄の功績です
というか、日本仏教の、インド中国に無い、独創です

インドのお釈迦様の時代の仏教は、出家主義で、仏教の修行をするには、肉食妻帯せず、寺院で生活しなければなりませんでした
これは、日本以外の国では今でも同じです
日本の坊さんは肉食妻帯してますから、タイやミャンマーでは、在家の席にしか座らせてもらえません
まあ、馬鹿にされています

で、日本の肉食妻帯してる坊さんは堕落しているのではなくて、実はこの一心で、形に捉われることなく信仰をしているのです

ここで終わったら、何が言いたいかさっぱりわからないと思います

もともとは、仏教哲学には空観と唯識観という二大潮流があって、空観はナーガルジュナの大智度論、唯識観はバスバンドゥの成唯識論に代表される、膨大な論書が作成されました
それが、今から約1300年前に密教が集大成される時期に、胎蔵曼荼羅(空観を主題にしている)と金剛界曼荼羅(唯識観を主題にしている)に整理されます
この胎蔵曼荼羅(北インド)と金剛界曼荼羅(南インド)はインドでは全く別の土地で成立して、中国でも別個のものとして礼拝されています
胎蔵曼荼羅はそれだけで世界を全て説明し、金剛界曼荼羅もそれだけで世界を説明し切ってしまいます






それを、金胎不二として、両部曼荼羅としていっしょにしたのが弘法大師です
弘法大師が初めて、統一感のある世界像をつくったのです
ただし、天台で言うところのという概念はないのです
不二(ふに)と言うだけで、どういっしょなのかは提示されません

コインの表と裏と、コイン自体と、まあ、論理的には親切な考え方でしょう
で、天台は空仮中と三諦として、これをまとめて一心としました

だからどうなの、ということですが

出家-->真実の生活(精進料理、妻帯せず)
在家-->仮の生活(肉食妻帯)

とします


出家-->真実の生活-->空
在家-->仮の生活-->仮
形に捉われない生活-->現在の日本仏教-->中

ということになるのです

真言宗では、今でも、出家主義が建前です
それは、空と仮があくまで別個で、人間は空を理想とする存在だと考えるからです
これが、肉食妻帯すれば、堕落です

天台宗は、日本仏教の母山として、念仏、禅、法華といった各宗を生み出しましたが、一心で、形に捉われず、仏教を追及しています
それが、大乗仏教の本質です

日本で、最澄が具現化したのですよ
大乗仏教を
お忘れなく

まあ、たとえば

肉を食べたら、鬼ですか?
結婚したら不浄ですか
人間の価値は、そんなことでは評価できません

宗教の名において、生活の価値に上下を作らない思想が、大乗仏教なのです
崇高に感じられる神という概念や、一見厳格な戒律を、すべてとして位置づけ、同時にどのような形式も否定せず、心というシンプルで、もっとも身近なことにだけに注目するのが仏教です

論理的に言えば、仏教というレッテルもいりません
全く自由です
それでいてという、我執や妄想の全くない純粋な「生の世界」と常に交流し続けます

人間から、妄想と自分勝手を取り除けば、かなりに近くなると思いますよ
それが、仏道ですね


 

止観

天台大師像 絹本著色 桃山(16世紀) 長保寺蔵



それ涅槃の真法は 入るにすなわ多途あれども、 その急要を論ずれば との二法を出ず
しかるゆえんは、すなわち結を伏するの初門、はまた惑を断ずるの正要なり
はすなわち心識を愛養するの善資、はすなわち神解を策発するの妙術なり
はこれ禅定の勝因、はこれ智慧の由籍なり

略明開蒙初学坐禅止観要門(天台小止観) 序


止観とは、つまり坐禅のことです

坐禅のやりかたを書いた本は、それこそ膨大なものがありそうですが、実は、天台大師の摩訶止観とその要点をまとめた、この小止観しかありません
摩訶というのは、サンスクリット語でmahaで大きなという意味です

ちなみに、マハラジャはmaha(大きな)raja(王様)です

大小止観で、坐禅を説明し尽くして、あとは、この大小止観の解説本しかありません
それだけ、天台大師が偉かったのと、やはり坐禅そのもがシンプルだからでしょう

きちんと学問的に言うと、手間がかかるので、はしょりますが(^^;)
はぁー、またややこしい話です 
 

もともと仏教の修行の基本は瞑想で、それをシャマタ(止)ビバシャナ(観)と言い、つまり、止観です
仏教独特のものです
タイ、ミャンマーなどでは、これしかやりません

しかしながらインドには、仏教より遥か昔から瞑想の伝統があり、それをyogaと言います
ヨガですね
これはサスクリット語で、「繋ぐ つなぐ」という意味です
英語のyokeの語源らしいです

古代インド伝統のyogaだけで問題が片付くならば、仏教の止観という概念を持ち出す必要ないはずです

まあ、お釈迦様が悟りを開く必要もありません

yogaは、人間以上の超越的存在(神様ですね)と、人間が「繋がる」という意味なのですが、

超越的存在<---yoga(つなぐ)--->人間

この超越的存在の、良し悪しを決めるのは誰でしょうか
ここのところが、大問題なのです

神様は偉い、でかまいませんが、なにがどうして偉いのか
誰が決めるのでしょうか

それは、「自分で決める」というのが仏教です

価値観の尺度が人間に備わっていなければ、判断はつきません
つまり、「それが、仏性だ」ということになります
仏性が人間にあるから、

止-----あれこれ考えるのを止め
観-----心の底からわき起こる、正直な気持ちを観れば
なにをするべきかわかる、ということになるのです


人間には神様の価値を見分ける力がある、というのが仏教の基本的な考え方です

しかし、yogaは、インドの長い歴史のなかで、仏教に取り入れられていきます

お釈迦様が入滅してから、神格化が始まり、釈迦イコール神、になっていき、その神との合一が求められるようになります

神格化は、仏舎利信仰から始まり、その仏舎利を祀る仏塔、そして神格そのものへと深化していきます
最終的に、大日如来を中心とした曼荼羅に集大成されます
ここまでのプロセスに約1000年かかっています

日本に伝わった密教は、歴史的には、神格化の途中のものです
哲学的には最も純粋なものだと思います

インドやチベットでは、肉体的なチャクラとか、それまで外道扱いしてきた神々を取り入れて、オカルト化を進めていきます
チベットでは、ツォンカパが、あまりに呪術的になった密教を仏教として再生しようとします
そこまで、魔法化してしまったのです
インドでは、イスラムによる徹底的な破壊を経て、ヒンドゥーの中に埋没してしまいます
お釈迦様を神様にしてしまいましたから、ヒンドゥーでは、ビシュヌの9番目の化身にされてしまっています

 

 

さて

たとえ、仏教の神様や菩薩様であっても、自分の都合だけで拝んでいれば、それはオカルトになりかけている、ということですね

禅宗は坐禅しかやりませんが、正気を維持するには、一番てっとり早い方法かもしれません

今の天台宗では密教しかやりません
非常に洗練された方法で拝みます
しかしながら、基本を忘れたらいけませんよ、ということです


 

無限ループ

天寿国曼陀羅繍帳 国宝 中宮寺蔵


「世間虚仮、唯仏是真 せけんこけ ゆいぶつぜしん」

「我が大王(厩戸皇子、聖徳太子のこと)の所告(のたま)いけらく、『世間は虚仮にして、ただ仏のみ是れ真なり』と、其の法を玩味(あじわい)みるに、我が大王(厩戸皇子)は、応(まさ)に天寿国の中に生まれましつらんとぞ謂(おも)う。」


天寿国曼陀羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅちょう)の銘文にあります
極楽浄土の様子を刺繍したものです よく「コケにするな」、とか使いますが、これ全くの仏教用語です

天台学でいうですね


眼耳鼻舌身の五感によって、つくられたイメージは仮のものであり、感じられる前の世界が真実です

世間虚仮とは、イメージによって作られた社会生活全般すべて、虚しく仮のものであるという認識ですね
厭世感でもありますが、仮のイメージにしがみつかず、真実を見つめるということにもなります

好き嫌い、損得、利害、すべて虚仮です
冨、名声、地位も虚仮です


イメージにしがみついているかぎり、虚仮からは抜け出すことができません
別に抜け出さなくてもいいですが、真実にはたどりつきません

 
「怨みをもって怨みに報ゆれば怨みやまず、徳をもって怨みに報ゆれば怨みは即ち尽きる」伝教大師

憎しみや怒りも、報復すれば、また新たな怨みを呼びます
まあ、気の利いた解決策がなくても、少なくとも、報復は報復を呼ぶことをわかっている必要があります
報復を止めなければ、憎しみの無限ループが続くのです
 
