= I want you to know that there are other ways =

I respect Buddha
I respect Christ
I respect Allah
I respect many Gods
And 
I believe in my good heart

You know that there is polytheism and monotheism in this world
Please you know that it is a world where there are many gods
By believing in yourself, you can become friends with anyone in the world


= Healing meditation =

Please smiling(It is very important tips)
Breathe quietly
Imagine all the love being poured into your heart
With love of all, please sigh gently

That love is coming from your true heart
If you think to try,you are able to create a true love


秋海棠


= I want you to know that there are other ways = 

I respect Buddha
I respect Christ
I respect Allah
I respect many Gods 
And 
I believe in my good heart

You know that there is polytheism and monotheism in this world 
Please you know that it is a world where there are many gods 
By believing in yourself, you can become friends with anyone in the world 


シリア付近で日本人が拘束されたという情報があるわけですが・・・
拘束されていたアメリカ人が殺害された様子がYoutubeに流されましたが、殺害したとみられる隣にいる黒装束の人の訛りから、殺害したのは英国人であるかもしれないということで、なんとも情報が錯綜しています
いずれにしても、遠く離れた地のできごとですから、簡単に様子はわかりません
ですが、日本は中東地域の石油に大きく依存しているので、まったく無関心でいるわけにもいかないのです

「イスラム国」を名乗る集団が、たいへんな軍事力を備えて、少数派の異教徒に改宗を迫っている、という報道もあるようです
まあ、これも、実態はどうなのか、慎重に見極める必要はあるでしょう
戦闘地域ですから、宣伝・煽動・謀略などの可能性がつきものですからね

それにしても、イスラムのやりかたは、普通の日本人からみると、やはり想像の範囲を超えています

Youtubeでシリア内戦の様子をみることができますが
「アラーアクバル」としょっちゅう叫んでます
アラーは偉大なり、という意味なんですが、イスラムの立場からすると神はただ一人しかいませんから、「アラー」とは「おお、神よ」と、単に神に対する呼びかけです
神に命じられて戦っているわけではなく、戦っている人が「神は偉大なり」と神に呼びかけながら戦っている、という状況ですね
ですから、宗教同士が戦争してるということではなく、異なる思惑で戦闘している人間が、異なる宗派に属しているという状況でしょうか
となると、宗派同士の和解など、戦闘終結には意味は無い、ということなります
シーアとスンニの違いなど、日本人的な発想からすれば、それが殺し合いの理由になるのが理解できないわけですが、宗教への帰属以前に、思惑や利害の対立があるのでしょう

さて、ちょっと話が飛びますが

仏教はインドに始まって、南伝してスリランカやミャンマーの上座仏教になり、北伝してチベット仏教になり、東伝して中国へ、そして日本の大乗仏教になりました
とすると西伝はどうなったのでしょうか
ペルシャ方面ということになるのですが・・
これは、僕は多分そうだと思っているのは、イスラムのスーフィーが、仏教の影響をうけているのではないかということです
どこらへんが、というと、「瞑想して神と一体になる」という立場がです
普通、キリスト教とかイスラムなどの啓示宗教は、神に祈りを捧げても、「瞑想」という広い意味での「修行」で神に近づけるとは考えません
また、ギリシャ哲学には瞑想という言葉さえありません
「瞑想」は、極めて特異な文化なのです
それがスーフィーには「瞑想」が必要なのです
その発想がですね、時代的にも、仏教における密教の成立年代と近いのです

密教は、とどのつまり、お釈迦様が涅槃にはいられたあと、我々がどうやって仏性を獲得するかということが命題です
で、その「仏性との合一」が「神との合一」になっても不自然ではないということになります
ですから、密教がイスラムに浸透したとしても、なんら不思議ではありません
ついでに言うと、キリストが誕生した時の三博士は、たぶんインド方面からきています

すべからく、この世界に文化的相互作用など無い、と考えるほうが無理なんですよ


宗教とか宗派には、立派な開祖がいて、精緻な理論や長い伝統があるわけですが、その開祖が、自分の代わりに働いてくれたり、朝起きてトイレにいってくれたり、腹がへったら飯を食ってくれる、というわけではありません
生きていくのは自分です
その素朴な事実から始めて、地に足の着いた考え方をしたほうがいいですよ
無神論者になれと言っているのではありません
この世界は、現実に、様々な宗教宗派のある多神世界なのです
他の宗教宗派を攻撃することを目的にしたカルト教団もあるのですが、人の心を暴力で支配するのは長続きはしないし、そもそも無理です

合理的、現実的に考えれば

I respect Buddha
I respect Christ
I respect Allah
I respect many Gods 
And 
I believe in my good heart

ここに行き着くと思うんですけどね



数珠



Can you believe in the good heart of your own ?