人は得てして、得意なことや好きなことで失敗するもんですが(酒、女など)、気持ちに任せて無反省に生活していれば、どうどうめぐりで、いつまでも愛憎から離れられません
 
これはもう、人間はイメージの中を生きるしかないのですから、しかたのないことなのですが、イメージに固執しなければ、真実を感じることはできるのです
 
仏教で出家するのは、世間を捨てて山にこもるということではなくて、本当の意味は、虚仮を虚仮としてわきわえて執着しない、ということです
執着から離れられないなら、出家も形だけのことです
 
愛は、ちょっと難しいんですが
仏教では執着のない愛を、慈悲として別扱いしてます
英語だと、慈悲のいい訳語は無いですね
 
執着のある愛は、失うと、憎しみに変わりますが
慈悲は、失うと、憐みですかね
 
執念がなければ生き残れないのが人生ですが、まあ、どうせ最後は死ぬんだし(あー、それ言っちゃお終いよ)あんまりこだわらないことです
 
死ぬことはあっても、それで自分が無くなることはありません
 
 
 
死んでも、感じる前の世界は無くならないのです
だって、有るとか無いとか関係ないですから
でも、生きていると、見えるし、聞こえるんです
 
パっと目をつぶっても、目の前のモニターは無くなりません
 
見えてるということは、イメージが脳内に形成されたということですが、これ、実体じゃないんです
イメージに過ぎないんです
実体は、目をつぶってもそこにあるんです
だから、感じなくても、実体はあります
  
死んで感じなくなっても、実体はあり続けるということです
 
自分がいるという実感も、イメージです
ですから、感じられる前の自分がいるわけで、それが実体です
で、その実体は死んで感じなくなっても、なくならないと
 
思いっきり、わかりにくいですが、こう考えないと説明のつかないことが、やはりあるんですよね 


 

時間を超越した「意味」

胎蔵曼荼羅図 絹本著色 鎌食後期(十四世紀) 長保寺蔵


「越三時如來之日。加持故身語意平等句法門。

三時を越えたる如来の日。加持のゆえに身語意平等句の法門なり

大毘盧遮那成佛神變加持經 入眞言門住心品第一」
 
 

仏教で言う「空」は、感覚器官で感じる前の世界ですから、永遠にどのようなものか、わかることが出来ないことになります
それこそが真実で実体だとしても、感じる前の姿ですから、わかりようがありません

でも、実際に見えたり聞こえたりしてるわけですから、そこにあります

ですけれど、見えたり聞こえたりして感じているのは、結果としての脳内のイメージでしかありません

それで、真実にたどり着く方法論が必要になります


yoga
真実と人間をつなぐ マントラや祈り、瞑想、断食、苦行など、いわゆる修行と言われていること全ての原型があります

止観
感覚器官の制御(制感) 考えたり感じたりするのを休めば真実が沸き起こるという考え方です

加持
仏教ではyogaの影響を受けて、加持という方法論が出てきます
仏教でも瑜伽師地論とか金剛頂瑜伽など瑜伽(ゆが yogaですね)という言葉がそのまま使われることもありますが、日本で密教が集大成されると加持という言葉だけになってきます


弘法大師が明確に密教の方法論を定義します

「仏日の影、衆生の心水に現ずるをといい、行者の心水、よく仏日を感ずるをと名づく

即身成仏義」

もともと大日経にある概念です

三時を越えたる如来の日

この三時は、おやつの時間、じゃありません・・・
ここでは過去・現在・未来のことです

如来とは、「来るが如く」で、厳密には仏とか神とか言ったらそれはイメージにつけたレッテルなので、実体は感じる前の世界にあることを言おうとしてます

如来は、感じる前の世界の存在なので、時間は当然、ありません
ついでに書いときますが、数もありません、大きさも、形も、重さもありません、有るとか無いとかが無いんです
でも、存在してます
存在してる「意味」というか、実体を表にしたのが曼荼羅です
あの世がこんなかっこをしてる、ということじゃありません

感じる前の世界にある、時間を超越した「意味」を視覚化してみたら曼荼羅になったと(つまりこれもイメージですね)

加持のゆえに身語意平等句の法門なり

如来の身語意を三密、衆生の身語意を三業とし、三密と三業が同じになれば、平等になったということです
やってることと考えてることが同じなら、同じになったと

句はメソッドという程度の意味で、方法とか手法とかいう意味ですね

「三密加持すれば速にあらわる」 即身成仏義

手に印を結び(身)
口に真言を唱え(語)
心に仏を思う(意)

これができれば、加持ですよ、と

手と口は、まねればすぐできます
心ですね、修業が必要なのは、ここがなかなか難しいからです

印と真言を習うだけでも大変です
けっこう難しいです
で、形骸化しやすいと

 

合掌礼拝を「身の一密」
念仏や経典読誦を「口の一密」
止観坐禅を「意の一密」

とか言ったりもします

 

空即是色--->加即是持

これが、なかなか理屈どおりに簡単でないと、ま、そういうことです


 

生きる意味

梵天 紙本著色 桃山(16世紀) 長保寺蔵


 


さて、このところ、わかりにくい話が続きますが、今回は、きっと一番わかりにくいです


人間は、というか厳密には、感覚器官を備えた生物は皆、脳内にイメージをつくり外界を認識しています

外界は、一つしかないのですが、脳内のイメージは、それこそ脳の数だけあります
世界そのものと自分のイメージは、必ず別々なんですから、いさかい、思い違い、誤解、妄想があってあたりえです
生命の不幸の根源ですよ
四苦八苦があって当然です
 

で、なんで、そのような仕組みなのか、ということ 


まあ、特に理由はないのかもしれませんが、どうも、こういう仕掛けでないとうまくない理由があるように思います


というのは、もし仮に、生物が感覚器官で脳内イメージを作ることをしなかったら
実体としての感じる前の世界を、誰も感じることがなかたったら
世界そのものが、誰にも知られることがなかったら

世界は消滅してる、ってことではないですか
無というか、無は有があって言えることですから、無よりも徹底した虚無ですね

世界は認識されないと成り立ちませんが、困ったことに、認識されたイメージは感覚器官のフィルターを通した、世界そのものとは必ず別のイメージなのです

で、必ず別のイメージになるんですが、よく考えてみると、世界そのもは自分を知ることは出来ないのですから、この脳の数だけ別々にならざるを得ないイメージだけが世界の姿を知る手段なのです





で、非常に興味深いことに、人間には自由に物をつくり出す創造力が備わっています
自分勝手に、イメージを解釈して、物や事や言葉などを創り出すことが出来るのです
自由意思と言えば自由意思ですが、無秩序なでたらめにもなります

そして、その創り出されたイメージには、たとえそれが妄想の産物であっても、必ず常に感じられる前の実体があります

だから、感じられる前の世界を、どんどんと、豊かに、複雑に、好き勝手に、ついでに言えば、無責任に、創り出しているのです
ただし、自分のイメージと創り出されたものは別々のものです
知らず知らず、世界は、人間の想像力でよく言えば豊饒になっていっているのです

そして、自分のイメージで作られた感じられる前の世界は、結局、自分自身の実体です
このへんが、輪廻転生における、因果応報の理由です

死んでしまって感じることをやめても、感じられる前の世界に、生きている間にイメージしたことの実体が存在しつづけます
そして、また、生まれ出でて、感覚器官を獲得した時に、すでにあるイメージの実体を、改めて感じることになります


グロテスクな憎しみで破壊活動を行うと、感じられる前の世界は、どう変わるでしょうか
グロテスクという言葉になる前のグロテスクですから、言いようがないのですが、いい感じのするものではなさそうです
世界そのものは感じることはないんですから、グロテスクだろうがなんだろうが、関係ありません
無邪気そのもので不生不滅不垢不浄不増不減です
しかも、感じられる前の世界は、自分自身を変える手段を持っていません
ですから、破壊した張本人は、いつか必ず自分のイメージがつくった実体に出会います
自業自得ですね

自由に妄想を創り出すことのできる人間にだけ、感じられる前の世界を変える可能性が残されているのです
自分か、自分を手伝ってくれる誰かと協力するかして、その感じられる前の世界を変えるしかありません

実体と違うイメージをもつしかない人間に、救いは無い、のでしょうか

実際は、そうはなりません

なんとか上手にイメージを書き換えることができれば、まるく収まります
自由意思を行使して、イメージを書き換えるために、僕らは生まれてきたのではないですか
それこそが、生きる意味です


さて、生命進化をつづけて、イメージを極限まで磨き上げた存在も想定されることになります
僕らの意識に、感じられる前の実体があるわけですから、実は、時間度外視で僕らの意識は生き続けています
だから、数のうちには、イメージを完全に完成させた存在があっても不思議ではありません

そう、悟りを開いたブッダや菩薩
あるいは、皆さまの、遠い先祖
世界中の宗教でいうところの神々や聖者

これらの聖者達が、イメージの書き換えを手伝ってくれるなら、案外苦労無く、僕らのイメージとその実体は完成に近づくんじゃないでしょうか
 

えっと、だから
祈りの言葉は
「家内安全、になりますように」や「家内安全、にしてください」ではなくて
「家内安全!!」と断言するのがよい、ということになります


 

イデア



わかりにくいことを書き連ねましたが、おまけにちょっと

プラトンのイデアが、つまり「感じる前の世界」と、近い概念なのです
で、僕としては、どうしてプラトンは瞑想をしなかったのか、疑問です

僕の親類に、田中美知太郎さんの弟子がいるので、機会があれば尋ねたいと思っています

新プラトン主義とか言って、プラトンのもじりが、西洋神秘主義、オカルティズムの背景にあるのです
で、これ、理屈はどうとでもつけられるので、さほどの興味は持っていないのですが・・・

西洋世界では、ローマカトリックがニカイア公会議で、中央集権的なキリスト教にしてしまったおかげで、人間がもっている、やや通常よりも広い感覚(まあ、霊感とか言うわけですが)を、魔女狩りまでして弾圧してしまいます

そのせいかと思いますが、西洋では神秘体験はほとんどすべて、アンダーグラウンド化してしまいます
シルバーバーチなど、キリスト教の修正主義とでもいいましょうか、ウパニシャドや仏教思想とキリスト教のパッチワークですけど、異端かつ、悪魔に分類されてしまうんでしょうね

それで、プラトンのイデアも、宗教の世界では生き延びることはできない環境かと思いますが、強力に西洋文明の底流で生き続けます

キリスト教が神秘体験を異端として追い出してしまったんで、新プラトン主義は、オカルトと結びつくしか行き場がなくなってしまいますが、仏教世界でなら、もうちょっと日のあたる場所もあろうかと思いますね
プラトンはイデアに対するあこがれをエロスとしてしまうんで、脱線してしまいますが、西洋と東洋の接点は、ここらあたりになろうかと思いますよ

プラトンが加持という考え方を知ったら、面白かったでしょうねぇ

で、以前も書きましたが

こちら

ローマは、多神世界で、各地の神々を平等に尊重して、それらを統括する概念がフィロソフィーでした
パンテオンの壁面に神々を祀り、中央部の空間に、人間が来ます
そのまた人間の中心を、信頼したんですね

(今現在はですね、このパンテオンには、カトリックのキリストだけが祀られてます
ま、乗っ取られたんですね)

フィロソフィーする力が人間にあって、イデアが時間を超えてあるなら、仏教との距離は、「その人間が完成の域に到達してイデアを獲得する」ということが現実に起こりうる、ということを受け入れるかどうかでしょうね

それで、幸せなことに、東洋にはブッダが出現しましたから、それは、自明のことにはなりました
ただもうブッダから2500年ですよ
だんだんと、わけわからなくなってきますよね

ですから、僕の言ってることも、わけがわからなくて当然だと

仏教的な考え方の中に、より普遍的な哲学が含まれているという立場ですね

禅とプラトン、かなぁ


 

自由

伊舎那天 紙本著色 桃山(16世紀)長保寺蔵
ヒンドゥーのシヴァ神が仏教にとりいれられた
大自在天とも言う

 


やれやれ、また、わかりにくい話です


なぜ、自由意思があるのか
大問題です

*イメージと実体が感覚器官を境目に分離している
*イメージは感覚器官というフィルターを通して脳に作られるから、必ず実体とは違うものになる
*イメージは、脳の数だけ、てんでんばらばら、別個のものになる
*イメージだけが実体を知る手段
*脳はイメージを自由に解釈することができる
*人間は、自分勝手な解釈に基づいて、自由に行動することができる

そうやって行動している人々が、衝突し、傷つくのは、必然と言わざるをえません
といって、この分離がなければ、世界は存在できません

自由気儘が無ければ、社会はかなり平穏でしょうけれど、幸か不幸か自由はあるのです

で、理屈を言えば
イメージの側に自由があるということは、実体にも「実体としての自由」があります

それを、仏教で諸行無常 諸法無我、と言います

「因縁果報という因果関係の連鎖のなかで、どこかで連鎖を凍結して時間を止めれば、なにか固定した存在を定義できますが、実際は、連鎖は止まらず(諸行無常)、粛々と因果が流れていきます(諸法無我)つまり、物事には定まった自性は無い、と考えられます」

あるいは「空」、「無自性」とも言います

つまり、なんら、実体にはこれと言った定まった性質がないのですから、「完全な自由」と言い換えることもできます
厳密には自由も不自由もどちらもない、完全な、なんでしょうね、とてつもない自由です

ですから、イメージに自由がある、とは、実体が反映されているだけのことです
その、自由が衝突すれば、苦痛や悲惨がある、ということですね

それで、理論的には、イメージが完全に実体と一致すれば、苦痛は全くありません
涅槃寂静ですね
イメージと実体が完全に一致すれば、それが、成仏です
それで、仏教的には、苦痛を離れるために、どうしても仏になる(成仏)必要がある、ということになります

ところが、イメージは必ず実体と違うものになります

実体と違うイメージ---->実体と一致したイメージ

イメージを実体に近づけるように書き換える作業が、自由意思を持つ我々にとって、絶対的に必要だということですね

仏教では、それを、長い長い輪廻の試行錯誤で学ぶとは考えていません
仏の加持によって速やかに成就する、というのが、日本で完成された大乗仏教です

ちなみに、キリスト教やイスラムなどは、唯一の絶対的な神が世界を創造した、ということで互いに衝突したりするのですが、一見慈悲深く見える、その地平線が、正統を競って対立せざるを得ないのが一神教の宿命なのです
構造的な問題を孕んでいると言わざるを得ません

僕らは、否応もなく、多神世界に暮らし、自分と社会の折り合いをつけることで苦しんでいます
今の宗派仏教が完璧でないのが残念ですが、いずれ、仏教的な考え方が、それも、日本で完成された大乗仏教が基調になって、より人間を幸せにする、と思いますね


 

混沌の中の「光」


Picture Album: Galaxy Cluster Abell 1689



感じる前の世界は、般若心経で言うところの不生・不滅・不垢・不浄・不増・不減で、「空」であり「無自性」で、無常・無我で、とてつもなく自由です
そして、その自由は、我々のイメージにも反映されています

で、これ、真っ暗闇の、とことん「無」なのか
無秩序なカオスがあるだけなのか

単純に考えれば、有るでも無いでも、なんでもないんですから、「絶対的虚無」でもいいわけですが・・・


それが、なかなか、そうではないんですねぇ

鍋に水を入れて、ガスコンロの上に置いて、火をつければ、誰でも同じように水を沸かせます
物理的な法則は、万人に当てはまります

仏教のロジックと物理学との接点

こちらで、既に書いていることなんですが、仏教が、我々の世界をきちんと説明しているのであれば、物理学上の法則との接点がなければなりません
その接点が、量子論です
ただ、量子論は実験と観察に基づくのを前提としていますので、人間の心との関係は考えていません

それでも


コペンハーゲン解釈では、電子の位置は、観察されないと決定できません
観察されるまでは、一個の電子は「ある場所にいる状態」と「別の場所にいる状態」が重なりあっていると考えます
重なりあっている、のを英訳するとSuperpositionとなります


エヴェレットの多世界解釈では、観察者の数だけ世界があると考えます。パラレルワールドですね


観察者の存在が重要になってきます



その、自然界にある秩序を、「神の創造」としたりするのですが、まあ、神が創り出したにしては、あまりに悲惨なことが多すぎる世の中なのです

それで、仏教的には、「イメージを何とかやりくりして間に合わせよう」という発想が原点になります

で、歴史的に言うと、タイやミャンマーの上座部仏教、日本から見て言うところの小乗仏教は、それだけでやっていくことになります

大乗仏教では、そんなことしていたら、三大阿僧祇劫かかるとしています
それで、仏菩薩の加持、ということになるのです

劫は1辺1由旬(1由旬は7キロ)の岩を天女が袖で100年に1度さっと払い、石がなくなるまでの年数
阿僧祇は劫の10の59乗倍
無駄だからやめなはれという意味で、三大がつく(^^;)