あなたは、「自分の良心」をどこまで信用しているのでしょうか
単なる自己満足や、思いあがり、とかでなく、本当のところ、「自分の良心」をどこまで信用していいのでしょうか

これですね、細かな説明は省略しますが、仏教経典の中では、「自分の良心」は「仏の心」に続いていると説かれています


一切衆生悉有仏性(一切の生物に仏性あり) 涅槃経

依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
(向こう岸に至る智慧によるが故に、無上にして正しい覚りに正に等しきものを得る) 般若心経

良心を突き詰めていくと、仏心に突き当たる、と
そこまで言い切るのは、仏教だけだと思いますよ
キリスト教やイスラムでは、人は絶対に神にはなりませんが、仏教は、なんてったって成仏を目指してますからね


I respect Buddha
I respect Christ
I respect Allah
I respect many Gods 
And 
I believe in my good heart


神を信じろとか、仏を信じろとか、なにか出来合いのものを信じろという話じゃありません

あなたが、自分を信じる、という話です

で、よくある話が「自信がない」ということ
自分で自分の嫌なところ、弱いところ、ダメなところなど、いくらでも数え上げることができるのです
だれが何と言っても、あなたのことはあなたが一番よく知っているわけですから、この結論を覆すつもりはありません

自信がないのに、自分を信じろと言われても、よけいなお世話でしかありませんよね


十一面千手千眼観世音菩薩  長保寺

あなたを、拝んでいます




あるいは、よけいなお世話かもしれませんが、仏教では、ホトケがあなたを信じてくれています


毎自作是念 如何令衆生 得入無上道 速成就仏身
まいじさぜねん いがりょうしゅじょう とくにゅうむじょうどう そくじょうじゅぶっしん

つねに自らこの念をなす 何をもってか衆生をして 無上道に入らしめ 速やかに仏身を成就するかと(法華経如来寿量品の最後の部分)

これは、お釈迦様が、つねに、今この時も、自分で自発的に、あなたを無上道に導こうと念じている、ということです
「救って欲しい」とお願いされたからではありません いつも一方的に無条件に念じていらっしゃいます

つまり、お釈迦様が念じてくれています、今、この時も

普通、宗教というと、神や仏を信じなさいと言う、と思ってらっしゃるでしょうけど、あなたが信じるのではなくて
ホトケがあなたを信じているのです

それで、あなたは、自分を信じる
あなたが信じる、自分の良心が、ホトケの心に続いている
ということなんですねぇ


百日紅


「良心」とは、つまり、目に見えないし、もちろん触ることもできません
有るといえば有り、ではどこにあるのかと言えば、さて、どこにあるのでしょうか
大事にするべきとは思っても、具体的に、なにをどうすればいいのでしょうか


You are believed
お地蔵さんが、あなたを拝んでいます (長保寺西地蔵)



では、あなたに問います

「本当は、こうするべきだと思っていた」
「正直いって、こちらのほうが良い」
「間違っていると、うすうす感じていた」
「今は、これが私にできるかぎりのことだ」
「至らないかもしれないが、誠心誠意、精一杯のことをしよう」
「こうしたら、皆のためになる」
「これ以上、皆に迷惑はかけられない」

そのように、思った経験があることと思います
では、なぜ、そのような思いが浮かぶのでしょうか

その理由は様々だと思いますが、これを仏教の立場でとことん考えたのが、「天台本覚思想」です
細かい説明は省略します、ご興味あれば、ググってみてください
天台宗のみならず、日本の特に、禅・浄土など鎌倉仏教の思想的淵源です
つまり、「人は本来覚っている」という思想です
だから、人は、悔み、反省し、向上心を持つ、と