チンパンジーがでたらめにタイプライターを打って偶然に源氏物語が書き上がる確率、とでもいいますか
イメージを自由放任していても埒があかない、ということを言わんとしているのでしょう


いづれにしても、たいへんな苦労をして、イメージを実体に近づけようというわけなのですが、この実体が「絶対的虚無」だとしたら、まあ、全く張り合いがありませんね

しかしながら、自然科学は、観察と実験によって、我々の世界が美しい秩序を持っていることを証明しつつあるわけです
それがどうした、ということなんですが・・・
 

結局

 
混沌の中の「光」は自分で作り出すもんなんじゃないでしょうか

その「光」の中に、やっぱり神々がいるのです
僕らの道の先を歩いている存在ですね

イメージにしがみつく、のではなくて、イメージを「光」に向けて書きかえていく
神々の助けは必ずある

その「光」を信じるなら信仰だし
信じなくても、「光」を求めない限り、闇の中、です

 


 

実相

ビッグバン wiki

わかりにくい話を、もっと、わかりにくくしてさしあげましょう

 

遠方の銀河の拡散しつつある速度を観測した結果から逆算して、宇宙は137億年前に凝縮された単一状態からビッグバンしたと考えられています
今のところ、この説を覆す事実は報告されていません

当然に、最も最初の凝縮した状態の時に、なんらかの生命があって、宇宙を観察していたということは確認されていません
仏教式に言えば、観察されなけば世界は存在できませんから、誰かが見守っていたことにしなければ辻褄が合わなくなります

ビックバン直前は、少なくとも、脳や感覚器官を備えた生物はいなかったわけで、イメージも実体も無い、ということになってきます・・・

 

実は、ポーのユリイカを引用したかったのですが、手元に本が無いのでネットで注文して、届くのを待っていました
去年文庫で再版されたんですねぇ

文庫の表紙の絵は、ポーの本にある挿絵です
ビッグバンの図と同じですね

ポーは、

原初の事物の原始の単一のなかに、その後のすべての事物の原因がひそみ、同時に、それらすべての不可避的な消滅の萌芽もひそむ

と、精神と物質が、凝縮された一つの状態から膨張し、それが星雲や星々を生み、臨界点に達すると、また次第に収縮して単一に帰る、いわば、ビックバン宇宙論を説いているのです
そして、ただ爆発するのではなく、また収縮し、単一に帰り、爆発と収縮を繰り返すと考えました

神の心臓の鼓動

と、呼んでいます

ユリイカが発表されたのが1849年、天文学でビッグバン理論が発表されたのが1927年
ポーは詩的直観だけで、後の天文学で観測される、宇宙の姿を描いてしまっていたのです

ポーは詩的な直観でこの宇宙論を書き、
「わたしは死なねばならないのです。ユリイカをなしおえてしまったので、わたしはもう生きてゆく意欲がありません」
と、手紙を書いた3ヶ月後、死去しました  


「原始粒子が拡散し宇宙が形成され、やがてそれが収縮して

すべての創造物は程度の差こそあれ、みな知覚をそなえている。
第一に、自己が自己であることを感得する知覚、第二に、そしてかすかで曖昧な洞察によるものだが、いま問題にしている聖なる存在者、すなわち神との同一性の知覚である。
これら無数の個々の知覚力が・・空に輝く星々もろとも・・一つに融合するまでの長い年月のあいだに、二種類の意識のうち、前者は弱くなり、後者が強くなるものと想像していただきたい。
自己同一性の感覚がしだいに普遍的な意識に融合し・・たとえば、人間はいつのまにか自分を人間であるとは感じなくなり、ついには自分の存在をエホバの存在と同一視するにいたるような輝かしい勝利の時代をむかえるものと想像していただきたい」


宇宙が「原始の単一」から始まったとするなら、物質と精神も、単一状態でなければなりません
その状態を、「神との同一性の知覚」とするなら、爆発し拡散するにつれ、同一性の知覚は薄れ悪がはびこり、収縮を始めると意識は融合し神に近づく、という理屈です

つまり、あなたも私も、収縮してしまえば、一つの神に融合すると
正義にあこがれ、神を求めるのは、収縮する力のせいで、悪があるのは、銀河が拡散しているからだと・・・・いうことらしいのですが・・・

 

ビッグバンが否定されない限り、「原始の単一」の時、意識はどうなっているのか、答えが必要です

はたして、一つの神に融合しているのでしょうか?
 

これですね、般若心経などでは、不生・不滅と説いているわけです
有るでも、無いでもない
ですから、イメージを通じて知覚されなければ、世界は存在できないが、世界そのものは、知ろうが知るまいが、おかまいないしに、「有るでも無いでもない状態のまま」だということになるのです

まあ、今ですね、パッと目をつぶって、触るのを止めても、ご覧になっているモニターは消えてなくなっているわけではない、と
でも、目を開けて、確かめてみなければ、ほんとに目の前にあるかどうかはわからないし、触らなければ持ち上げることもできない、と

世界の存在は、感覚器官による認識を必要としてない
しかし、認識されなければ、世界は変化することはできない
ということです


ですから、ビッグバン直前の、「原始の単一」の時には、いわば、Superpositionだけがあったと
ここのところが、どうも言いようがないですが、有るでも無いでもない状態が存在するだけであったということなんです(実体とか、いままで勝手に言ってましたが、天台学で言う、実相ですね。こういう時、仏教語は便利です)

なんでしょうね、霊界だけが存在した、とでも言うのでしょうか
ただその霊界は自分自身を変化させる方法がないので、自由にイメージを持つことができる生命を必要とした
そして、ビッグバンした
まあ、神話ですが

で、その、Superpositionには数はないので、1=∞でもなんでもありで、無数の神々や未熟な魂達が、一つでありながら別々に存在し(一冊の本に無数の文字が詰め込まれるように)、感覚器官で認識されるのを待っていると

ですから、実相には、正邪美醜が詰め込まれているのですよ
それを、より善くしていくのが、生きている人間の仕事、ということです
 
 

ああ、そうそう、ポーですけれど、一神教的な宇宙観ではそうなるが、目をつぶってもモニターが消えてなくならないから、どうも説明しきれてないんじゃないか、ということになりますね


 

判断の基準


これが、「経済危機対策」なのか「バラマキ」なのか

これから選挙になりますから、一応の関心は集めるでしょう
まあ、争点になるかどうかはわかりません
ローカルにはローカルの事情があって、まともな言い分だけが評価されるわけでもありませんから

個人的な評価をしますと、株価が世界に先駆て回復の兆しをみせていますし、経済運営は比較的うまくいっているのではないかと思われます
あまりにグチャグチャになったしがらみの中で、よくやっているのではないでしょうか
もちろん、この先どうなるかわかりませんが、世の中を明るくしようという意図が感じられます
ただし、過去の利権政治の土台の上で実施される政策ですから、昔ながらの金権は温存され、無駄遣いもまかり通るのでしょう
それでも、世界経済が猛烈なリセッションにみまわれているのですから、すべての理想を求めても無理です

どう判断しますかね
生活に直結しますからね

ありきたりの結論ですがそれを決めるのは、神でも仏でもなく、自分だということですよ

その連続が人生です
判断の基準は、自分の中にあるのです

でまあ、僕的には、自分を信じるしかない、と、結構つらい結論なのです
「だいじょうぶか、自分・・・」

その不安や孤独が、宗教を生みだしたり、妄想にすがったり、絶望したり、いわば、悪あがきをさせるのです
それがまた、悪あがきと言って笑っている場合じゃなくて、悪あがきだろうがなんだろうが、やっていくしかありません

選挙の日は迫っております

それで、虚心坦懐、当面の利害得失を捨て、冷静に現実を観察する必要がある、というのが仏教の教訓ではないでしょうか

「リアリスティック」と「インテリジェンス」、ですかねぇ

たいていのことは、解決の糸口が見つかるんじゃないでしょうか


慈悲はどこにあるのか


風天 紙本著色 桃山(16世紀) 長保寺蔵


 
さて、もう何回も繰り返しますが、イメージと実体ですね
感覚器官を境目に分かれています
 
で、その実体ですが、正邪美醜、神々や、未熟な魂達が、有るでも無いでもない状態で、一つでも∞でもなく、無常無我に存在しています
  
たとえば、風が吹いたり、まあ、水が流れたり、自然現象ですが、ダイナミックに活動しています、これは、誰かが見ていなくても活発に動いているわけです
  
ですから、実体は、かなり活動的に運動してるわけです
己の意志があるのではなく、自然に動いています
 
実体は、有るでも無いでもないのですから、苦痛と言うか、不如意そのものが、有るでも無いでもない
願望が、有るでも無いでもない
私利私欲は、無いでしょうが、有るでも無いでもない
喜びも悲しみも、有るでも無いでもない
無為自然、天真爛漫、自然法爾、あるがまま、です
自然現象の実体は混然とSuerpositionで、ひとかたまりであるでもないでもなく、無意味でも有意義でもなく存在しています
 
実体は、感覚器官を通じて観測され、イメージになって、初めて、意味を持ちます
閉じられた本が、読まれるように
 
ですから、慈悲はどこにあるのかと問うならば、有るでも無いでもなく、イメージとして感じられるまでは、読まれずにいる本の物語のように、実体の中で時がくるのを待っています
慈悲は、イメージの中にあるのです
 
止観が実体にたどりつくアプローチだ、というのが仏教の立場なのですが、感覚器官を止めるだけでは、ただの屍で、仏教で言う、悟りではないです
止めただけでは、Superpositionがあるだけで、その中には、無数の物語が読まれずにあり、まあ、インターネットを丸めてビー玉にして、それを見ているようなものです・・・たとえが分かりにくい(^^;)
ビッグバンの前の宇宙です(もっとわからん)
それで、観もセットになっているのです
  
 
慈悲や愛は、自分でつかみ取らなければなりません
あなたが慈悲を感じれば、その時、慈悲があります
あなたが愛を行えば、それが愛です
 
座して待っていても、慈悲は、実体の中で眠り続けるだけです
 
  
「神は愛だ」とか「仏は慈悲深い」とかは定義の問題で、イメージです
あなたがなんにもしなければ、はいそれまでよ、です
当たり前の話ですけど
 
ただし、瞑想の中で、慈悲を強く思えば、慈悲が現れます
それが、光の瞑想なんですが、理屈はもうちょっと複雑です
 
つづく


 

来迎


阿弥陀三尊来迎図 絹本着色 江戸時代 長保寺蔵
 
  

 
単にSuperpositionを認知するだけでは悟りではない、という話の続きなのですが
 
Superpositionを知るのが、無上の悟りなら、昼寝でも修行になります
感覚器官がお休みの状態ですからね
 
 
仏教では、悟りにも段階があって、Superpositionがわかるくらいになって、初心の行者になります(なんか専門用語がありましたが、時代や宗派によって違うので、説明するとややこしくなります)
 
わかりやすく、弘法大師で言うと、10段階にわけてです
 
要はですね、本を開けてみたはいいけれど、活字がランダムに並んでいて読めない状態です
自分に語りかけてくるものが無い
 
無始無終無常無我のSuperpositionなのですが、自然科学によって確認されつつあるように、美しい秩序があります
なぜ、あまりにも整合性のある厳然とした法則があるのか、謎ですね
その、法則(とりあえずこう言っておきます)そのものが、イメージの中で形になると・・・
それが、神や仏の姿になります
神や仏がなぜ人の形になるかと言うと、人の理解力に応じた形でイメージが作られるからです


 

金剛界曼荼羅部分 降三世三昧耶会 長保寺蔵 

 
密教では、三昧耶形(さんまやぎょう)というんですが、神様などがいろいろな持ち物を持っていますが、これなども、理解力に応じて、というか、人の中にあるイメージを借りて、法則が表現されたものです
この三昧耶形の意味は、必ず師から弟子に直接伝授されなければなりません
よけいな意味が入りこまないようにです
これが、密教の秘密性にもなるのです
 
 
ここからは、わかる人にしかわからない話です
 
弘法大師で言うと、ここがです
 
 
神仏は、我々に、常に語りかけています
キリスト教だと、啓示ですね
 
これは、つまり、今までの文脈で言うと、感覚器官が自動的にSuperpositionをイメージ変換していて、ついに、法則そのものと出会う、ということです
 
それは、人が、与えられた自由を行使して、求め続けて、求めても得られないことに気がついた時に、与えられます
一回、スッカラカンにならないと、うまくいきません

本を開いて、意味のない文字の羅列を見て、どんなに頑張っても解読できず絶望したとき
その時初めて、文字が語りかけてきます 
 
向こうから、来るのです
僕らの中には、ありません
来迎ですね
 
来迎というイベントが発生するルールも確認されています

阿弥陀如来を呼ぶ場合は、「南無阿弥陀仏」と念仏してちょーだい
とか
念仏で必ず阿弥陀如来の来迎があります
信じてください
 
だから、理屈を言うと、念仏も、向こうから来たものです
真言とか、マントラですね、これらも向こうから来たものです

般若心経の最後の
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
も、だから、向こうから来て、イメージになった言葉ということですね
 
 
それで、この先に、弘法大師の10があります
それが悟りです

Superpositionには、心があるのです
その心にふれるのです

言葉で言うと大慈悲です



 

密教



丸木の柱ですから、まるで、森の中にいるような感じになります
冷たい空気が下に来ますから、木々の梢の下を通ってくる風は、涼しくて気持ちいいですよ
ここで、ユリイカなど読むのです
 
 
法身は説法する」弘法大師
 
密教の精髄ですね
 
どのように説法するかと言えば、「五大に皆響きあり」で、響きが感覚器官を通じて、脳内にイメージとして色香触味法を作ると
 
ユーミンの歌にありますが
「すべてのことはメッセージ」です
ですから、勝手なことを言えば、ユーミンは密教を布教してることになりますw
 
 
弘法大師的には、「響き」はつまり、Superpositionです
で、それがサンスクリットだ、となるんですが、まあ、どうなんでしょう
サンスクリットもイメージじゃないかと思いますが
波動という説もあるのですが、なんでしょうね、「波とその動き」として観測されてるわけじゃないので、波動はいわば、文学的表現ですね

「水からの伝言」など、どうしていきなり波動になったんでしょうね
水と波で、つながったのかな
水と心が通うでも、念飛ばし、でも、まあ、文学的表現はいろいろあるんじゃないですかね
 
 
さて

銀河系には2000億以上の恒星があるそうですが、宇宙全体には、そのような銀河が1000億以上あるらしいです

しかし、それは、眼で観測して数えるからで、響きとしてとらえれば、実はたった一つの響きしかありません



Barred Spiral Galaxy NGC 1300
->をクリックしてください


こちらでも書いています
 
その響きが真言である、となるのが弘法大師なのですが、サンスクリットにしろ、マントラにしろ、脳内のイメージ、とするのが厳密な態度でしょう
 
真言密教は、真言以外を密教として考えないという立場なのですが、天台密教は、全く違います
 
天台学は、そもそもは中国の天台山にある国清寺で始まったのですが、日本に伝教大師が請来してから、比叡山で密教化します
その時、真言だけでなく、阿弥陀経や法華経、般若心経なども密教に分類します
密教の範囲が、全く違うのです
 
専門的には、「教主の違い」と言うんですが
真言密教では、教主は大日如来です
天台密教では、教主は釈迦如来です、で、釈迦大日一体とします
 
大日如来が説法している経典が、金剛頂経や大日経などです
阿弥陀経、法華経、般若心経はお釈迦様が説法します
 
一見、大日如来だけが密教を説いているようなんですが
お釈迦様の悟りの本質が、大日如来の本質と同じなら、釈迦大日一体で、お釈迦様の説法も、大日如来の説法も同じカテゴリーだとすることもできます
これは、慈覚大師や智証大師が入唐したとき、改めて向こうの坊さんに確認して、大陸正当の考え方であることを、わざわざ確認しています
 
ま、学問的にはそうなりますが
 
真言も、経典の言葉も、同じように、向こうから来て、脳内イメージとなるんですから、来る前の実体は一緒と、考えていいわけです
 
それで、意味がわからずお経を呪文のように唱えても、仏の言葉として尊んでいれば、伝統的に、それはそれでいい、とされているのです
 
ですが、比叡山で天台密教の教理か純化するなかで、意味を知らずに読んでも、真言と同じように効果かあると認定された経典が、阿弥陀経、法華経、般若心経となります
他の経典は、理解し、仏教の意味を知るための経典として分類します
 