本覚讃は、典型的な本覚思想のお経です
古来、短い偈文にして唱えられてきました
三十七尊が心の城に住んでいる(本覚讃)と説かれています

金剛界三十七尊曼荼羅  長保寺

つまり、仏教で「良心」とはどのようなものかと図示すると、こうなるわけです

キリスト教やイスラムでも、もちろん、「良心」の奥深い研究がなされていることと思いますが、仏教に匹敵するかどうか・・
というのは、仏教では、この「良心」に到達するために、座禅であるとか念仏であるとかの修行法を編み出してきたのです
つまり、理論と実践が、仏教には、あります


いかがでしょう
あなたの心の中に、この、曼荼羅があるのですが
ご存知でしたか


神秘体験とか宗教的体験を、専門的には変性意識状態と言ったりします

ご先祖さまを夢で見た
虫の知らせ
胸騒ぎ
ありえない偶然の一致
極めて鋭い直感
霊感
超能力
臨死体験
神の声を聞く
霊を見たり、感じたりする

など、ひとくくりにして、変性意識状態です
長く生きていると、どこかで出くわすもんです、それほど珍しいことじゃありません
非日常的な感覚ですけど、逆に言うと、たまにはある感覚です


月輪観


この、変性意識状態は、体験した者にとっては、実際に起こった出来事であり、疑う余地のないものですが、これを他人に説明するのは極めて困難です

ごく稀な感覚ですから、なかなか共感は得られないのです
ところが、経験した本人からすれば、嘘偽りのない実感なわけです

それで、神から啓示を受けた、無上の悟りを開いた、などの、どうしても人に言いたくなるような至高の体験は、その説明が受け入れられるには、なにかわかりやすい例え話か、既存の神話的物語があったほうがやりやすい、ということになります

それを、「変性意識状態を神話的コスモロジーによって説明する」と言います
あるいは、「深層意識のイメージと神話的コスモロジーの一体化」とも言います

神話的コスモロジーは、たとえば、同じ様な変性意識状態の絶対的存在感を、キリスト教文化圏なら「天の父」、イスラム文化圏なら「アラー」、仏教文化圏なら「大日如来」とか、その文化圏特有の既存のイメージと物語で、合理的に説明しようとして作り出される世界観です
説明は人間社会で人為的に創作されますから、千差万別、各種ある、ということになってきます
それで、異なる宗教や、宗派の解釈の相違が、必然的に生まれるのです

グルメリポートで、同じような天丼を食べても、いろんなリアクションがあるようなもんです


乳香 主にキリスト教の教会で使うお香


起承転結が完結しているからこそ、コスモロジーなわけで
神話的コスモロジーには、あらかじめ決められた結論があって、必ず決められた結末に導かれることになります

おおまかに言えば
キリスト教なら天国
イスラムならアッラーの御下
仏教なら極楽
グルメリポートなら、この店だけで食べられます

それで、同じ変性意識の体験をしても、コスモロジーが違えば、否応なく、異なる結論に導かれることになります
人間の心の仕組みが、それほど違うとも思えないし、唯一の真理がいくつもあっても困るわけですが、神話的コスモロジーが違えば、全く同じ現実や経験から、違う行き先に導くことができるということになるのです

つまり、創作されたコスモロジーが違うから、違う宗教になるのです
そして、宗教体験は、コスモロジーがなければ、説明できないのです


21世紀の世界では、より普遍的なコスモロジーが求められているわけですが、いわゆるカルトは、その逆を行くわけですね

蛸壺に隠れるか、平原をまっすぐ進むか、さて、どちらを選びますか


それぞれ、私が撮影した写真です
仏様は、皆、微笑んでいます


インド サールナート博物館 初転法輪の釈尊

サールナート博物館では、現在は内部の撮影は完全に禁止されていて、「初転法輪の釈尊」の写真は大変貴重なものになってしまいました
展示されている仏像のなかでも別格の存在です
この仏像だけ、個室に展示されていて、インドの人たちが行列をつくって参拝しています