こういう土台があって
念仏だけ、題目だけ、をマントラとして唱えるだけで間に合うという、浄土宗や日蓮宗が出てくるのです
ですから、天台学的に言えば、念仏、法華は密教です
  
  
さて、実は、密教には大きな落とし穴があります
なかなか、うまくいかないのです
  
真言や経典の言葉がですね、向こうから来る、のはいいんですけど、それが宇宙の根本で、正義で、愛に満ちて、人々を救うと、どうして言えるのか、ということです
 
縮めて言うと、神秘体験がすべて善きものとはかぎらない、ということですね
それが、悪魔の囁きでないと、誰が決めるのか
 
ここで、つづく、でもいいんですが、書く事を忘れそうなので書いときます
 
そのために、スッカラカンが必要なのです
一回Superepisitionを見て、絶望しなければなりません
禅で身心脱落と言いますが、死んではないんですが、死んだも同然に自分を離れて初めて見える境地です
釈迦は6年苦行し、イエスも40日荒野をさまよいましたが、自分の都合を捨てて初めて、本質が現れる、ということなんですねぇ

欲得抜きで、神秘体験を評価しなければ、私利私欲の拡大になるだけです
御利益先行の神仏詣では、神仏の願うところではないということです

そんなことを言っても、欲も願いも無い透明人間になれるわけではないですし、やはり、難しいんです


 

菩薩

過去現在未来三劫三千仏曼荼羅 三本組 江戸時代 長保寺蔵




さて、そろそろ、わけのわからない話をすることにします
 
 
今まで、模式的に、イメージと実体の境目が感覚器官、という理論を展開して、眼耳鼻舌身の五感までは境目としてきました
 
それで、意識は境目ではない、ということなんです
 
すでにこちらで書いているんで、ちょっと別の角度から書きます
仏教ロジックの模式図
 
仏教の考え方に、まあ哲学ですけど、大きく二つの流れがあります
 
空観と唯識観
 
空観は、イメージと実体ですね、この実体がSuperpositionで、無始無終無常無我で、有るでも無いでもなく、しかし、そこにあるということを説明しようとしています
 
唯識観は、「イメージと実体」が、意識の中で生じる現象だということを説明しようとします
 
仏教の歴史の中では、瞑想体験や神秘体験の、体験したこととうまく整合性のとれるような理論が研究されました
なかなか苦労してるんですが、ここのところが、どうも煩雑なので割愛します(^^;)

意識、マナ識、アラヤ識、如来蔵と意識は階層化しています
説明がめんどくさいので、興味があれば「仏教ロジックの模式図」を見てください(^^;)
 
 
結論的に言うと、意識が、「イメージと実体」の入れ物だということです
わかりにくく縮めて言うと(^^;)、物質も意識の産物です
 
意識は、無始無終無常無我で、てっとり早く言うと、永遠です
それで、僕らの、肉体は死ぬことはありますが、意識は永続というか始めも終りもなくそのまま、ということになります

意識は、境目(唯識の専門用語でいうマナ識)のあっちとこっちを行ったり来たりします(なんのこっちゃ、だと思いますけど)
唯識的には、眼耳鼻舌身の消失が死です
意識は永続します
マナ識が、妄想にしがみつく、まさにしがみついている本質です
マナ識は、意識が成長する(つまり、妄想から解放される)と消滅します
マナ識が消滅した状態が、ブッダです
マナ識が消滅しても、意識の履歴は保持されます、なぜなら、実体には時間や空間はありませんから
それで、ブッダは無数に存在します(厳密に言うと数えることはできませんが)

ですから、僕らは死んでも、今経験していることは、蓄積され、実績として生かされ、輪廻転生を繰り返し、最後は、別々のブッダになります
ただし、実績が評価されてブッダになるのではありません
妄想から解放されるからブッダになるのです
ここのところが大事です
 
輪廻を通じて、栄枯盛衰、喜怒哀楽、いろいろな経験をするんですが、つまりは、妄想が原動力ではあるのです
それで、どれだけ長く転生を続けても、ブッダにはなれません
でも、妄想にしがみつくのをやめれば、ブッダとなり、経験したことは全て生かされます
ブッダにならずに、妄想を離れた状態で転生を続けるのが、仏教でいう菩薩ですね

で、天台学的には、頓悟が可能になります
なんにもわからなくても、妄想を離れることができれば、すぐに成仏が可能です

これがですね、仏教があんまり人助けを熱心に言わないという歴史にもなるんですねぇ
理論的には、山にこもって瞑想して、それだけでブッダになれます
 
ですけれど、ブッダとなったとき、生きとし生けるものの苦しみ喘ぐのが我がこととして迫るのです
ブッダは実体そのものですからね
 
妄想を離れた生活が、菩薩の生活、人助けの生活、ですね


 

魑魅魍魎


Hieronymus Bosch 十字架を担うキリスト

 


 
仏教でいう唯識と現代の心理学の接点を、一時期探したんですけど、どうも、よくわかりませんでした

というのは、現代の心理学自体が、人体実験ができるわけでもなく、反復実証させるわけにもいかず、観察に対する評価の連続で、かなり文学的なんです
まだ未熟な学問なんですかね

フロイトの無意識をピンセットでつまむわけにはいきませんし、ユングの集合意識も、そう考えることもできる、というだけのことです

向神経薬などありますが、わかったような、わからないような

余談ですが、むかーし、知りあいに、テレビ番組の脚本家がいて、この人が統合失調症で薬を飲んでいました
ぶっとんだ、はちゃめちゃな話が得意で、まんま、地ですね
そのお父上が東大の神経科のお医者さんで、薬をいろいろ人体実験といったらいけませんが、試していたのです
知り合いは、薬がどのように効いてくるか、言葉で説明するわけです
物書きですから、詳しく描写するわけですよ
壮絶な、科学の、現場ですね


脳科学も、これからですね

洗脳も研究しましたよ、かなり
ホメオスタシス(恒常性を保とうする自律的働き)とか条件反射を応用するらしいです

精神分析とか、ヒプノセラピーとかね、言葉が重要で、これかなり、臨機応変で、なにか法則性があると言えばあり、ないと言えばないようなで

で、心理学という名で、あんまり物語を拡張しちゃいけないな、とは思いますね
 

それでも、仏教の場合、4世紀頃から、心に着目して研究を重ねているのですから、まあ、実績と言うか、歴史はありますね
研究が進展しているのか、と言われそうですけど、サンスクリット、チベット、漢文の経典や論書の突き合わせを厳密にする、といった段階ですかねぇ
テキストクリテイークというやつです
考え方の変遷とか、どこから影響をうけたとか、わかってきます
これはこれで興味深いです

ただ、仏教の場合、自分で坐禅なり、修行をしますから、「ああ、これはこう」と自得することが多いのです
それが、自己満足かどうかという問題はありますが、どのみち自分で納得するまで試行錯誤するしかありません
 

さて

それで、唯識で、瞑想体験や神秘体験の、説明はつきます
仏教では応用もかなり進んでいます

いわゆる、先祖供養、加持祈祷、などです
先祖供養など、どの宗派でもあたりまえにしていますが、「先祖を供養することができる」という理論的根拠は、唯識ですよ
つまり、気持ちが通じる、ということです
経典でいえば、華厳経の重々無尽縁起ですかね

 
それで、霊の話をしますが

眼耳鼻舌身、意識、マナ識、アラヤ識、如来蔵とあって
眼耳鼻舌身が無くて、意識、マナ識、アラヤ識とあれば、霊界の存在です

眼耳鼻舌身は肉体に特有のものですけど、はっきり言って、霊界の存在でも霊的な感覚器官を持っている者もいます
理屈は、よくわかりません
生命に進化があるように、霊にも進化とか変化があるのでしょうね

仏教では、欲界・色界・無色界と三界に分けて考えます
欲界は人間のいるところですね、欲想のある世界、(ここには人間以外に魑魅魍魎や神々もいます)
色界は、欲が無く、形と思念がある、(神々や仏菩薩がいます)
無色界は、思念だけある、(神々がいます)
それぞれの階層に住民がいるわけです
つまり霊界で、人間も霊の一員ですね

大日如来が説法するのは色界です
仏とか菩薩は、形がありますからね
三界の住んでる場所で、貴賎があるわけじゃないみたいです

まあ、でもこれ、神話と言えば神話です
各宗教、似たようなことを勝手に言っていると言えばお終いですが、証明のしようがありません
三界説も、また細かく階層を分けて、兜率天が人間界に一番近いとか、いろいろ言います