インド ブッダガヤ大塔 降魔の釈尊

釈尊が悟りを開いたところに建てられた、ブッダガヤの大塔の内部に安置されている仏像です
タイ式かな
陸続きなので、現在のインドでは上座仏教の影響が強く出ています



タイ ワット・ポー 涅槃仏

タイのワット・ポーの巨大な涅槃仏(長さ46m、高さ15m)です
大きすぎて、うまいこと撮影できません



インドネシア ボルブドゥール 微笑む釈尊

実は、今年の春にインドネシアに行ってきました
インドネシアは、ほぼイスラムで、ほかにバリヒンドゥーがありますが、仏教は無くなってしまっています
インドでもそうですが、仏教はヒンドゥーに埋没してしまうのです
ヒンドゥーでは、釈尊も数ある神様の一つですから、問題ないという立場です

仏教とヒンドゥーの決定的違いは、仏教では「空」を説きますが、ヒンドーゥーには「我」しかないことです
日本の神道と仏教は仲良くやっていますが、やはり、そこのところは違います





「空」は、哲学的立場であるともいえます
触ることも、見ることもできませんから

今、モニターを見てらっしゃいますよね、では
パッと目をつぶってみてください

その間に、モニターは月の裏側に飛んでいってます

なわけはないのですが
見てないから、わかりません

わからないけど、ある

それが「空」です

だからどうした、とおっしゃるかもしれませんが、
我々は感覚器官を通じて外界を認識して脳内に再構成しているのです
ですから、実際は、脳内世界を生きているわけです
で、真実の世界は、感覚器官で感じる前の世界なわけです

脳内世界が「色」
真実の世界が「空」です

脳内世界の「色」は、脳の数だけあることになって、対立、独善、妄想、など自動的に生み出される原因になるのです
「我」と言うこともできます
つまり、不幸の原因です

じゃ、「空」はどうなっているのか、ということですが、見たり触ったりする前の世界ですから、絶対に説明することができません
でも、そこにある

「空」を感じることは、つまり、真実の世界を感じることです

お釈迦様は、その方法を見出したから、悟りを開いたわけです
その、第一歩は「微笑むこと」です


= I want you to know that there are other ways = 

I respect Buddha
I respect Christ
I respect Allah
I respect many Gods 
And 
I believe in my good heart

You know that there is polytheism and monotheism in this world 
Please you know that it is a world where there are many gods 
By believing in yourself, you can become friends with anyone in the world 


この先、大統一理論ができて、仏教、キリスト教、イスラムが統合することになるのでしょうか
そうすれば、一切の宗教対立もないし、唯一の真実を拠り所にして安心して暮らせるようにも思いますけれど・・・・・

実際は、なかなか簡単ではないでしょうね

仏教だけ考えても、北伝のチベット密教、南伝のタイ・ミャンマー・スリランカなどの上座仏教、東伝の中国・韓国・日本などの大乗仏教、西伝はイスラムへの影響、さらにその別れと、分派しつつ流布していきました
日本に伝わってからも、法相、天台、真言、禅、念仏、法華、さらにその分派、そのまた別れと、どんどん分裂していきます
どうも、この先も、益々、分派分裂していく見通しですね

所詮、宗教は脳内世界ですから、脳の数だけ教義があって不思議ではないです


日本仏教に限って言っても
日本の仏教は、壮大な伽藍から始まり、平安時代に山岳仏教になり、中世に日本的な発展を遂げつつ地方へ伝播していきました。江戸時代に檀家制度が確立し、今日では各家庭に仏壇が置かれるところまできました。中央集権的な時代には大伽藍で国家の威信を示し、平安時代には貴族の祈祷道場としての霊力を求められました。それが鎌倉時代にはいると、地方にも中央に拮抗するような勢力が芽生えはじめ、仏教の大衆に向けた発展が加速され、中規模な寺院が日本全国に作られました。江戸時代には封建社会を固定化するために、各村落にも寺院が作られ檀家制度が浸透しました。寺院は国家から地方、そして小さな村落へと変化しつつ発展してきました。そして今は各家庭に仏壇が置かれるようになり、違和感無く我々の生活に溶け込んでいます。
つまり、大⇒中⇒小と流れてきているわけです。で、次なる発展は、国家中枢⇒上流階級⇒地方豪族⇒地域社会⇒家庭ときて、こんどは個人でしょうか。たとえて言えば、大規模通信設備⇒公衆電話⇒固定電話の次に携帯電話がきたように、仏教の個人化がくると考えられます。
細分化は不可避だし、自然な流れなのです