それを、仏教では、神秘体験で検証し、理論化し、経典や論書に残すわけです
で、その神秘体験そのもが、イメージです
パラレルワールドなんです
それで、宗教によって違う天界神話ができてくると

仏教の行者が、己の霊界を見たことは間違いありません
ですから、順を追って、仏教の修行をすると、おなじ霊界を見ます

でも、宗教によって違うんですよ、見え方が
それは、イメージを作る時に、その人が持っている、神話的予備知識に左右されるからですね
だから、いろいろ他宗教のことを勉強すると、見え方は変わってきますよ
  
 
長くなりましたが、もう少し

これがですね、神様同志は、イメージのパラレルワールドはないですから、お互いのことは、よくわかっているんですよ
あんまり、己の神話にこだわらないことです、妄想に毛の生えたようなものなんですから



 

多神世界


山王垂迹神曼荼羅 絹本着色 江戸後期 長保寺蔵


「日吉山王の諸神の姿を画面に構成したもので、諸神の数や配列に多少の異同がある。本図の場合、神殿の内陣に上七社の七神、外陣に猿面の大行事と早尾の二神と狛犬一対を配し、下方の階段付近に神猿を描いている。」




仏教が日本に伝来してから、基本的には神仏習合で、日本古来の神様と、仏教の仏菩薩天は同時に信仰されていました
それが密教では真言系が両部神道、天台系が山王神道と独自に理論化して、本地垂迹(ほんじすいじゃく)と言うのですが、日本の神々の本体は仏様ということにしました

天照大神=大日如来とか、あてはめていくわけです

よく権現様と言いますが、仏様が仮の姿で(権)あらわれた(現)という意味です
 
ローマのパンテオンは円形に神々を並べて中心に人間がくるのですが、垂迹説では、本体が仏ということで、仏教的世界観の敷衍になるのです
しかし、統一見解といったものはなくて、宗派や時代によって、少しずつ違います
 
つもり、これも、イメージがパラレルワールドですから、いろんな解釈が成り立つということです・・・ここだけ読んだらなんのことかわかりません。前の記事からお読みください(^^;)

多種多様な神様達がいるのを、どうまとめるかという、いわば政治的動機が根底にあって、共和制的神殿になったり、中央集権的曼荼羅になったりするということですね
一口に多神教と言ってもいろいろあるということです

これが、ローマカトリックやイスラムでは、もう個性的な神々はいません
否定されてしまいます
 
 

それで、今の世界を考える時
キリスト教やイスラムなどの一神教や、仏教や神道、ヒンドゥーなどのような多神教が同時に存在してるわけです
多神世界であるのが現実です

多神世界である、という現実をスタートラインに考えていく必要があるのではないですか?

これを、一神教の人たちは認めないのですよ
ま、妄想にしがみついているのですね

ただ、多神世界では、神様達が仲がいいか悪いかという問題が生じるのです
スサノオの神話や、まあ、いろいろあります

神々の世界にも秩序が求められるのですね

それで、僕ら自身が、現代の多神世界が、共和制神殿なのか中央集権曼荼羅なのか、イメージを創り出す必要に迫られているのです

僕は、パンテオンですよ
ただし、パンテオンの中心は、仏心です
 
よいことをすれば、いい神様
わるいことをすれば、悪い神様
生まれによって善悪はない、行いによって善悪がある

ま、仏教の基本です

 
 

余談ですが

神様には眷属(けんぞく)がいるんですね
神使ともいいますが、使い走りです

鹿  春日大社・鹿島神宮・厳島神社
兎  住吉大社
猿  日吉大社・春日大社
烏  熊野三山・諏訪大社・日吉大社
鳩  八幡宮
鶏  伊勢神宮
蜂  二荒山神社・日吉神社
鰻  三嶋大社
鼠  大黒天
蛇  弁才天・大神神社
海蛇 出雲大社
狐  稲荷神
牛  天満宮
亀  松尾大社 
狼  武蔵御嶽神社・三峰神社

神使wiki


これねぇ

熱心に、こういう神様拝んでると、その人の周りは、うじゃうじゃとね
なってきます

人間界の邪魔しないように、なだめるため、おまつりしてる神様もありますが、しばしば羽目を外すんじゃないですか

桃太郎の家来のようなもんで、主人の言うことは聞きますが、甘やかされていると、悪さ、いたずら、からかい、冗談など連発します
神様にも都合がありますからね

最近の外国産は、トンデモなのがほとんどです
つまり、外国で相手にされないのが来てたりします

仏教の修行の邪魔をした話も、もう、お釈迦様の時代からあります

坐禅してたら、蛇にぐるぐる巻きにされたとか
仏に化けたとか

これはこれで、難しいということですね



 

神通




 

無宗教の人に、いい人もいれば悪い人もいる
無神論者に、いい人もいれば悪い人もいる
仏教徒に、いい人もいれば悪い人もいる
キリスト教信者に、いい人もいれば悪い人もいる
イスラムに、いい人もいれば悪い人もいる
唯物論者に、いい人もいれば悪い人もいる
坊さんに、いい人もいれば悪い人もいる
神主に、いい人もいれば悪い人もいる
学校の先生に、いい人もいれば悪い人もいる
などなど

およそ、レッテルがどうであれ、中身は別です
ま、イメージと実体ですねぇ
これが、こんがらがっている人が多いのです

レッテル貼りは、妄想にしがみつく行為そのものです

日本はどう、韓国はどう、アメリカはどう、と、割と簡単に一般化した議論をしますが、一種夢遊病のようなものではないですか
レッテルを剥がしたらどうなるか、よく考えてから議論を進めた方がいいですね
ちゃんとした結論が欲しいなら


ところで、仏教哲学の「空と唯識」ですが、これを前提に考えたら、いろいろ不思議なことになるのですね

相手と、向かい合って話をしてるとします(対話です)

パッと目をつぶると、相手は見えなくなります(あたりまえですが)

その時、相手は、Superpositionにいます(理論的には)

自分の心の実体はSuperpositionです(厳密には自分自身がですが)

で、Superpositionは、有るでも無いでも無く、一でも多でもなく、始めも終わりもなく、というか、観測されないんですから、どうなっているかわからず、仏教で言えば、空であるわけです(実相でもいいですが)

ですから、空の中で、相手と自分の心は、一緒にいます(だから、一でも別でもないんですが)

その時、自分の心にマナ識がなければ、相手と自分は一つです(ここがミソです)

マナ識は仏教で厳密に定義されてますが、ここではザックリ省略して、レッテルにしがみついている状態とします(妄想に執着してるってことですね)

純粋な子供、自分と他人の心の垣根の低い人、など、レッテル貼りはあまりしません(一口に言うと、先入観の無い、やさしい人かなぁ)

仏教では、妄想を離れれば菩薩です(つまり、先入観を捨て、レッテル貼りをしない人)

だから、先入観を捨て、レッテル貼りをしないと、空の中で相手と自分の心が、繋がります(相手を理解するってことです)

仏教では他心通といいます(天眼通、天耳通、など他にもあります)

これは、目の前の人でなくても、地球の裏側でも、時間を隔てた、過去の歴史上の人物でも、同じことです(Superpositionですから、どこでもいっしょです、というか、一でも別でもないです)

まあ、普通に、相手と心が通う、理解を深める、話がかみ合うとかの、理論的根拠ですね

で、これは、基本です 
 

ここから、応用編

先ず妄想を離れます(えっと、座ってする密教の修法ですね)

つまり、対象に対して、先入観を捨て、レッテル貼りするのを止めます(心の中で)

この時の対象は、仏です(つまり、仏と心が通います)

それから、誰か対象になる人を思い浮かべます(仏と心が通った状態のままで)

すると、対象になる人が仏と繋がります

これ、加持祈祷の原理です

座っている間は、やさしい気持ちになって、自分の都合を捨てるのがコツですね
というか、自分の願望成就を思うってことは、妄想への執着ですからね

仏が心の中に、しっかりと存在する人なら、簡単にできますよ

まあ、法華経の自我偈には「毎自作是念」と「つねに自ら(お釈迦様自身が)この念をなす」と、お釈迦様が僕らのことを念じてくれていると書かれているわけで、つまり、僕らは、念じなくても、信じなくても、念じてもらってますから、簡単と言えばこれほど簡単なことはありませんけどね

 


 