仏教では、古来「月を指す指」と言っているのですが、月は一つであっても、それを指させば、人の数だけ指があるのです
月を指し示すには、自分で納得のいく「月をさす指」が必要になります
指がなければ、指し示すことはできません
月があることを否定しないなら、「月をさす指」はなくならないし、脳内世界の数だけ、つまり、人の頭数だけ指は必要になります

仏教やキリスト教、イスラムも、いまさら過去の資産をすべてぶっ壊すわけにもいきませんし、自分の宗教を拠り所にして、どこまでも追求するしかないと思います
自分の宗教が世の中に合わなくなってきたのなら、その宗教なりに納得のいく理屈を発明して、修正・改善するしかありません

僕は、仏教は空観と唯識観に基いてますから、それほど大きく修正する必要はないと思ってますけど

長保寺 本堂前の石段


人は人、自分は自分で
今、登っている石段を、自分で踏みしめて、登っていくしかないのです




Please smiling(It is very important tips)
Breathe quietly
Imagine all the love being poured into your heart
With love of all, please sigh gently

That love is coming from your true heart
If you think to try,you are able to create a true love

 

Please smiling

Breathe quietly
Imagine "OK"
Sigh gently
Imagine "Fine"

And end with thanks




長保寺国宝多宝塔(1357)


おおよそ650年前の建造物です

最高度に研ぎ澄まされた、人間の感性が、時代と共に進化するのか
今を生きる我々の感性は、むしろ劣化しているのか
細部に至るまで、一切の妥協のないものを、一生のうちに一つでも作り出せるのか


ボーっとしてる時間がありますよね
その時
微笑んでみてください
お風呂場でも、トイレでも、どこでも


Please smiling(As Mona Lisa)

Breathe quietly
Imagine "OK"
Sigh gently
Imagine "Fine"

And end with thanks


かすかに微笑む(モナリザのように)



息を吸うとき 慈悲(love and wisedom)が体にはいる ありったけのイメージで思う



息を吐くとき 感謝しながら吐く

あなたの中に元々ある、すばらしい心が、仏の慈悲に洗われて、輝く

自分が自分に目覚める それを「悟り」という

リラックスして

1分でも3分でも5分でも、15,30でもいいからやる

どこでもできる

疲れたらやめる がんばる必要はない

いつでもできる

Easy and Simple




La Mona Lisa revela un nuevo secreto de Leonardo Da Vinci


僕なりの、瞑想法の詳しい解説は

QuantumSenseと仏教」に書いているのですが、「微笑む」のが大事な理由は書いてないなぁ


いろんな瞑想法がありますが、「先ず微笑む」というのは、今まで僕は聞いたことがありません

仏教で言えば「摩訶止観」とか「清浄道論」とかにも「微笑む」ことは書かれていません
(「摩訶止観」は大乗仏教唯一の座禅の方法の解説です。「清浄道論」は、南伝仏教最大の修行法の解説です)


僕がBlogで「先ず微笑む」ことを書き始めたのは、「Image Training Meditationからで、これが2004年ですから、かれこれもう10年以上前から言っています
最初のうちは、素朴で整理されていませんね

癒される瞑想」は2006年からです
徐々に加筆して現在に至っています


僕が、「微笑む」ことが大事だと思い始めたのは、お世話になった悉地成就者の影響が一番大きいです
この方はもう亡くなりましたが、五神通の有る方で、僕は、お経に書かれていることは全部本当なんだと、目の当たりにしました
この方は本当に笑顔ばかりでした
語り尽くせないエピソードがありますが、全て常識はずれの話ばかりですから、省略しますけど

ま、それで、自分の経験とか、いろいろ考え合わせてみると、微笑まなきゃだめじゃん、と確信するに至ったわけです

ブッダガヤ 金剛宝座 降魔印の釈尊
(現在、金剛法座は二重に柵で囲われて、近づいて写真を撮ることはできません)



微笑むこと
自分を信じること
「ホトケになる」と決意すること
ホトケがわかりにくければ、真実の自分でもいいですが
この3つが大事かなぁ
その他のことは、些細なことですよ





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