不思議



我々、お互いが、実はSuperpositionの中の存在なんですよね

こうして文章を読んでいただいていますが、書いてる僕は、あなたにとってSuperpositonの中にいます
僕にとっては、読んでいただいている方々がSuperpositionの中にいます

だから、理論的には、時空を超えて繋がっています
僕らは今、霊的な存在である、と言うこともできます
地球の裏側の人から見れば、僕らは空の中の住人ですからね

くどい事を書きますが、Superpositionは物理的に観測される現象で、この理論をもとに走査型電子顕微鏡など実用化されているわけで、無視できない事実なんです


自分が今生きているという感覚も、厳密に言うと、そう思った瞬間に過去になっているわけです
いったいいつ生きているのかというと、未来はまだ来ていませんし、生きているなと思った刹那は過ぎ去ってしまっていますから、生きる暇がない、と言うのも変ですが、考えてみると不思議です

唯物論的な理屈をつけても、仏教的な理屈をつけても、しょせん、よくわからないことへの屁理屈なんですから、ムキになってもしょうがないと思いますよ

まあ、僕がこうして、かなりアバウトな話をつづけているのは、几帳面につじつま合わせをしても、実際のところを説明しきれるものでもないからです
あまりに綺麗に理論を作りすぎると、そうですね、たとえて言えば、sudokuが、あと最後のひとマスで出来あがるのに、どうしても埋まらず、結局最初から全部間違いだったようなことにもなりかねません

数独

・・・いいんです、わかりにくくて (^^;)


心の「ある」ことを否定する人は無いと思いますが、どこにあるのかということになったら、脳でもいいですが、パカッと二つに割っても心が出てくるわけでもなく、理解しずらい対象ですね

と言って、全く不可知かというとそうでもなく、中途半端にわかっているというか、理解途上にあるというか、あてになるようなならないような、よくこれで平気で暮らせますよね

「ある」という概念がそもそも間違っているのかもですね

この瞬間が、与えられているというか

生きてるだけで丸もうけ、ですよ、ほんと


 

霊験


法華曼荼羅図 絹本著色 天明3年(1783)長保寺蔵

中央に釈迦如来、多宝如来が並んで座っています
これは、「イメージと実体」の象徴的イメージです
法華経寿量品の中で、美しく文学的に表現されています


 

 

 
「真言行者、座を立たずして、一切の仏事をなす」

身語意を加持して、仏と我と衆生が繋がると、仏の力が衆生に注がれます

実相の中で、三平等になるからです

その瞬間、行者は衆生の痛みを感じます
そして、衆生が仏の力によって癒されていくのを感じます

衆生の苦しみが大きければ、行者は耐え難い苦しみを受けることもあります
初心の行者は、衆生と繋がるのを制限しながら、仏との繋がりを深めなければなりません
しかし、加持を繰り返すうちに、徐々に行者は仏と深く繋がり、苦しみを癒す力が大きくなります



人には、様々な才能というか個性がありますが、加持のできる人も、まあ、才能の有る無しがあって、天才もいれば、どうも伸び悩む人もいます

でも、たとえば音楽がそうですが、楽しむことは誰でもできます
演奏家や作曲家は、苦しんだり努力したりが避けられませんが

天台学は、もともと中国で始まりましたが、比叡山で、まったくの密教になってしまいました
それは、やはり、密教の現実世界を変える、応用力というか、霊験ですよね、これが桁違いに強いからです

霊験と書くと、理屈無視のようですが、順を追って考えると、それなりに仏教哲学の中で辻褄はあってます


ですが、大前提があります
僕は、仏の存在だと考えています

つまり、ものすごい昔に、仏教的修行をして、自己を完成させた人がいる
ということです
道の先を歩いている存在ですね

まあ、お釈迦様ですね、歴史的には

やっぱり、仏の力が注がれている
これが、感じられるかどうかです

苦労した人は、やはり、仏に近いですよ
威張ってたらだめだな、わからなくなる

純真な、お子さんは近いんじゃないですか
子供に出来ることだから、実は、簡単なことなんですよ
むしろ、大人になって、権威とか知識を振り回すようになると、だめですよね


仏の力が感じられるようになると、これ、拝んでばっかになります
世界を、てっとり早く善くできるように感じるからです
昔の偉い坊さんは、拝め拝めと、めちゃくちゃ厳しいです(^^;)

僕なりに言えば
天才はそれでいいんです

ですけど、チベットみたいにあまりに観念的になって、戦争の代わりに瞑想しよう、てなとこまでいくと、歴史的には失敗してます

やっぱり、いろんな人が住んでいる世の中ですから
音楽の世界に、作曲家、演奏家、歌手、聴衆があるように、役割というか住み分けかな、あるんじゃないですか

 
霊験はね、求めたら得られないんですよ

自分を差し出して、人を助けようとすると、現れるんです

まじない、魔法などの、儀式や物と交換で生じるのは、マジックよ

仏には、慈悲しか通じませんよ


 

宗教の限界


法華経 平安後期 長保寺蔵



一神教に限らず、宗教には限界があります

奇跡が思った時に、思ったように起こらないとかじゃありません
奇跡は、そもそも、コントロールできないから奇跡なのです
加持祈祷の結果も合理性の範疇の外ですから、なるようにしかなりません

加持祈祷についていえば、祈っていて、手ごたえが有る無しは歴然としてあります
よく「法がかかった」とか「法が空回りする」とか言います
でも、結果がどうなるか、やってみなければわかりません
巷の拝み屋は、営業トークでいろいろ言いますが、なんでも拝めばよくなるなら、世の中に悲劇などありませんよ

そうではなくて

宗教という統一性のある物語も、イメージであり、パラレルワールドであるということです
ただし、そのイメージは、世界の根源からの語りかけであり、パラレルワールドの住人にとって真実との唯一の接点です
イメージは、暫定的理解、などではなくて、絶対的な真実からの語りかけなのです

真実が、各種あるからパラレルワールドなのであって、これが衝突の原因にならないほうが不思議ですよ

ですから、一神教が、自分の正義を絶対化するのは当然として、多神教や無神論も、絶対化されざるを得ないようになってきます
唯一の真実がイメージとなったのが、その人にとっての宗教なのですから

宗教戦争は不可避で、神学論争が尽きることはない、ということになりそうです
 
 
宗教の教義を絶対化するのではなくて、その教義が生まれた源泉の、そのまた源
つまり、Superpositionですね、ここまで遡れば、衝突がおきることはないと思いますよ
僕が言っている、「仏教を基調とする考え方が世界に必要」というのはそういう意味です

それを、神の意志、とか、物質の相互作用、とかのレッテルを張って、わかったつもりになっているんじゃないですか


何回も言いますが、パッと目をつぶったら、眼の前のモニターは、消えてなくなったのではなく、どうなったかわからない状態で(見てないんだからわからなくて当然です)、有ると言ったら、見てないんですからウソになり、無いと言ったら、そりゃそんなことはないのです

物事は、認識した瞬間に、イメージとして脳内に生じ、それは、各人別々のものになるしかないのです

イメージを自己主張しても、対立するのは当然です

ですから、見える前の世界を、これは、智慧で探究するしかありません
それがギリシャ式にいえばフィロソフィーで、仏教で言えば、空観ですよ

ギリシャでは、無知の知、を説き、わかったつもりになるなという訳ですが、当然の論理ですね
イメージは実体ではないんですから

仏教は空観と唯識観が合体して、最後は密教になります
応用に行ってしまうんです
平安時代以降、夢中で加持祈祷に励むのです
それが、鎌倉期に庶民層が勃興して、自分たちの自我意識に目覚めます
それで、実用に問題のない単純化をした、念仏、禅、法華が流布します

なんか、基本に「空と唯識」があるのは、顧みられなくなります
それで、間に合うんですよ

ただし、それは、今までは間に合った、ということじゃないですか
自分たちのイメージを絶対視してればよかったんです
だけれども、それじゃ、衝突が起きるのです

 
これから、僕らは、多様な価値観がぶつかり合う世界を生きていかざるを得ません
現実的に言うと、ドル安がもたらす通貨の多極化と、それに伴う安全保障の混迷です

ここで、タコ壺を掘る人もいるんです
穴を掘って、隠れるんですよ
間違いじゃありませんが、どうなんでしょ、行き止まりだなぁ

僕に言わせれば、多様な価値観のパンテオンの中心に、結局、自分なりのフィロソフィーを確立するしかないのです

仏教の「空と唯識」は、益々重要にならざるを得ません
日本の伝統仏教は真価を問われると思いますよ

 

 

 

 


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